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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

武蔵国城館カード 第二号「松山城跡」

2021年06月06日 | 城館雑記

松山城跡 (吉見町)
      



市野川に架かる「市野川橋」越しに松山城跡を望む
他の松山城と区別する意味から「武蔵松山城」、「武州松山城」とも呼ばれます。
東松山市(元は松山町)でなく吉見町にあるのになぜ松山城と言われるのか疑問に思う方も多数。
実は、松山城が先でその城下にあったことから松山町を称するようになったとのようです。




【本曲輪】 この本曲輪に建っていた城址碑は倒壊寸前の状態でした。この2年後に行った時も同
じ状態のままでしたし(重機が入るのが難しい場所ということもあるでしょうが)、ここではそれ
ほど目立ちませんが、藪状態の場所が多く、比企城館群跡の他3城館がよく整備されているのと比
較すると・・・おっと これ以上は書けません。それなりの事情があってのことでしょうから。

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武蔵国城館カード 第一号「小倉城跡」

2021年06月05日 | 城館雑記

小倉城跡 (ときがわ町)
      



【郭1(本郭)】 最初に攻城した時は樹木で郭の様子がよくわかりませんでしたが、この時は
伐採されていましたので見易くなっていました。




郭1東下腰郭(?)の【石積】

なお、史跡指定されている面積の中には一部小川町分、嵐山町分も含まれていますが、その大半と
主体部はときがわ町分ですので、ときがわ町に所在の城跡として捉えられています。

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武蔵国城館カード ~はじめに~

2021年06月04日 | 城館雑記


埼玉県比企地区には数多くの中世城館跡が点在しています。
比企地区文化財振興協議会と県立嵐山史跡の博物館が共同で作成した『武蔵国城館カード』全10種
を各市町村と嵐山史跡の博物館で配布していますので2日かけていただいてきました。

10の城館等は下記の通り

第一号
城館名:小倉城跡 (ときがわ町)
所在地:比企郡ときがわ町大字田黒字城山
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
配布場所:玉川公民館・都幾川公民館

第二号
城館名:松山城跡 (吉見町)
所在地:比企郡吉見町大字南吉見字城山
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
配布場所:吉見百穴入口

第三号
城館名:山田城跡 (滑川町)
所在地:比企郡滑川町大字山田字城山
指 定:埼玉県選定重要遺跡
配布場所:滑川町エコミュージアムセンター

第四号
城館名:腰越城跡 (小川町)
所在地:比企郡小川町大字腰越字南城山
指 定:埼玉県指定史跡
配布場所:小川町役場3階生涯学習課窓口

第五号
城館名:養竹院‐太田道灌陣屋跡 (川島町)
所在地:比企郡川島町大字表
指 定:未指定
配布場所:川島町役場2階生涯学習課窓口

第六号
城館名:青鳥城跡 (東松山市)
所在地:東松山市大字石橋字内青鳥
指 定:埼玉県指定史跡
配布場所:東松山市埋蔵文化財センター

第七号
城館名:安戸城跡 (東秩父村)
所在地:秩父郡東秩父村大字御堂字槻川東谷
指 定:東秩父村指定史跡
配布場所:東秩父村和紙の里ふるさと文化伝習館

第八号
城館名:杉山城跡 (嵐山町)
所在地:比企郡嵐山町大字杉山中窪
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
配布場所:嵐山町役場嵐山町教育委員会事務局窓口

第九号
城館名:熊井城跡 (鳩山町)
所在地:比企郡鳩山町大字熊井字城添
指 定:未指定
配布場所:鳩山町多世代活動交流センター2 階文化財分室

第十号
城館名:菅谷館跡 (埼玉県立嵐山史跡の博物館)
所在地:比企郡嵐山町大字菅谷字城
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
配布場所:埼玉県立嵐山史跡の博物館

※配布場所の住所、配布時間、休館日については省略しました

「比企地区文化財振興協議会」とは、比企地域(東松山市、小川町、嵐山町、吉見町、川島町、滑川町、
鳩山町、ときがわ町、秩父郡東秩父村)の文化財担当者で構成されています。
毎年、各市町村の持ち回りでの「文化財めぐり」(一昨年は東秩父村の文化財めぐり)、各市町村を巡回
していく「 比企歴史の丘巡回文化財展」(嵐山史跡の博物館を含む)も行っています(昨年は新型コロナ
の関係で両者とも中止)

「城館カード」はこれら比企地区9市町村と嵐山史跡の博物館がそれぞれ市町村の城館跡のひとつをカード
にしたものですが、正直、国・県指定史跡の城館が複数存在する町もあれば、伝承に近い程度の城館跡しか
存在しない町もありますが、公平にひとつずつ。

個々の「武蔵国城館カード」の紹介は明日からを予定しています。

武田狼煙台(山梨県山梨市)

2020年08月18日 | 城館雑記


狼煙(のろし)とは、物を焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって、情報を伝達す
る手段であり、狼煙を上げるために作られた施設が狼煙台です。

写真の狼煙台は山梨県山梨市牧丘町にある甲州名物のほうとうなどを提供してくれる『富士見茶屋いろり』の駐
車場に作られている模擬のつるべ式狼煙台です。

数年前までは、よく山梨県に出かけていました(よくと言っても年に2~3回程度)。ということでこの「武田
狼煙台」を何度も見ていましたし、『富士見茶屋いろり』にも2度ほど食事で寄りました。写真はありませんが、
お店の中には甲冑や多数の美術品が展示されています。

写真は10年前(平成22年・2010)の今日と同じ日8月18日に撮ったものですが、これから先こちら方面に
行くことは無理と思える状況になり、新たに写真を撮ることもないでしょうから、今更ながら・・

中世の城館跡

2019年12月28日 | 城館雑記


資料館ガイドブック4
  中世の城館跡  ―埼玉県入間・比企地方―
   発行 平成8年9月30日(第二版)

資料館ガイドブック6
  中世の城館跡  ―埼玉県大里・北埼玉地方―
   発行 平成1年7月10日

この2冊の冊子は、埼玉県立歴史資料館から発行されたものです。発行から30年以上は経っている
もので、B5版で其々表紙を含めて16ページです。当時、書類等はB版が使われていました。
発行元の埼玉県立歴史資料館は、現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館です。

過日、嵐山史跡の博物館の企画展を見学に行った折に、埼玉県立歴史資料館時代のバックナンバーの
冊子を数種類頒布していましたので、城館跡というこの2冊を購入してきました。
多分、この2冊のもの以外にも城館跡の冊子が発行されたと思いますが、残部はないようでした。
其々20数か所の城館跡の解説と写真・縄張図(一部)が掲載されており、今では公園として整備さ
れてしまったり、低くなってしまった土塁などの30年以上も前の城館跡の姿がわかるものも何点か
ありましたので、興味があったとともに参考になると購入してきた次第です。

丸岡城の天守は現存最古ではなかった

2019年03月30日 | 城館雑記


坂井市教育委員会は今月26日、国内最古の天守との説もあった丸岡城の天守(福井県坂井市)について部材の
柱などを調べた結果、建てられたのは江戸時代の寛永年間(1624~44年)だったことが判明したと発表し
たとのことです。

元々、丸岡城については、戦国武将・柴田勝家のおいに当たる柴田勝豊が天正4年(1576)に建設したとす
る説と、初代丸岡藩主本多成重が入城した1613年以降に建てたとする説がありました。

丸岡城の天守については、犬山城の天守(愛知県犬山市)と、どちらが国内最古の天守かとの論争がありました
が、これでこの論争にも終止符が打たれたようです。
日本最古の天守を売り物にしていた丸岡城ですし、国宝化を目指していた坂井市にとってはちょっと残念な調査
結果だったかもしれませんが、正直に発表したことには敬意を表します。

写真は、自身が平成24年(2012)11月に攻城した時のものです。

『続日本100名城』群馬県編

2017年09月24日 | 城館雑記


この写真は、2010年(平成22年)7月に沼田城跡を訪ねた際に撮ってきた本丸跡にある西櫓台の石垣です。




そして、これは沼田城跡について書かれた今月20日の新聞記事です。

城 名:沼田城(ぬまたじょう)
別 名:蔵内城
形 態:崖端城
指 定:市指定史跡(昭和51年(1976)3月30日指定)
所在地:群馬県沼田市西倉内町

沼田城は、本年4月6日に制定された「続日本100名城」に、「名胡桃城」(115番)、「岩櫃城」(117番)と
ともに群馬県内3城のうちのひとつに選定されました(116番)
昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」の影響か知名度が上がってきているようです。また、沼田市は河岸段丘とし
ても有名で本年2月13日放送の「ブラタモリ」では「大河ドラマ真田丸スペシャル」で河岸段丘が組まれました。
これまでは、真田氏の城と言うと、長野県上田市の「上田城」というイメージが強く、上田城イコール真田氏
といった観があります。しかし、真田氏が上田城に拠点を置いたのは僅か39年間ですが、長野市の松代城の10代
250年に次ぎ沼田城には1681年(天和元年)の真田氏の改易・所領没収(このころは沼田藩として独立した)まで
の約90年間を居城していたわけです。その割には、最近まで一般には沼田城イコール真田氏という印象はなかった
ような気がしないでもありません。


【沼田城にまつわる小松姫の逸話】
2012年(平成24年)5月16日放送「ザ・今夜はヒストリー」の映像を何枚か写真に撮ってありましたので、それを
織り交ぜて話を進めます。なお、沼田城に見立てたのは茨城県にある某城跡の模擬二層櫓です。どこかは秘密!



関ヶ原の戦いの直前、真田父子三人は下野国犬伏のこのお堂の中でこれから先のことを話し合い、父昌幸と信繁は西軍、
信之は東軍につくことを決しました。昌幸・信繁は信之と別れ犬伏を発ちました。これが世にいう「犬伏の別れ」






昌幸は上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れました。




沼田城は城主信之に代わって妻の小松姫が守っていました。




孫(信之の子)に会いたいという昌幸に、小松姫は「たとえ舅であっても敵である」と、武装した姿で対応し城門を開
かず追い返しました。




その晩、昌幸たちは城下の正覚寺に宿をとりましたが、後に、小松姫は子供を連れて昌幸のもとを訪れ、一緒に連れて
きた配下の者を見張りに立たせ、子供を会わせて舅の願いを叶えました。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心
したと言うことです。

一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に
解決したとも言わています。

『続日本100名城』埼玉県編

2017年09月23日 | 城館雑記


昨日の「埼北よみうり」に、”歴史 想い 馳せる 埼北名城案内”と題して、本年4月6日に選定された『続日本100名城』のうち、
埼玉県内から選定された3城が紹介されていました。今更と思われる方もいるかとは思いますが紙面を紹介しておきます。




◇忍 城 〔続日本100名城 118〕 県指定旧跡
武蔵国成田郷(現・熊谷市上之)を400年にわたり本拠地としていた成田氏は、戦国初期、忍地方を支配していた
豪族忍氏を滅ぼして忍に移りました。
元の御三階櫓は三の丸に建てられていたようです。昭和63年(1988)に本丸跡に再建されましたが、本来の場所
や構造・大きさが異なりますので、復興・模擬御三階櫓に分類されます。




◇杉山城 〔続日本100名城 119〕 国指定史跡(比企城館跡群)
「中世城郭の教科書」と称されるれるくらいあらゆる城郭技術が盛り込まれた縄張りの山城です。縄張りの特徴から後北条氏の城と
推測されてきましたが、発掘調査で山内上杉の陣所から出土される特徴的なかわらけが出土されたことから、山内上杉の城との見解
となりました。
しかし、縄張り研究者は「山内上杉の城ではない。後北条の城だ!」と猛反対。これが城郭研究で有名な「杉山城問題」ですが、ま
だ決着はついていないようです。




◇菅谷館 〔続日本100名城 120〕 国指定史跡(比企城館跡群)
館のあった本郭の周囲に郭をめぐらして大きな館跡になったようです。昭和48年(1973)に「菅谷館跡」として国指定
史跡となり、平成20年(2008)に、同じ比企郡内にある「杉山城跡」、「松山城跡」、「小倉城跡」の3城と併せて
「国指定史跡比企城館跡群」として再指定されました。館跡と表示されてはいますが、その構造・規模等から城跡と称し
ても決しておかしくはないようです。

一乗谷の船着き場

2017年09月20日 | 城館雑記


本日の読売新聞の記事です。
一乗谷朝倉氏遺跡は、「一乗谷城」の名称で日本100名城に選定されています。一乗谷城は、戦国大名
朝倉氏の館だけでなく城下町と4つの山城を含む縄張りを指すとのことで、山城部分城下町部分からなり
広範囲な城跡のようです。そして、今回新たな発見。

自身、数年前にこの一乗谷城のある福井市を訪れましたが、旅行日程・時間の都合で一乗谷城を予定に組
み入れなかった残念な思いをしたと今でも悔いています・・・

続日本100名城

2017年04月07日 | 城館雑記










公益財団法人日本城郭協会選定により、2006年(平成18年)に「日本100名城」が制定されてから11年経ちましたが、「城の日」である4月6日、
「続日本100名城」が発表されました。こうしたプレミアム的な選定は100を基準にしているようで、あまり数を多くしますと価値が落ちてしまうようです。
今回は2006年の選定から漏れたものや、100名城と同様の歴史的価値があるものを選んだといい、選定委員長を務めた小和田哲男静岡大名誉教授は
「城の評価の見直しや、地域の魅力の掘り起こしにつながれば」と話しています。
実際、名城と言われる城の多い県からばかり選ぶわけにはいかず、全都道府県から平均的になるよう選ばなければならず(前回では、実際には多い県では5城、
少ない県は1城になった)どうしても名城と言われながらも選に漏れたところが多かった気がします。200名城になっても、まだ「この城が」と思われる所が
多々あると思いますが、だからと言って更に増やしては名城が名城でなくなってしまいますのでこの程度でよいのかと個人的には思います。


一覧表の上の写真は、「続日本100名城」に選定された城館の中で、自身が攻城済のもの9城を並べたものです。
「日本100名城」の達成どころか3分の1になるかならないかの所に持ってきてさらに100増え、ますます攻城率が悪くなってしまいましたが、マイペースで・・・