■ 国指定特別史跡 名古屋城跡
朝方の雨は上がりましたが、不安定な空模様です。開門とほぼ同時に正門から入城。
【名古屋城の概要】
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして
清須(現清須市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの
選んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
明治にはいり陸軍省の所管となり名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。
昭和5年(1930)12月離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。昭和20年(1945)5月の空襲で
大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁図1,047面が国の重要文化財に指定されています。
昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。 (名古屋城正門前の案内板から)
正門を入ったところは、西の丸跡です。大天守が見えてきました.
大天守と小天守
石垣の石に刻まれた刻印
「加藤肥後守 内小代下総」とありますが、ちょっと肉眼でははっきりと見えませんでした。
天守閣礎石
不明門(ふめいもん・・・あかずのもんとも読みます)
東側から見た大天守
金の鯱(思い切りアップで)
天守にも入って(上がって)見ましたが、内部はコンクリート造りですので感動はいまひとつだったかもしれません。しかし、「尾張名古屋は城でもつ」
その名古屋城に漸くの思いで攻城出来たことは感動でした。え、写真が少ないって・・・ここでもいろいろな場所の見落としをしてしまいましたので。
再度攻城するための口実に敢えて見落としてきたなんてことはありません。ほんとに見落としました。至極残念無念です。
攻城日:2011年(平成23年)5月1日(日)
朝方の雨は上がりましたが、不安定な空模様です。開門とほぼ同時に正門から入城。
【名古屋城の概要】
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして
清須(現清須市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの
選んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
明治にはいり陸軍省の所管となり名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。
昭和5年(1930)12月離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。昭和20年(1945)5月の空襲で
大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁図1,047面が国の重要文化財に指定されています。
昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。 (名古屋城正門前の案内板から)
正門を入ったところは、西の丸跡です。大天守が見えてきました.
大天守と小天守
石垣の石に刻まれた刻印
「加藤肥後守 内小代下総」とありますが、ちょっと肉眼でははっきりと見えませんでした。
天守閣礎石
不明門(ふめいもん・・・あかずのもんとも読みます)
東側から見た大天守
金の鯱(思い切りアップで)
天守にも入って(上がって)見ましたが、内部はコンクリート造りですので感動はいまひとつだったかもしれません。しかし、「尾張名古屋は城でもつ」
その名古屋城に漸くの思いで攻城出来たことは感動でした。え、写真が少ないって・・・ここでもいろいろな場所の見落としをしてしまいましたので。
再度攻城するための口実に敢えて見落としてきたなんてことはありません。ほんとに見落としました。至極残念無念です。
攻城日:2011年(平成23年)5月1日(日)