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意味とは何か?

2018-05-01 01:11:08 | 日本語・古事記・歴史・日本人

前記事『道とは何か?』を書こうとしているところに、西部さんの訃報を知りました。今から考えるとそれ以来思考停止状態で過ごしていましたが、それも何とかしなければと夫が買ってきた西部さんの最後の著述『保守の真髄・まことの保守思想を語り尽くす』を繰り返し読みました。やっと自分の気持ちに区切りをつけなければ・・・・・と思って、最終章の予定記事『道とは何か?』を書きました。そしてふと、出雲の友人に久しぶりに連絡を入れてみようか、と思いついてまた、友人の訃報を知る羽目になりました。これがまた思いのほかショックで、西部さんのショックと重なってしまい、最終章を埋める気分になれないまま、どうでもよい(?)ような記事を書いては二か月近くも打ち過ごしてしまったというわけです。また父の命日が近づいてきたので気を取り直し、自分の仕事と思い決めたこのカテゴリーを埋めるべく取り掛かることにしました。今回の『意味とは何か?』という記事は、西部さんの言葉をたどっているうちに、ずっと胸に突き刺さっている若いお母さんが吐き捨てた『日本、死ね!』という言葉に片をつけねば・・・・・ということを思い出したからです。あの発言が国会で取り上げられたときからずっと傷ついたまま(?????)・・・・・で日を過ごして来ましたから、これに片をつけねばなりません。

 

西部さんご自身で『(西部さんの本は)難しいと言われる』とおっしゃっていますが、一つにはカタカナ表記の外来語が多いからかもしれません。先の都知事選挙では小池さんのカタカナ語に辟易しましたが、聞くのではなく文字をたどるうえでの西部さんのカタカナ語は読み間違えなければそうでもない・・・・・『読み間違えなければ』というのは、『カタカナが並んでいる順番通りに正確に読むという難しさ(?)に惑わされなければ』という意味です。この難しさはロシアの小説を読むのと似ています。大体みんなが難しいというのは、登場人物の名前のせいなのです。ロシア人の名前の構成に『父称』というのがあって、ある姓を名乗る家族の誰それの息子(あるいは娘)の誰それ・・・・・たとえば、『ロマノフ家のミハイールの息子のアレクセイ』という登場人物がいます。その人は『アレクセイ・ミハイーロヴィッチ・ロマノフ』という名前(娘の場合は、例えば、アレクサンドラ・ミハイーロヴナ・ロマノヴァ)なのですが、その時々で『アレクセイ』と呼ばれたり、『ミハイーロヴィッチ』と呼ばれたりします。さらには愛称で呼ばれたりするんです。そういう事情に慣れていない私達は困惑し、誰が誰だか分からなくなって難しいと感じてしまう・・・・・そういうのと似ていると思います。また西部さんはカタカナ(原語の音のまま)にしなければならないのには『翻訳語が正確でない(正確な認識に至らない)という重大な理由がある』とおっしゃっています。つまり私達は外来語の翻訳語で正確な意味を理解していない!!!!!もっとも簡単な例は『経済』ということば・・・・・『経済』という言葉の持っている意味と『エコノミックス』という言葉の意味は違っているから、正確な認識を得ることはできないとおっしゃっているのです。これは相当深刻な事態で、誤解では済まない問題です。私はかなり言葉に関しては厳密です。周囲からうるさがられます。それに西部さんの本の各所に出てくる言葉に関する連想も似ている・・・・・それで、『意味とは何か』という題名の記事を書くことにしました。私の結論を最初に言いますと、

           意味は認識である!!!!!     ということになります。

 

私にとって図らずも、西部さんとカタカムナがつながってきました。これは夫が買ってきた『生と死』という西部さんの本の中に書かれていますが、西部さんは奥様の臨終に際して耳元に『ア・リ・ガ・ト・ウ』と言葉ではなく一つ一つの音をささやかれたとおっしゃっています。これは奥様の脳がもう言葉の認識をする段階ではなく、この地球上に人間の識別する音としての『刺激』というか『波動』というか『力』というか・・・・・人間存在の作用という影響力をただ受け取っている・・・・・と夫である西部さんは直観されたのだというようなことを述べておられます。このくだりを読んで『西部さんは言葉による認識の追求者だったんだ』と深い感銘を受けました。そして私にもあった同じような体験を思い出しました。父の臨終の際男達は潔く諦めて社会的な動物らしく葬儀の準備に取り掛かりました。残った私は父の耳元で『イ・ハ・ト・ハ・ニ・カ・ミ・ナ・リ・テ・カ・タ・カ・ム・ナ・ヨ・ソ・ヤ・コ・ト・ホ・グ・シ・ウ・タ』と、繰り返し繰り返しこの根源的な音をささやきました。生死についてその時の私が知りえたすべてのことだったからです。西部さんは学生運動家として『左翼』を突き抜け思索を極め行くところまで行ったら『伝統』に行き着いたとおっしゃっています。その『伝統』というものが日本という国に生きた過去少なくとも2000年の人々の良識に支えられたものであって、それを守るのが『保守』というものだとおっしゃっています。そしてこれは私の解釈なのですが、人生というものがわずか100年に満たないものであれば、『保守』以外に何をするのか、いったい何を『保守』するのか、ということを『発言』し続けてこられたと思います。でもどうやらご自身がおっしゃっておられるように、なかなか理解されないらしい・・・・・要するに『意味』が通じなくなっている・・・・・共鳴・共感という認識に至らない・・・・・日本人の認識回路が変化している?????これは日本語の危機・日本の危機であり、日本が滅びてしまうかもしれない・・・・・と思って(別に悲観されたわけではなく、ご自分の人生の成果としては残念に思われるとともにやむなしと諦められ、後世に託すことにして)、人生を閉じられたと思います。私たち後世にはたくさんの著作を残してくださいました。この『言葉』についての思索が、通常を突き抜けて日本語の根源『カタカムナ』に近づかれたのだと思い至りました。

 

 

本題に戻りますが、『言葉』は『意味』そのものです。『意味』を『認識』するように構造されたものです。その音を聞いて(刺激を受け取って)音のコピーを作ります。コピーすること(このコピーについては、以前より言葉についての記事でご紹介しています)が、個々の神経細胞での『判別』であり『認識』なのです。コピーを作らないということは認識できなかったということです。『意味』とは目の前にあるもの(イ)をそのようにあらしめているもの(ミ)だという力を表す音の組み合わせで、その力を受け取ってコピーを作ることが意味の認識であり、その表明伝達が言葉です。言葉とは『イ』を表わし『ミ』を表すものです。『意味』と『認識』と『言葉』は表裏一体のものです。そもそも私たち自身がコピーと言っても過言ではないと思います。私たちは前世代(親)の生命のコピー(種)です。そうやって何百万年と繰り返し私達の宇宙は展開し続け存在するものは生き続けてきました。私達に何か特別の期待するような感情的な使命とか価値とかいうようなものはないといってよいと思います。私達宇宙の存在にとって『意味』のあることは『コピー』以外にありません。ここから『人間らしく』ということを考え始めないと、狂信的な妄想である特別な『意味』とか特別な『価値』とか言ったものに惑わされるようになると思います。狂信に惑わされない『意味』を考えて生きること・・・・・これが人間の『価値』だと言ってよいと思います。

ここからが人間社会において最も大事なことだと思うのですが、国語教育というものは、コピーを作ることゆえの問題点『意味の精度』を代々何世代にもわたって正しく受け継ぐためのものです。全般的にも教育ということはそういうことを言うのだと思います。『学ぶ』ことは『真似ぶ』こと・・・・・、つまり『コピーする』ことなのですから。またこれと全く同じやり方で、生命活動が行われていると言っても過言ではないと思います。DNAのコピーが生命活動の始まりなのです。このコピー方式が生命方式であり認識方式であり、それが国語の音の組み合わせの波動として次世代に引き継がれてきたものです。ですから、日本語という国語を失うことは、日本人という生命のアイデンティティを失うことです。『日本が滅びる・・・・・』という危機に至ることです。それで西部さんは言葉による認識について警鐘を鳴らしてこられました。言葉による認識こそが社会を支え、国家を支え、自分を支えているのに、それが壊れかけている・・・・・言葉と自分に乖離がある・・・・・自分が言っていること行っていることの意味が分からなくなっている・・・・・西部さんは社会思想家ですから、現代日本人と国家のかかわりにずっと発言をしてこられました。『発言者』『表現者』という刊行誌の名称はそういう西部さんの姿勢を表したものだと思います。言葉を介して引き起こされる共鳴というか共振というか、つまり聞く側によるコピーが作られることに期待をしてこられたと思います。『大方無駄であった』というような感想を述べておられますが、言葉にして残されたということが時代を超えていつかどこかの若者のコピー(自発的励起)に寄与することを信じたいと思います。

 

 

現代社会においてよく見聞きする『国を訴える』・『国に賠償要求をする』・・・・・その方のお気の毒な状況についてを別において、私にとってひどく違和感を覚える言葉ですが、深く考えずにきました。これについて西部さんは、「『国』と言っているものに2種類ある。」と書いておられます。それでやっと私は『国』とその時の『行政府』というのを『国』という言葉に混同して、『国を訴える』というのは時の行政府を訴えているらしいことがはっきりしました・・・・・だけどこれにはひどく矛盾があって自分が選んだものに対して訴訟をしている・・・・・時の政府を選んだのはほかならぬ自分を含めた国民ですから。要するに国民というのはいつも国民総体のことであって、個別的な一人一人の国民構成員ではない!!!!!私たちは法律用語としての国民を誤解しているのではないかと思います。よ~くよ~く考えてみればわかるのですが、国民という具体的な存在はいません。国民の一人(構成員)はいますけれど、要するに『国民=国』といったようなものだと思います。ということは国民構成員の一人が残りの国民を訴えている・・・・・つまり仲間から私たちが訴えられているといった感じだと思います。福祉というのは、国民全体が相互にかけ合う『思いやり』 なんです。だから、国を訴えるというような性質のものではなくて、権利などというようなものでもない。これは私たちが選んだ行政府が私たちの総意として私たちのお金を出して、なんとか立ち行くように支え合うものです。それが行政府の役割であり、全員の幸せというものなんです・・・・・ということを肝に銘じて私たちは自分の人生を生きなければなりません。そのことを認識したうえで、民主主義という現代の参政システムの幸せを受け取らねばならないと思います。すなわち、私たちは十分に税金を納めるということでシステム運営(行政)に参加し、いつの日か自分の不幸せに巡り合ったときには、自分の属するシステムの恩恵(行政)を受ける・・・・・そういう社会を運営するという覚悟なしに民主主義は維持できないものです。

それで問題の『日本、死ね!』にやっとたどり着きますが、この言葉を聞いた時、「この言葉を発した若いお母さんは、自分と『日本』という言葉に深い関係、切っても切れない血肉を分けた関係を感じてはいない・・・・・のだろうか?」と思いました。 私はこの言葉を聞いた時、胸を刺されたような、曰く言い難い傷を受けました。それをずっと引きずっています。『死ね』という言葉が子供たちのいじめ問題に登場した時も、他人(自分とは別の個体という意味で)の苦痛に全く思いやることのない言葉を吐き捨てるようになったのかと国語教育の重大さを感じました。その延長上にあることは間違いありませんが、それよりももっと酷い生命としてはあり得ない自分を傷つける自滅への段階に進んだように思えてなりません。国語として全世代から受け継いできた日本語の音波の作用という『コピー』をしなくなったということのような気がします。『コピーを作らない』ということは、『次が無い』ということです。『自分を疎外する』ということです。どうしてこんなことになったのか・・・・・、このことを思うとき、もう一つの大きな私達の日本の姿と同じパターンを想起せずにはいられません。それは何か・・・・・それは日本の戦後の思想風潮です。

私達の父祖は戦争の時代を生きました。どんな時代を生きるかということに、私たちは選択の余地がありません。その証拠に今も中近東では戦禍の中にかわいい子供たちが生きており、隣国北朝鮮では独裁国家の下で自由を制限されて生きている(そんな中に私達の同胞が拉致されて30年以上も経っている)・・・・・。世界情勢のそんな時代に生きた父祖を悪人呼ばわりし罪人扱いにしたまま、戦後を生きている自分たちは善人だと思い込んでいる・・・・・それが今の私達です。私たちは父祖のコピーなんです、だから悪人であり罪人のはずです。それを切り捨てないと、善人にはなれない・・・・・?????そんな心理状態で生きている以上、コピーはできません。だったら、もうコピーはできない・・・・・コピーができない以上、『死ぬ』しかありません。そう、私達には『アイデンティティー』がないんです。それで、私は『父の背負子(随想古事記)』というカテゴリーを作って、なんとかアイデンティティー回復の記事を書くことにしました。『コピー』とは『アイデンティティーのコピー』なんです。DNAのコピーそのものなんです。この『日本、死ね!』のショックは、まざまざと私の『意味』を私に再確認させるために私の胸を抉り、西部先生の死というショックをもってもう少し頑張ろうと考えさせたのだと思うことにして『意味とは何か』という記事を書きました。たとえ西部先生がおっしゃるように、『大方無駄であった』ことになろうとも、私が生きている限りはこのブログの記事もあることで以って瞑すべしにしようと思います。

 

最後に余談ですが、西部先生の死について自殺幇助の疑いで取り調べがあっている・・・・・とかの新聞記事を読みました。若しもそれが事実であっても、どうかその方々が酷いことにならないようにと祈っています。仮定の話ですが、もし私が万が一西部先生の依頼を受けたとしたら私も同じだったのではないかと思いますから。

 

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