幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

私の顔

2019-03-17 20:33:50 | Weblog

熱が出て鏡を見る

いつもと違う顔が映っている

親父の顔に似ている

あまり好きではない

でもこの顔が

この肉体の

DNA本来の顔なのだろう

でも“私”という霊が宿って

肉体本来の顔とは少し違った顔になっていた

でも改めて考えてみると

僕は本当の私の顔を知らない

知っているのは

この肉体の顔だけだ

そして

今鏡に映っている顔が

肉体本来の顔になっているのだとしたら

逆に今私の霊は

肉体から抜け出しているのだろうか

きっと少し抜け出しているのだろう


熱が出て

私は

私が少し抜け出した

私の肉体の顔を見ている


私はこの肉体の顔を好きではない

これは私の顔ではない

親父によく似ている

DNAの作り出した顔だ


私の霊本来の顔は

こんな顔ではない

でも私は

その私本来の霊の顔を

見たことがない





















最近、頭がボーとして

2019-03-13 00:02:03 | Weblog

最近、花粉のせいか春一番が吹いたせいか
頭がボーとして
セルロイド映画の中にいるよう
もしそんな映画があるとしたら…(笑)
高いお金を払わなくても
法律を犯して警察と喧嘩しなくても
まるで空気がドラッグのよう
もしそれがナチュラルハイだとしても
倫理的に淫らになってるわけではないと思うのだが…(笑)
今にも幽体離脱して
アストラル界に行ったとしても
誰も気づかないだろう
なぜなら
私のいる世界は誰にも理解できない世界だから…(笑)

























3月9日トゲピー(飼ってたヤモリ)が死んだ

2019-03-12 21:41:04 | Weblog

9月23日の秋分の日にヤモリはうちに来て、寒い冬を蜘蛛などを食べて過ごして、やっと暖かくなって、ハエを6、7匹、ウスバカゲロウを1匹食べて、これからはたくさん餌がとりやすくなってよかったと思っていた矢先だった。
きっと、死んだハエを一匹食べたせいだと思う。私が帰るのが遅くなって、タッパーに入れていたハエが死んでいたが、トゲピーにあげてみたらすぐに飛びついて口に入れてしまった。死んだばかりのハエだから食べても大丈夫だと思っていたら、今日仕事から帰ってきたらトゲピーは死んでいた。ハエを二匹捕まえてきたのに…。タッパーの中でまだ生きていたハエは外に逃がした。ハエにとっては命拾いしたのだと思う。

I buried my gecko under the cherry full blossom tree.
When I died I’d like to be buried the same way as I did to my gecko. :))




皆様、悲しんでくださってありがとうございます。
ふと気付いたんですが、この5か月、ヤモリの目になりかわって、ハエや蛾や蜘蛛がいないか、いつも気を使って見なくてもよくなったんだと気づきました。昼食を食べ終わった後の昼休み、仕事帰りの帰宅途中、もう虫を探して徘徊する必要がなくなったので、その時間を今度は何に使おうか、途方に暮れています。





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刹那とブランク

2019-03-04 21:47:31 | Weblog

刹那は一瞬だ
一瞬は持続しない
切り取られた静止画の一コマだ
だからそこに留まることはできない
そこに留まっていたら時間が経過しない
運動も起こらない
だから刹那を常に認識し続けることはできない…
と思っている
でも本当にそうだろうか?
“現在”は一瞬の刹那の連続だろうか?
だとしたら静止画と静止画の間には必ずブランクがあるはずだ
私はそのブランクを意識できない
だから
静止画の連続があたかも動いている動画だと勘違いしてしまう
なぜなら
静止画だけに心を奪われて
その間にあるブランクを忘れてしまうからだ

刹那と刹那の間には
とてつもなく深い
そして永遠とも言える
漆黒の淵がある
それがブランクだ
空だ
光もなく闇もない
刹那はそこに浮かぶ無限の断片だ

それを繋ぎ合わせてストーリーを創作している
それがマインドの世界
そしてマインドは
言葉固有の文法によってできている

初めに言葉ありき
言葉によって全てが創造された

しかし私は更に
言葉に拠らない世界をも
想像できる

それは歴史上初めての新しい世界であり
常に新しく更新される創造の世界
そこでは創造の法則さえもが
新しく更新され続ける
























言葉の文法に支配された現実

2019-03-04 21:43:46 | Weblog

関係ない話しだが、仮定形の言葉がある。「もし…何何だったとしたら」。英語では過去形になる。ということは仮定とは過去にしかあてはまらない。「もしあのときああしていたら…、きっと今の私は違っていただろう。」
でも、未来形の仮定もあり得るのではないか。
「If I will do this in the future…」 「もし私がこうしたら…」それより未来の私はこうなるだろう。だから私は今これをする。または、これをしない。
だいたい、私などは、未来形の仮定の文法を使って、頭の中であれこれ考えている。
それは、この言葉の文法に則ってしか、私の頭は考えることができないからではないか。逆に言えば、私の行動は、思考の文法によって規定されているのではないか。
つまり、仮定法現在という文法はない。「もし今私がこれをしたら…」。と仮定しつつ行動する思考は文法上あり得ない。
いやいや、それは物理学的時間の問題だよ、と言われるかもしれないが、そうだろうか。逆に物理的なものは、私の思考の文法によって規定されているのではないか。
そんな、皆様には関係ないことをちょっと考えたので、メモとして書いてみた。笑笑

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