6月のあたまに両親のお墓参りに新潟の十日町市に行ってきました。
法事ではなく個人的なお墓参り、それと父が幼い頃に一人でお世話になっていた親戚の家があった
「越後川口」に行ってみることが目的の1つでした。
父の十七回忌が去年、母の二十七回忌が来年、の狭間の訪問。
私が母の亡くなった歳を越えたことがきっかけでもあるのですが。
父は晩年「(神奈川の家を畳んで)新潟に住みたい。」と言っていました。
でも歳を取り伴侶を亡くし独りになってからの田舎への転居は難しいですよね?
実現させる為に何かをしてはいなかったけれど、そういう思いを持っていたことがずっと気になっていました。
「帰る」のではなく「(行って)住みたい」というのは何故だったのかと。
今はその地に眠っていることで満足してもらえたでしょうか・・
自分も歳を取り、このあとのことを考える年齢になってきて、もしかしたらそれは心に残る
「原風景」を追い求めるものだったのかなとふと思いました。
もちろん年を経て移り住んだとしてそれで幸せを得られたかどうかは判らないし、でも社会に出る前にあった自分の居場所が思い出の中で大きくなって行っていたのかなとも思います。
それは私自身にもたぶん言えることで、その自分の考え方でしか理解することは出来ないのだけれど。
さて十日町駅からJR飯山線に乗って終点の越後川口に向かいます。
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無人駅を通るワンマンカ−です。
ICカ−ドは使えず切符で乗車。
車窓からは田園風景。
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米所魚沼地区、稲作田んぼがずっと続いています。
そうそう、十日町市は昭和の戦後の1954年に
中魚沼郡十日町、中条村、川治村、六箇村が合併、その後
中魚沼郡吉田村及び
同下条村と水沢村を編入し
「十日町市」ができたそうです。
その後平成に入った2005年に
中魚沼郡川西町・中里村、東頸城郡松代町・松之山町の4町村と合併し現在に至ります。
今回調べて他にも色々なことが判りました、知らないことがたくさん。。
十日町ー魚沼中条ー下条ー越後岩沢ー内ヶ巻ー越後川口
「なかじょう」の次は「げじょう」、「しもじょう」でないのでした、地名の面白さ。
※クリックすると拡大されます
越後川口駅に到着!
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新しくて綺麗な駅舎。
思えば父がこの地に居たのは確か4〜5歳の頃からの数年間だったと思うので、もう80年以上前のことになります。
その親戚のお宅は大きな農家だったと言うことでした。
私が物心つく前のとても小さい頃にお邪魔したことがあるそうです。
その時2階の階段から落ちそうになって父が受け止めたという話を良くしてくれました。
いつどうして疎遠になったのか・・。
そうそう十日町駅付近もですが、この辺りの地域の民家には屋根に上がる作り付けの梯子があります。
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名にしおう豪雪地帯、雪下ろしの為の必需品なのでしょう。
北海道とはまた違う雪国の生活が少し見えました。
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ツバメが飛び交う空と、駅前の風景を眺め、折り返す電車で越後川口をあとにしました。
十日町のお寺でのお墓参りをすましたあとの小さな列車の旅。
苔むした墓石に申し訳ないような気持ちもありましたが、「憶えていること、思い出すこと」が今の自分できる供養かなと思っています。
南無阿弥陀仏..