深谷上杉氏 ⑩
深谷上杉氏に関連する史跡等を数回にかけて紹介してきましたが、一旦、この「上杉館」で終了とします。
埼玉県熊谷市千代(旧大里郡江南町)にある上杉館跡を訪ねてみました。
上杉氏と言ってもいくつもの系統がありますが深谷上杉氏です。深谷上杉氏の興りから述べると長くなりますので省きますが、
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の時、後北条氏の傘下にあった深谷城主・上杉氏憲(深谷上杉家8代当主)は小田原城
に詰めていました。深谷城は、重臣の秋元長朝、杉田因幡が守備していましたが、前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦火
から守るため、秋元長朝、杉田因幡は前田利家らに城を明け渡しました。
所領没収となった氏憲は嫡男とともに信濃に移りましたが、その後上杉氏は、ここに来て居を構え上杉館を築いて小久保氏を名
乗ったということです。 (この写真は西側雑木林の道から撮影)
北側の道路から館があったと思われる場所を。近年、樹木や竹が伐採されたようです。
やはり北側の道路から同所を西方向に。雑木林の更に西側に上杉家の墓所があります。
北側道路から見た館跡東側の土塁(写真中央あたり)
館跡西側の雑木林に通ずる道。写真右側が館跡で土塁も残っています。
同じく雑木林に通ずる道から見た館跡と館跡南側土塁
館跡南側土塁
雑木林の西側道路にある「ふるさと歩道休憩所」
上杉家墓所はこの南方にあります。
上杉家墓所
墓所の中に建立されている墓誌
天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略に対し深谷城主上杉氏憲公は、止むなく城を開け渡し、嫡男憲俊と共に信濃国
大豆島(現在の長野市)に移る。
三男憲成はこの地に来りて居を構え、上杉館を築きて住し小久保氏を名乗る。氏憲公もまた後に、信濃より此の地に来り寛永
十四年(一六三七年)正月二十二日卒す。
上杉家は代々氏憲公を祖として崇敬し、爾来凡そ四百年連綿として今日に至る。(以下は没者の戒名のため省略)
深谷上杉氏は、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われ同族の上杉景勝を頼って信濃国に移住した
ようです。
墓石の写真はあえて載せませんが、この墓所の墓石等には、上杉氏の家紋である「竹に雀紋」ではなく「五七の桐紋」(上杉
桐)が入っています。自身には、その理由は分りませんが、こうして使われているというのは「五七の桐紋}も深谷上杉氏の
家紋なのでしょうね。
上杉謙信は、五七の桐紋を大親町天皇から下賜され、上杉氏の家紋のひとつにしています。景勝は謙信の養子(また謙信の甥
でもある)です。そんな関係から深谷上杉氏も五七の桐紋(上杉桐)を使うようになったのではないかと推測します。
南側の道路から
南側から見た館跡東側を南北に走る空堀と土塁 土塁上の竹も伐採されています。
実際の館跡(敷地)はもっと広範囲にわたるようですが、樹木や竹が伐採されて更地状態になっている場所を自身の勝手な推
測で館跡として捉えて説明をさせていただきました。
樹木伐採前の土塁はもっと高く、空堀はもっと深かったことが容易に想像されます。
上杉氏・小久保氏に関する話は色々あるようですが深くは考察しないことにします。
なお、上杉氏は現在もこの付近にお住いのようです。
10回にわたって深谷上杉氏を取り上げてきましたが、ここで一旦終わりにしたいと思います。
記事ごとにコメントを付けたため、他の記事との整合性がない個所もあるかとは思います。また、同じことでありながらも記
事によっては、関東入国、関東入府などと異なる表現をしましたが、そこは大目に見ていただければ幸いです。
深谷上杉氏(家臣等を含め)に関係する場所や史跡などはまだまだ沢山ありそうです。今回の一連の記事以前にも、「杉田因
幡の墓」や「平山館」を投稿していますし、まだ行ってはいませんが、「矢井伊勢守屋敷」などもあります。
また機会を見て散策してみようと考えています。
散策日:平成29年(2017)11月17日(金)他1日
深谷上杉氏に関連する史跡等を数回にかけて紹介してきましたが、一旦、この「上杉館」で終了とします。
埼玉県熊谷市千代(旧大里郡江南町)にある上杉館跡を訪ねてみました。
上杉氏と言ってもいくつもの系統がありますが深谷上杉氏です。深谷上杉氏の興りから述べると長くなりますので省きますが、
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の時、後北条氏の傘下にあった深谷城主・上杉氏憲(深谷上杉家8代当主)は小田原城
に詰めていました。深谷城は、重臣の秋元長朝、杉田因幡が守備していましたが、前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦火
から守るため、秋元長朝、杉田因幡は前田利家らに城を明け渡しました。
所領没収となった氏憲は嫡男とともに信濃に移りましたが、その後上杉氏は、ここに来て居を構え上杉館を築いて小久保氏を名
乗ったということです。 (この写真は西側雑木林の道から撮影)
北側の道路から館があったと思われる場所を。近年、樹木や竹が伐採されたようです。
やはり北側の道路から同所を西方向に。雑木林の更に西側に上杉家の墓所があります。
北側道路から見た館跡東側の土塁(写真中央あたり)
館跡西側の雑木林に通ずる道。写真右側が館跡で土塁も残っています。
同じく雑木林に通ずる道から見た館跡と館跡南側土塁
館跡南側土塁
雑木林の西側道路にある「ふるさと歩道休憩所」
上杉家墓所はこの南方にあります。
上杉家墓所
墓所の中に建立されている墓誌
天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略に対し深谷城主上杉氏憲公は、止むなく城を開け渡し、嫡男憲俊と共に信濃国
大豆島(現在の長野市)に移る。
三男憲成はこの地に来りて居を構え、上杉館を築きて住し小久保氏を名乗る。氏憲公もまた後に、信濃より此の地に来り寛永
十四年(一六三七年)正月二十二日卒す。
上杉家は代々氏憲公を祖として崇敬し、爾来凡そ四百年連綿として今日に至る。(以下は没者の戒名のため省略)
深谷上杉氏は、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われ同族の上杉景勝を頼って信濃国に移住した
ようです。
墓石の写真はあえて載せませんが、この墓所の墓石等には、上杉氏の家紋である「竹に雀紋」ではなく「五七の桐紋」(上杉
桐)が入っています。自身には、その理由は分りませんが、こうして使われているというのは「五七の桐紋}も深谷上杉氏の
家紋なのでしょうね。
上杉謙信は、五七の桐紋を大親町天皇から下賜され、上杉氏の家紋のひとつにしています。景勝は謙信の養子(また謙信の甥
でもある)です。そんな関係から深谷上杉氏も五七の桐紋(上杉桐)を使うようになったのではないかと推測します。
南側の道路から
南側から見た館跡東側を南北に走る空堀と土塁 土塁上の竹も伐採されています。
実際の館跡(敷地)はもっと広範囲にわたるようですが、樹木や竹が伐採されて更地状態になっている場所を自身の勝手な推
測で館跡として捉えて説明をさせていただきました。
樹木伐採前の土塁はもっと高く、空堀はもっと深かったことが容易に想像されます。
上杉氏・小久保氏に関する話は色々あるようですが深くは考察しないことにします。
なお、上杉氏は現在もこの付近にお住いのようです。
10回にわたって深谷上杉氏を取り上げてきましたが、ここで一旦終わりにしたいと思います。
記事ごとにコメントを付けたため、他の記事との整合性がない個所もあるかとは思います。また、同じことでありながらも記
事によっては、関東入国、関東入府などと異なる表現をしましたが、そこは大目に見ていただければ幸いです。
深谷上杉氏(家臣等を含め)に関係する場所や史跡などはまだまだ沢山ありそうです。今回の一連の記事以前にも、「杉田因
幡の墓」や「平山館」を投稿していますし、まだ行ってはいませんが、「矢井伊勢守屋敷」などもあります。
また機会を見て散策してみようと考えています。
散策日:平成29年(2017)11月17日(金)他1日