八代英太氏、無所属での立候補を正式表明 東京12区 (朝日新聞) - goo ニュース
「バランス感覚」
この言葉は、日本人の特徴を最もよく表している。昭和30年(1955)の革新合同と保守合同以来、いわゆる「55年体制」の下、「2大勢力政治」が行われてきた。自民党VS日本社会党の図式である。中道政党である公明党、日本社会党から分裂した民社党、最左翼の共産党は、どちらかと言えば、「革新勢力」に含まれていた。だから、「保革2大勢力政治」と言い換えてもよい。
いまの日本の政治は、政権交代可能な「2大政党政治」へと向かいつつあると言われるけれど、実は、「保革2大勢力政治」の時代の中選挙区制度による国政選挙でも、その気になれば、政権交代は可能であった。
国民・有権者は、絶妙な選挙結果を示していた。つまり、保革いずれの勢力も極端に多数議席を確保するというのではなく、保革伯仲のという極めて絶妙にバランスのよい議席配分をしてみせたのである。国民・有権者が、選挙結果について、事前に打ち合わせてしたわけではなかった。だから、ちょっとした議席の移動により、革新政権が誕生しても不思議ではなかった。
それができなかったのは、ひとえに革新勢力の中心であった社会党はもとより、民社党と中道政党の公明党の3党が、「共産党」を排除していたからである。公明党は、「盗聴問題」などをめぐり激突していた。
革新勢力が大同団結できなかった結果、「自民党単独(もともと自民党からの家出組であった新自由クラブとの連立を含む)」の「長期政権」が、「38年間」も続いたのである。
保革拮抗というバランスを崩したのが、現在の民主党の小沢一郎副代表であった。革新勢力が一つにまとまれない以上、革新勢力が政権を樹立することは、未来永劫にわたって不可能と思われたからである。小沢副代表は、自民党を分裂させることで、あえて、保革2大勢力のバランスを崩し、共産党を除外した議席のなかでの「2大政党政治」を実現しようとしたのである。
政権交代により、官僚政治を打破し、政財官学の癒着のテトラ構造を強固に結びつけている「鎖」をバラバラにして、癒着が生み出す「腐敗」を撲滅し、政治家が官僚の思うままに操られるのではなく、政治家が官僚を使いこなすまさに政治家主導という本来の政治のあり方を体現しようとした。
保革2大勢力政治における「バランス」が崩されたのであるから「2大政党政治」へと、政界を再編しなくてはならない。
その手始めに、小沢副代表がつくった新生党、細川護煕代表の日本新党、武村正義大代表の「新党さきがけ」、それら公明党なども加わり、「8党派連立」による「細川政権」が誕生し、ゆくゆくは一つの政党にまとまるものと期待されていた。
ところが、野党に転落した自民党が、「社会党」を抱き込み、政権に復帰してしまった。このときできた村山政権は、「野合」とさんざん不評を買ったものだった。自民党の蘇りにより、官僚政治を打破し、政財官学の癒着のテトラ構造を解体し、腐敗を撲滅するという小沢副代表の目論見は、一時、挫折してしまう。
その後、いくつかの政党が生まれたり、消滅したり、合併したりして、今日のような自民・公明連立VS民主党という対立構図が出来上がった。公明党は、連立により自民党の「懐」に飛び込み、次第に同化されつつある。革新勢力の中心だった社会民主党(旧社会党)国会議員の大部分が、ドロ船から脱出して、民主党に逃げ込み、逃げそびれた福島瑞穂党首らが、頑なに民主党に吸収合併されるのを拒み、いま風前の灯し火となった社会民主党消滅のときを待っている。共産党は、今日もなお、排除されたままである。
さて、今回の「小選挙区比例代表制度」の下で行われる総選挙では、自民・公明連立VS民主党という対立構図のなかで、国民・有権者は、どのように「バランス感覚」を働かせるのであろうか。自民党から「郵政民営化反対派」が弾き出され、これを補うための「刺客」が放たれるなど、「小泉劇場」が、マスコミに次々と話題を提供し、一見すると小泉自民党圧勝の予感を与えているのであるけれど、「保革2大勢力」のときのような単純な対立構図と違い、「バランス感覚」を働かせるのが、かなりややこしくなっているのではないか。しかも、純粋な「小選挙区制度」であるなら、それこそ極端に一方の政党に偏り、圧倒的に多数の議席をもたらすことも考えられるが、「小選挙区比例代表制度」という奇妙奇天烈な制度での選挙である。「比例代表制度」が、「バランス感覚」を働かせるのに役立つ面があるだけに、「小選挙区」側の投票行動と「比例代表制度」側のそれとの組み合わせとなると、「バランス感覚」がチグハグに働き、「アンバランス」な結果が出てくる可能性もある。 また、小泉首相から「郵政民営化の賛否を問う」と言われても、国民・有権者の大半が、「生活実感」を持っていない様子なので、果して小泉首相の思惑通りに「賛否を問う選挙」になるか否かも疑わしい。解散後、短時間でバタバタと候補者を立てられても、甚だ困るのである。
候補者を単なる「リトマス紙」と割り切れれば、こんにたやすいことはない。だが、「人間の心」というものは、コンピューターのように「YES・NO」、「0・1」、「白・黒」というように働くものではない。日本人は、土壇場になれば、「義理と人情と浪花節」に涙を流す民族である。
ちなみに、NHK大河ドラマ「義経」は9月4日、源平合戦のクライマックスである「壇の浦の決戦」の場面になる。平家を滅亡させた後、義経は「悲劇」が待ち構えている。「判官贔屓」という言葉として伝えられてきたように、兄・頼朝に追討された義経の悲劇に日本人はいまなお、心を揺り動かされ、涙腺を緩ませる。
自民党執行部は、郵政民営化法案に反対した八代英太元郵政相を東京比例区から立候補させるか否かを検討した結果、「例外を設けることはできない」との理由から、これを断念した。このため、八代元郵政相は、東京12区から無所属で立候補するそうである。これも未練たらたらで戴けない。それよりも、国民新党か新党日本かに入り、正々堂々と「反小泉自民党」を掲げて戦い、民主党、公明党とぶつかり、仮に落選しても比例区で救われる道を選ぶべきではないか。「悲劇の主人公」の方に国民・有権者は案外と同情するはずである。
「バランス感覚」
この言葉は、日本人の特徴を最もよく表している。昭和30年(1955)の革新合同と保守合同以来、いわゆる「55年体制」の下、「2大勢力政治」が行われてきた。自民党VS日本社会党の図式である。中道政党である公明党、日本社会党から分裂した民社党、最左翼の共産党は、どちらかと言えば、「革新勢力」に含まれていた。だから、「保革2大勢力政治」と言い換えてもよい。
いまの日本の政治は、政権交代可能な「2大政党政治」へと向かいつつあると言われるけれど、実は、「保革2大勢力政治」の時代の中選挙区制度による国政選挙でも、その気になれば、政権交代は可能であった。
国民・有権者は、絶妙な選挙結果を示していた。つまり、保革いずれの勢力も極端に多数議席を確保するというのではなく、保革伯仲のという極めて絶妙にバランスのよい議席配分をしてみせたのである。国民・有権者が、選挙結果について、事前に打ち合わせてしたわけではなかった。だから、ちょっとした議席の移動により、革新政権が誕生しても不思議ではなかった。
それができなかったのは、ひとえに革新勢力の中心であった社会党はもとより、民社党と中道政党の公明党の3党が、「共産党」を排除していたからである。公明党は、「盗聴問題」などをめぐり激突していた。
革新勢力が大同団結できなかった結果、「自民党単独(もともと自民党からの家出組であった新自由クラブとの連立を含む)」の「長期政権」が、「38年間」も続いたのである。
保革拮抗というバランスを崩したのが、現在の民主党の小沢一郎副代表であった。革新勢力が一つにまとまれない以上、革新勢力が政権を樹立することは、未来永劫にわたって不可能と思われたからである。小沢副代表は、自民党を分裂させることで、あえて、保革2大勢力のバランスを崩し、共産党を除外した議席のなかでの「2大政党政治」を実現しようとしたのである。
政権交代により、官僚政治を打破し、政財官学の癒着のテトラ構造を強固に結びつけている「鎖」をバラバラにして、癒着が生み出す「腐敗」を撲滅し、政治家が官僚の思うままに操られるのではなく、政治家が官僚を使いこなすまさに政治家主導という本来の政治のあり方を体現しようとした。
保革2大勢力政治における「バランス」が崩されたのであるから「2大政党政治」へと、政界を再編しなくてはならない。
その手始めに、小沢副代表がつくった新生党、細川護煕代表の日本新党、武村正義大代表の「新党さきがけ」、それら公明党なども加わり、「8党派連立」による「細川政権」が誕生し、ゆくゆくは一つの政党にまとまるものと期待されていた。
ところが、野党に転落した自民党が、「社会党」を抱き込み、政権に復帰してしまった。このときできた村山政権は、「野合」とさんざん不評を買ったものだった。自民党の蘇りにより、官僚政治を打破し、政財官学の癒着のテトラ構造を解体し、腐敗を撲滅するという小沢副代表の目論見は、一時、挫折してしまう。
その後、いくつかの政党が生まれたり、消滅したり、合併したりして、今日のような自民・公明連立VS民主党という対立構図が出来上がった。公明党は、連立により自民党の「懐」に飛び込み、次第に同化されつつある。革新勢力の中心だった社会民主党(旧社会党)国会議員の大部分が、ドロ船から脱出して、民主党に逃げ込み、逃げそびれた福島瑞穂党首らが、頑なに民主党に吸収合併されるのを拒み、いま風前の灯し火となった社会民主党消滅のときを待っている。共産党は、今日もなお、排除されたままである。
さて、今回の「小選挙区比例代表制度」の下で行われる総選挙では、自民・公明連立VS民主党という対立構図のなかで、国民・有権者は、どのように「バランス感覚」を働かせるのであろうか。自民党から「郵政民営化反対派」が弾き出され、これを補うための「刺客」が放たれるなど、「小泉劇場」が、マスコミに次々と話題を提供し、一見すると小泉自民党圧勝の予感を与えているのであるけれど、「保革2大勢力」のときのような単純な対立構図と違い、「バランス感覚」を働かせるのが、かなりややこしくなっているのではないか。しかも、純粋な「小選挙区制度」であるなら、それこそ極端に一方の政党に偏り、圧倒的に多数の議席をもたらすことも考えられるが、「小選挙区比例代表制度」という奇妙奇天烈な制度での選挙である。「比例代表制度」が、「バランス感覚」を働かせるのに役立つ面があるだけに、「小選挙区」側の投票行動と「比例代表制度」側のそれとの組み合わせとなると、「バランス感覚」がチグハグに働き、「アンバランス」な結果が出てくる可能性もある。 また、小泉首相から「郵政民営化の賛否を問う」と言われても、国民・有権者の大半が、「生活実感」を持っていない様子なので、果して小泉首相の思惑通りに「賛否を問う選挙」になるか否かも疑わしい。解散後、短時間でバタバタと候補者を立てられても、甚だ困るのである。
候補者を単なる「リトマス紙」と割り切れれば、こんにたやすいことはない。だが、「人間の心」というものは、コンピューターのように「YES・NO」、「0・1」、「白・黒」というように働くものではない。日本人は、土壇場になれば、「義理と人情と浪花節」に涙を流す民族である。
ちなみに、NHK大河ドラマ「義経」は9月4日、源平合戦のクライマックスである「壇の浦の決戦」の場面になる。平家を滅亡させた後、義経は「悲劇」が待ち構えている。「判官贔屓」という言葉として伝えられてきたように、兄・頼朝に追討された義経の悲劇に日本人はいまなお、心を揺り動かされ、涙腺を緩ませる。
自民党執行部は、郵政民営化法案に反対した八代英太元郵政相を東京比例区から立候補させるか否かを検討した結果、「例外を設けることはできない」との理由から、これを断念した。このため、八代元郵政相は、東京12区から無所属で立候補するそうである。これも未練たらたらで戴けない。それよりも、国民新党か新党日本かに入り、正々堂々と「反小泉自民党」を掲げて戦い、民主党、公明党とぶつかり、仮に落選しても比例区で救われる道を選ぶべきではないか。「悲劇の主人公」の方に国民・有権者は案外と同情するはずである。