AKB48の旅

AKB48の旅

ドラマW「不発弾~ブラックマネーを操る男~」

2018年08月26日 | AKB
ドラマWに外れなし(例外あり)なんだけど、総合的に見て、これまででも最高傑作の一つだと思う。

未読だけど原作が凄まじいことが伝わってくる。これって告発ものなのかと思わされてしまうくらい。なのに、そんな扱う材料の生々しさに対して、視点が単純すぎるというか、いささか「偏向」が鼻につく感がなきにしもあらずのような。あるいは、そこはもしかしてドラマ故の原作の単純化、もしくは制作サイドの「偏向」の現れそのものなのかも知れない。と言いつつ、いつもの如く重厚で鮮やかな演出だし、役者の演技も、おおむね素晴らしい。

たぶん主要登場人物は原作通りだと思うけど、モデルどころではない、ここまであからさまに実在の人物、実在の企業だらけなところが、あきれるほどに凄まじい。葛山信吾さん演じる芦原恒三に至っては、ほとんどモノマネ形態模写レベル。こんな小説が、そしてドラマが、何の制約もなく作れるのは、ホントに世界でも日本くらい、それも現時点に限ってなんじゃないかとすら思えてくる。

であるにもかかわらず、初放送は今年の6月とのことだけど、あんまり話題になってた印象がない。私が知らなかっただけなのか、それとも例によって便利ワードの、これが「忖度」というものなのか。

こんなとんでもない作品に、端役なんかではない、印象的な役として入山杏奈さんが出演してたことを、今頃になって知った。しかも深入りして書いてしまうなら、事務所の営業とかを超えた、ある意味AKB48の入山杏奈としての役どころになってた。こちらも話題になってた印象がないけど、やっぱりこちらも私が知らなかっただけ?

ちなみに永尾まりやさんの名前もエンドロールで確認したけど、どの役だったのか見ていて気づかなかった。




仄めかしか煽りか

2018年08月25日 | AKB
AKB新曲『センチメンタルトレイン』MVが物議を醸す2つの理由 強調される松井珠理奈の“不在”と『桜の木になろう』

実は、『桜の木になろう』には、ファンの間ではもはや定説となっている有名なエピソードがある。

フルバージョンには一切歌唱パートがなく全編ドラマパートで構成されている『桜の木になろう』は、春の卒業ソングともとれるが、そのドラマと歌詞から“遠いところにいってしまった帰らぬ友人を想う”内容ともとれる構成になっている。

その“遠いところにいってしまった”役をつとめているのが、他ならぬ松井珠理奈さんだった。

ファンならいやでもその設定を想起してしまう『桜の木になろう』の映像を、なぜあえて『センチメンタルトレイン』で不在の松井珠理奈さん唯一の実写カットとして挿入しているのか。その意図は定かではない。


「センチメンタルトレイン」とは、正直、距離を置いてしまってる。何度かテレビで披露されたものもちゃんと見てないし、当然のようにMVも見てない。その上で書いてしまうんだけど、この記事の通りであれば、そしてたぶん間違ったことは書かれてないんだろうと思うけど、とすれば、もしかしてその意図は、それこそ「桜の木になろう」のMVと同様のものなのかも知れない。


「指原クオリティー」の復活

2018年08月24日 | AKB
100年ぶりの更新

「指原クオリティー」の復活か、と思いきや、いたってふつーのブログ記事になってる。所々に以前の片鱗が見え隠れしないこともないけど、ほとんどノーマル。

たぶん逆説的な意味での「指原クオリティー」なんだろうと、とりあえあえずは受け取ることにしてみようかな。まあ、以前と同じという方が、よっぽど指原さんらしくないのだし、最近の指原さんのオトナぶりからしても、これが妥当なのかも。

「指原クオリティー」が懐かしく思い出される

「アイドルシーン」の視座

2018年08月23日 | AKB
乃木坂46新エース・齋藤飛鳥、 “手の届かない”アイドルの再来を予感

昭和の時代から長らくアイドルは“選ばれし存在”だった。時を経てなお人々の記憶に残る、松田聖子、小泉今日子のような王道的路線から、山口百恵、中森明菜のようなクールで影のあるスタンスまで圧倒的なカリスマ性があった。そのスタイルは様々ではあったが、共通するのはファンの“幻想”を保ちつつ、住む世界が異なるかのような“手が届かない”存在であることだった。

 90年代後半からその姿が徐々に変化していく。モーニング娘。やAKB48のグループアイドルの台頭で、アイドル像が“身近な存在”になっていく。最初から完成された姿を見せるのではなく、オーディション時からカメラが追いかけ、実力と人気を得るまでの“努力の過程”を見せていくことで、ファンを拡大。その流れは、女子アナ界にも通じるものがある。ミスキャンパス出身者のような“アイドル”的女子アナ像以上に、日本テレビの水卜麻美を代表とする等身大のアナウンサーが人気を博するように、“身近であること”が受け入れられる世相になってきている。

 そして、そんな“身近なアイドル”が定着すると次は多様化の時代に突入。HKT48指原莉乃の登場でかわいいだけではない“個性”が重要視されるようになった。指原莉乃やSKE48須田亜香里のように不美人を武器にしたり、自虐キャラ、炎上アイドル、さらには心の闇をさらけ出して女性の共感を勝ち得るアイドルも登場する。そんな現代に、ファンに媚びすぎず、一定の距離を保つかのような齋藤の在り方は、アイドルの“本質”を問いかけているようでもある。


たぶんこれが、一つの典型的な「アイドルシーン」の総括になるんだろうと思う。もちろんそれを否定するつもりはさらさらないし、例によって批判は避けるのスタンスに変わりはない。

ただ、こういった平面的な、リニアな認識だと、多くの重要な視点なり、それこそ「革新」が見えづらくなるんじゃないかくらいは、言い放っても良いんじゃないかとは思う。

確かに元記事の主題であるところの乃木坂46をフィーチャーしようとすると、こういった視座にならざるを得ないのかも知れない。けれどもAKBムーブメントが成し遂げてみせた「もの→こと→とき」は、もっと立体的でノンリニアで、さらにはフラクタルな相転移階層構造的であり、複雑系の存在様式だったという私見は既述の通り。

たぶん上記引用部分にも書かれてる通り、こういった視座こそが、根強い指原さん過小評価の源なのかも知れない。