AKB48の旅

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「アイドルシーン」の視座

2018年08月23日 | AKB
乃木坂46新エース・齋藤飛鳥、 “手の届かない”アイドルの再来を予感

昭和の時代から長らくアイドルは“選ばれし存在”だった。時を経てなお人々の記憶に残る、松田聖子、小泉今日子のような王道的路線から、山口百恵、中森明菜のようなクールで影のあるスタンスまで圧倒的なカリスマ性があった。そのスタイルは様々ではあったが、共通するのはファンの“幻想”を保ちつつ、住む世界が異なるかのような“手が届かない”存在であることだった。

 90年代後半からその姿が徐々に変化していく。モーニング娘。やAKB48のグループアイドルの台頭で、アイドル像が“身近な存在”になっていく。最初から完成された姿を見せるのではなく、オーディション時からカメラが追いかけ、実力と人気を得るまでの“努力の過程”を見せていくことで、ファンを拡大。その流れは、女子アナ界にも通じるものがある。ミスキャンパス出身者のような“アイドル”的女子アナ像以上に、日本テレビの水卜麻美を代表とする等身大のアナウンサーが人気を博するように、“身近であること”が受け入れられる世相になってきている。

 そして、そんな“身近なアイドル”が定着すると次は多様化の時代に突入。HKT48指原莉乃の登場でかわいいだけではない“個性”が重要視されるようになった。指原莉乃やSKE48須田亜香里のように不美人を武器にしたり、自虐キャラ、炎上アイドル、さらには心の闇をさらけ出して女性の共感を勝ち得るアイドルも登場する。そんな現代に、ファンに媚びすぎず、一定の距離を保つかのような齋藤の在り方は、アイドルの“本質”を問いかけているようでもある。


たぶんこれが、一つの典型的な「アイドルシーン」の総括になるんだろうと思う。もちろんそれを否定するつもりはさらさらないし、例によって批判は避けるのスタンスに変わりはない。

ただ、こういった平面的な、リニアな認識だと、多くの重要な視点なり、それこそ「革新」が見えづらくなるんじゃないかくらいは、言い放っても良いんじゃないかとは思う。

確かに元記事の主題であるところの乃木坂46をフィーチャーしようとすると、こういった視座にならざるを得ないのかも知れない。けれどもAKBムーブメントが成し遂げてみせた「もの→こと→とき」は、もっと立体的でノンリニアで、さらにはフラクタルな相転移階層構造的であり、複雑系の存在様式だったという私見は既述の通り。

たぶん上記引用部分にも書かれてる通り、こういった視座こそが、根強い指原さん過小評価の源なのかも知れない。