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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

西光寺城(埼玉県坂戸市)

2019年07月15日 | 100名城以外の城館跡


城 名:西光寺城(さいこうじじょう)
別 名:塚越城
形 態:平城(居館)
時 期:平安時代末期か
築城主:不明
城 主:不明
遺 構:土塁、堀?
指 定:-
現 況:山林
所在地:埼玉県坂戸市塚越

西光寺の開基は小島豊後と称した管領上杉氏の家臣である。豊後が屋敷内に庵を建て西光庵と称したのが始まり
とされるという。豊後の子越後は、天文年中の河越夜戦後、上杉氏を去って後北条氏に属し土着したと言います。
城跡についての築造年代は不明で、誰の居館であったかも不明です。




西光寺山門




西光寺の説明板
西光寺城に関することは何も触れられていません




西光寺本堂




城跡は墓地の東側の竹藪の中にあるとのことでした
たまたま住職さんとお会いしましたので城跡の話をしたところ「大して残っていない」とのことでしたが、許可
を得て竹林の中に。




墓地の脇から直接竹林の中に突入しましたが・・・




土塁様のものがありました、枯れた笹の葉が積もっていて足をとられてしまいます




堀跡のようですが、倒れている古竹や枝等で歩けませんので、とにかく脱出と竹林から出ました




南側です  段差がありますが土塁跡かは分りませんでした




東側に回ると堀跡様のものがありましたが、通路として設けたものか?




こちらも堀跡と呼ぶには確信がありません

はっきりとした遺構の確認はできませんでしたが、城跡の雰囲気は確かにありました。

散策日:令和元年(2019)6月1日(土)

万葉遺跡 浅羽野(埼玉県坂戸市)

2019年07月14日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:万葉遺跡 浅羽野(まんよういせき あさばの)
概 要:万葉集巻11‐2763「紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな」の関連遺跡
指 定:埼玉県指定旧跡 (名称:万葉遺跡 浅羽野(昭和36年(1961)9月1日指定)
所在地:埼玉県坂戸市浅羽野2 土屋公園内

万葉集巻11‐2763の歌にある「浅葉の野」とは、現在の坂戸市浅羽とされています。他に静岡県浅羽町、長野県
本郷村などの候補地があるものの、ここ坂戸市の浅羽を指すとの説が定説になってきているようです。
その歌碑が土屋神社の裏にある土屋公園内に建立されているとのことから訪ねてみました。




土屋公園の中に、万葉歌碑と歌碑建立主旨が刻まれた石碑が建立されています
その傍らには解説板が設置されています




万葉歌碑
 【碑文】

    万葉集壱十一
 紅之淺葉乃野良尓苅草乃
 束之間毛吾忘渚菜
     くれなゐの
     浅葉の野らに
     刈る草の
     束の間も
     吾を忘らすな

        坂戸市長 林 徳之輔書




【碑文】

万葉遺跡 浅羽野

    浅羽の地は古来安佐波  浅葉などと呼ばれ
   たが都市開発の進展につれ美しい自然環境を次
   第に失われてきた
    この時にあたり当市では万葉の歌碑をきざみ
   末ながくその名をとどめようと志した
    人びともしこの碑の前にたたずめば はるけ
   き思いにとらわれ深い興味を覚えることであろう

    昭和五十五年四月二十九日
      坂戸市教育委員会




「万葉遺跡」浅羽野歌碑  解説板
歌の意味も解説されています。

散策日:令和元年(2019)5月30日(木)

クロアゲハ

2019年07月13日 | 花・鳥・風景




所用で出かけようと玄関から出たら、小さなちいさな庭に咲く花の上をクロアゲハが飛んだり止まったりしてい
ました。
人の気配を感じてか飛び立ってしまいましたが、よほどこの花の蜜が美味しいのか戻ってきては飛び去りと何回
か繰り返したので、出かける際に持ち歩いているコンデジで・・・   

撮影日:令和元年(2019)7月5日(金)

ヤマユリ咲いてます

2019年07月11日 | 花・鳥・風景


菅谷城跡(埼玉県比企郡嵐山町)のヤマユリが5日ほど前に開花したようです。
最盛期を迎えるのはまだ先のようですが、今年も行って来ました。




毎年行っていますのでヤマユリの咲く場所は熟知しています(オーバーですが)
ここは本郭北辺土塁の東側 4輪開花していました




そのうちの3輪です  同じく本郭の生門跡のヤマユリはまだ蕾でした  
三ノ郭の蔀(しとみ)土塁手前のユリも開花していたようですが、今回は見に行きませんでした。
最盛期前後にもう一度訪れてみましょうか・・・

菅谷城跡=国指定史跡での名称は菅谷館跡ですが、最近は菅谷城跡と呼ぶことも増えててきたようなので私もと。

散策日:令和元年(2019)7月10日(水)

多和目城(埼玉県坂戸市)

2019年07月10日 | 100名城以外の城館跡
<

名 称:多和目城(たわめじょう)
別 名:田波目城
形 態:山城
時 期:不明
築城主:不明
城 主:不明
遺 構:土塁
指 定:県選定重要遺跡(名称:田波目城跡 昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:山林
所在地:埼玉県坂戸市多和目字城山

坂戸市内においては最高位を示す標高113mの丘陵上に築かれた中世の城跡とされる多和目城跡を攻城してきま
した。




城山の北辺に設置されている『多和目城(田波目城) 埼玉県選定重要遺跡』説明板




『多和目城(田波目城) 埼玉県選定重要遺跡』説明板




説明板の中から「多和目城概念図」をアップで
出来れば現在地の表示、説明の中に書かれている城山配水池の場所を併せて表示していただけていたら方向音痴
の私には助かったのですが・・・




現在の登城道 実態は配水場に行くための道です




城山配水池の左側が主郭跡のようです  土塁が見えます




東西に延びている土塁




城山配水池  この配水池は北コーナー部を破壊しており、城郭の4分の1を失っているとのこと




配水池を南側から  当然ながら舗装道路はここで切れています




「田波目城跡 海抜113.4M」とある標柱  山麓の説明板を除けば城跡における唯一の城跡の目印となります
但し 設置したのは役所関係ではありません




そのまま南方に緩やかな斜面を進むと両脇が土塁で一段低くなった場所に




下がって南側から北方に見ています  小口であったのかどうかは不明ですが桝形になっています




配水池北西角にある土塁 




上記土塁の南側角 ここをコーナーにして更に東方に延びており、その外側は堀跡のように見えます




配水池西側はこんな状態ですので、藪をかき分けて入ってみたものの土塁を確認するに至りませんでした
他の場所もこれと同様です




主郭北東隅の土塁




城山北側(坂戸市西坂戸4丁目)の道路から城山を 正面に見えるのが『多和目城(田波目城)』説明板
右側が西坂戸運動公園  ここの駐車場をお借りしました




高麗川の対岸から望む多和目城跡(城山)

正直、もっと土塁や堀跡もあったのかもしれませんが、何しろ藪状態ですからです見つけようにも見つけられま
せんでした。多分、葉が枯れた時季に来ても同様かも知れません。

散策日:令和元年(2019)6月1日(土)

万葉遺跡 伝大伴部真足女の遺跡・防人檜前舎人石前之館跡(埼玉県美里町)

2019年07月07日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:万葉遺跡 伝大伴部真足女の遺跡・防人檜前舎人石前之館跡
   (まんよういせきでんおおともべのまたりめのいせき・さきもりひのくまのとねりいわさきのやかたあと)
概 要:万葉歌人大伴部真足女の居住地と伝える。万葉集巻20「枕太刀腰にとりはきまかしきせろがまこむ月の
    しらなく」の関連遺跡。
時 期:奈良時代
指 定:埼玉県指定旧跡 (名称:万葉遺跡 伝大伴部真足女遺跡(昭和36年(1961)9月1日指定替・平成8年
   (1996)3月19日名称変更)
所在地:埼玉県児玉郡美里町広木1300

ここ一帯を大字広木字御所の内と呼ぶようです。堀形の田畑に囲まれた90メートル四方を防人檜前舎人石前の館
跡であったと伝わります。真足女は檜前舎人石前の妻であり防人として九州に赴く夫に歌を寄せています。




標識の方向に歌碑等がありました




石碑 歌碑 石標 説明板が並んでいます




万葉遺跡  伝大伴部真足女の遺跡
  県指定旧跡(昭和36年9月1日)
ここ一帯は大字広木字御所の内と呼ばれています。堀形の田畑に囲まれた90m四方の遺跡が、防人檜前舎人石前
(さきもりひのくまのとねりいわさき)の館跡といわれています。
真足女は、檜前舎人石前の妻で、防人に赴くことになった夫に、この悲しい別れに臨んで、惜別の情を詠じたのが、
防人の歌として、万葉集巻20に載せられています。
「枕太刀腰に取り佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく」
この歌は夫を思慕する妻の真情を、遺憾なく吐露したもので、1200余年後の今日でも、なお切々として、人の
心を打ってやまないものです。           
                            美里町教育委員会




『歌碑』

まくら太刀腰にとりはき 万かなしきせろかまきこむ 月のしらなく

と刻まれています(崩し文字ですので読み間違いがあるかもしれませんが)


原文は萬葉集巻20-4413

 麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久
 



『石碑』
内容はよくわかりませんが、遺跡・防人檜前舎人石前之館跡の整備保存についての経緯が記されているようです(?)
昭和26年1月20日 松久村農青連並後援覚機関各団体 とありますので相当古い石碑です




『防人檜前舎人石前之館跡』石標




歌碑・石碑の背後のこの麦畑一帯が館跡のようです




美里町内を走る国道254号線沿いにあるJA埼玉ひびきの美里直販所です。無知で恥ずかしい話ですが、この直販
所の前を通る度に、何故「万葉の里」を名乗っているのかと不思議に思っていました。美里町が、「あんずの里」
(今はブルーベリーを売り物にしているようですが)であることは知ってはいたのですが、万葉集とどういう関係
があるのか分りませんでした。今回、『さらしの井』やこの『伝大伴部真足女遺跡』を知って訪ねたことにより、
初めて「万葉と里」を名乗っている意味を理解した次第です。

散策日:令和元年(2019)5月13日(月)

万葉遺跡 さらし井(埼玉県美里町)

2019年07月05日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:さらし井
概 要:朝貢絹布をさらした井戸と伝える万葉遺跡。万葉集巻9の「三栗の那賀に向える曝井の絶えず通はむそ
    こに妻もが」の関連遺跡。
時 期:奈良時代
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:さらし井 (大正15年(1926)3月31日指定 昭和36年(1961)9月1日指定替)
所在地:埼玉県児玉郡美里町広木字晒井1407

美里町広木の練木川の端にある万葉遺跡「さらし井」を訪ねてみました。




練木川の端にあるさらし井の周りには複数の石碑が建立されています。但し、右側の大きなものは架橋の記念碑




石組みの切れたところから湧水は練木川に流れ込むようです




『旧跡 さらし井』説明板




岩石で組まれた井戸




アップで




『曝井建碑由来記』とある石碑  【昭和二年四月 埼玉縣兒玉郡松久村史蹟保存會建立】とあります。
松久村とは現在の美里町の一部で、駅名や学校、郵便局名等に松久の名が残っています。




『晒井碑』とある歌碑
建立時期は分りませんでしたが、漢字だけで書かれていますので相当古いものでしょう。
晒井の歌が大きく刻まれていますが原文のようです。

  三栗乃中爾※有曝井之不絶将通彼所爾妻毛我  (※=パソコンでは出ない文字ですが「向」の異体文字?)




この歌碑は、平成12年(2000)如月に建立されたものですが、ここまで崩されたら(くずし字)読めませんが、

 三栗の中に向える曝井の絶えず通はんそこに妻もが

とあるようです。

原文 萬葉集巻9-1749
 三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我

散策日:令和元年(2019)5月12日(月)

鎌倉街道(上道)のみちすじ

2019年07月03日 | 鎌倉街道


埼玉県内を通る「鎌倉街道・上道(かみつみち)」の道筋と、その道筋沿いや周辺の史跡・旧跡・社寺等が書か
れた 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 という大きな案内板が県内の鎌倉街道上道沿いの数カ所に設置されて
います。
鎌倉街道上道の由来については上掲の案内板に書かれていますので省略します。
今、鎌倉街道と呼ばれている道筋は当然古来からのものばかりではなく、曲がっていたものを真っ直ぐにしたり、
元の位置からずらしたりしたもの等、歴史の流れに合わせて変化してところが多いようです。でも、鎌倉街道で
あることには変わりありません。現在、何基の案内板が設置されているかは分りませんが、私が今日までに確認
しているのは5カ所です。
設置から相当数の年数が経過しているようで、どの案内板も汚れが酷かったり傷ついた部分が数か所あります。

『鎌倉街道(上道)のみちすじ』の案内板には、丸数字イラスト入りのものが次の18カ所

 ①鳩峰神社(所沢市) ②小手指ケ原古戦場(所沢市) ③七曲井(狭山市) ④河越氏館跡(川越市) 
 ⑤高麗神社(日高市) ⑥苦林野古戦場(毛呂山町) ⑦赤沼瓦窯跡(鳩山町) ⑧笛吹峠(鳩山町・嵐山町)
 ⑨菅谷館跡(嵐山町) ⑩仙覚律師遺跡(小川町) ⑪川越岩(寄居町) ⑫鉢形城跡(寄居町) 
 ⑬人見館(深谷市) ⑭人見昌福寺(深谷市) ⑮さらし井(美里町) ⑯一里塚と称される大榎(美里町)
 ⑰玉蓮寺(本庄市) ⑱金鑚神社・御嶽の鏡岩(神川町)

名称のみのものが次の38カ所

 根古屋城・金乗院山口観音・山口城・将軍塚(所沢市) 高倉寺観音堂・笹井観音堂・八幡神社・三ツ木原古戦場
 城山砦跡(狭山市) 聖天院・女影原古戦場(日高市) 田波目城跡・万葉遺跡浅羽野(坂戸市)
 毛呂城跡・出雲伊波比神社(毛呂山町) 熊井城跡(鳩山町) 岩殿観音正方寺・青鳥城跡(東松山市) 
 小倉城跡(ときがわ町他) 大蔵城跡(嵐山町) 高見城跡(小川町) 花園城跡・正竜寺・用土城跡(寄居町)
 畠山館跡・本田館跡・お茶々が井戸・岡部城跡・華蔵寺・岡部六弥太忠澄館・榛沢六郎供養塔(深谷市) 
 猪俣城跡・水殿瓦窯跡(美里町) 雉ケ岡城跡・本庄城跡(本庄市) 安保氏館跡・光明寺・大光普照寺(神川町)

の計56ケ所の史跡・旧跡・社寺等の名称が記されております。中世の史跡が中心になっているようですが、何れ
も埼玉の歴史を語る、知る上で欠かせない所ばかりです。
なお、名称については案内板に記載されたものを使用しましたので、指定史跡等での指定名称とは異なるものも
あります。所在地についてはカッコ書きで付記しましたが、市町村合併以前の案内板ですので、合併以前の旧地
名が記されているところは現在の地名で表記しました。

イラストで紹介されている18カ所については、一応、全ケ所に行っておりますので、現在の写真と簡単なコメン
トを付して紹介しておきます。




これら「鎌倉街道」の標柱は、鎌倉街道上道の古道で堀割状の遺構がのこる場所に設置されているものです。
堀割状の遺構がのこる場所は県内でも僅かしかありません。

文化庁選定「歴史の道百選」で埼玉県は2カ所選定されておりますが、その一つが
【24 鎌倉街道―上道 埼玉県 伊勢根(小川町)~赤浜(寄居町)、大林坊~川角(毛呂山町)】
です。
これらの上道は、上掲案内板の現在の道筋とは若干違う位置に存在するものもあります。




 鳩峰神社 【所沢市】 《県指定有形文化財》
  鳩峰八幡神社は、石清水八幡宮を分祀して延喜21年(921)に創建、新田義貞が鎌倉幕府を攻める際の元弘
  3年(1333)には当社で戦勝祈願したといい、その際、義貞が兜を掛けたと言われる「兜掛けの松」がある。
  当時の松は枯れてしまい、今の松は切り株に植えられた数世代経ったもの。また、義貞が参拝の際に鎧を脱
  いで置いたと伝わる場所には「鎧稲荷」がある。




 小手指ケ原古戦場 【所沢市】 《県指定旧跡》
  越後上州方面から鎌倉への交通路にあたり、新田、足利の対立をはじめとする幾多の戦場として知られる。
  元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は、群馬県の生品明神で鎌倉幕府討幕の旗を挙げ、笠懸野~八幡荘~菅
  谷~将軍沢~笛吹峠~入間川~小手指ケ原と進み、ここで、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。
  また、正平7年/文和元年(1352)の武蔵野合戦(足利尊氏と新田義宗との戦い)と言う一連の合戦の中にお
  いて、ここ小手指ケ原でも合戦が行われている。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その1
   設置場所:狭山市南入曽 入間野神社




 七曲井 【狭山市】 《県指定史跡》
  すり鉢の形をした古代の井戸で、武蔵野の歌枕として名高い「ほりかねの井」の一つと言われている。






 河越氏館跡 【川越市】 《国指定史跡》
  坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは
  父親の重隆とされる。
  戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構
  えた(上戸陣)。更に、後北条氏の河越城築城後も出城として機能していたと推測される。




 高麗神社 【日高市】
  高句麗滅亡に伴い日本へ亡命してきた高麗民族のうちの1799人が武蔵国に霊亀2年(716)移され、新しく
  高麗郡が設置、高麗王若光薨斃の後王を祀ったという。




 苦林野古戦場 【毛呂山町】 《県指定旧跡》
  貞治4年(1365)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があった。 
  付近にある苦林1号墳(前方後円墳)の墳頂に「苦林野合戦供養塔」、「苦林野古戦場之遺跡碑」が建立さ
  れている。




 赤沼瓦窯跡 【鳩山町】 《県指定史跡》
  昭和25年(1950)に発掘調査され、同年3月には県指定文化財となった。当時は武蔵国分寺瓦窯跡と考えら
  れていたが、平成5年(1993)の確認調査により、勝呂廃寺創建期の窯跡であることが判明した。さらに、
  生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給された。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その2-1
   設置場所:鳩山町大橋 大橋交差点から若干笛吹峠方向に進んだ路端




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その2-2  《鳩山町》




 笛吹峠 【鳩山町・嵐山町】 《嵐山町指定史跡》
  正平7年/文和元年(1352)閏2月、新田義貞の三男・義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で足利
  尊氏と戦ったが、最終的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちて行き、足利尊
  氏はこれ以後関東を完全に制圧していった(武蔵野合戦)
 「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから命名さ
  れたという伝承がある。






 菅谷館跡 【嵐山町】 《国指定史跡》
  続日本100名城 鎌倉幕府の有力御家人で武蔵武士の鑑と称された畠山重忠の館跡とされる。後世、「長享
  の乱」後に、山内上杉氏の拠点として使われたり、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した
  後北条氏によって戦国末期まで使われたとの説もある(別名:菅谷城)




 仙覚律師遺跡 【小川町】 《県指定旧跡》
  鎌倉時代、読めなくなった万葉集を読み解く「万葉集注釈」が仙覚律師によりこの地で書かれた。「武蔵国
  比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されており、このことから比企郡小川町増尾周辺に仮宿してまとめたと
  推定されています。仮宿した有力な比定地がここ「中城跡」であり、それを顕彰して「仙覚律師碑」が建て
  られている。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その3-1
   設置場所:寄居町今市 今市地蔵尊境内

  山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた
  「長享三戦」の最後のひとつ『高見が原合戦』は、この今市から、小川町高見にかけて行われた。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その3-2  《寄居町》




 川越岩 【寄居町】
  寄居町赤浜の荒川には往時、山王の渡しと川越岩(かわこしいわ)による徒(かち)渡りがありました。赤
  浜の対岸は現在の深谷市の花園です。水量の少ないときに岩礁を伝うこの個性的な渡河地点は、中世には鎌
  倉街道上道に繋がっていた。川の流れの水量の目安にしたのがこの「赤浜の川越岩」。この岩の一定の高さ
  まで水面が上がると川止めされたと言います。獅子の形に似ていることから獅子岩とも言われる。




 鉢形城跡 【寄居町】 《国指定史跡》
  日本100名城 初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられて いる。その後、
  小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。
  天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めにより、鉢形城も同年5月13日、豊臣方の前田利家・上杉景勝ら
  北国勢35,000(その後、加勢を得て50,000)に包囲され、鉢形勢は城兵3,500をもって籠城したが、1か月
  後の同年6月14日、城兵・領民の助命を条件に開城した。、
  関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城跡です。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その4-1
   設置場所:深谷市武蔵野(旧花園町) 八幡神社鳥居脇




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その4-2  《深谷市》




 人見館 【深谷市】 《県指定史跡》
  平安末期に築かれた城の跡。人見氏は武蔵七党の一つ、猪俣党の猪俣政基が河匂(かわわ)氏を称し、その
  子河匂政経が人見の土地に居住し人見六郎と称した。




 人見昌福寺 【深谷市】
  昌福寺は、深谷上杉氏第5代で深谷城初代城主である上杉房憲(ふさのり)が、古河公方に備えて深谷城を
  築いて移ったとき、父祖の冥福を祈るために仙元山のふもとに創建した曹洞宗の寺院で山号を「人見山」と
  号す。上杉房憲・憲盛(のりもり)と累代の墓がある。




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その5-1
   設置場所:美里町広木 国道254号線沿(広木・大町古墳群の反対側)




 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 その5-2  《美里町》




 さらし井 【美里町】 《県指定旧跡》 
  美里町広木の枌木川の端に岩石で囲まれた井戸です。その昔、織布を洗いさらすために使用した湧水で、こ
  こでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に献納されたと伝えられている。
  当時の婦人たちの共同作業場でもあり、万葉集巻九の恋歌にもあるように悩みを訴え愛を語る社交の場でも
  あったことがうかがえます。
       ≪ 三栗の那賀に向かえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが ≫








 一里塚と称される大榎 【美里町】
 「広木の一里塚榎跡」として美里町指定指定天然記念物であったが枯れてなくなってしまったことから指定が
  解除された。今は平成一里塚公園という小さな公園になっている。上段の写真のよう美里町と児玉町(現・
  本庄市)との境にある。公園脇を右折した道路が、かつて「陣街道」と言われていたが、工場等の建設に伴
  い道筋は若干変っているとのこと。
  中段の写真は、一里塚公園に設置の説明板。
  下段の写真は、ガリガリ君アイスでお馴染みの赤城乳業の敷地角にある一里塚碑と石造物。これらも元の場
  所から移転してきたようです。右端に馬頭尊があるが、これが切り株の根元にあったという馬頭尊のようで
  ある。




 玉蓮寺 【本庄市(旧児玉町)】
  東光院玉蓮寺と言い、日蓮宗の寺である。児玉党の領主児玉六郎時国が開基で境内が時国の館跡である。
  日蓮上人が佐渡に流罪の途中、流罪が赦免となり鎌倉に帰る途中、時国の館に泊まったと言う。時国は上人
  入寂後、館の傍らに草堂を建て自ら日蓮の像を刻んで拝し、その後館を寺院としたのがこの玉蓮寺であると
  言う。






 金鑚神社(御嶽の鏡岩) 【神川町】  多宝塔《国指定重要文化財》・御嶽の鏡岩《国指定特別天然記念物》
  旧武蔵二宮である金鑚神社は、御獄山(標高343.4メートル)山麓に鎮座し、拝殿の奥にある御室ヶ嶽一帯を
  ご神体として祀っている。したがって拝殿の奥にあってご神体を置くべき本殿が無く、拝殿のみという構造で
  ある。こうした拝殿のみで神体山をまつる、古い祭祀形態をとどめている神社は全国でも珍しく、長野県の諏
  訪大社と奈良県の大神神社とを合わせて3社だけと言われている。
  参道脇に立つ多宝塔が国の重要文化財に指定されている。
  また、御獄山の中腹にある「鏡岩」は国の特別天然記念物に指定されている。

以上。これら史跡等は一部を除き当ブログで個々に、或いは記事の一部として紹介しておりますが、鎌倉街道上道
の道筋に沿って一つにしてみました。写真を撮った日(散策した日)がまちまちですので、一応、整理はしてある
ものの写真を探し出すのが大変でしたが。