幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

自伝的回想 改めて エモーショナル・レスキュー

2016-02-29 00:26:21 | Weblog

 
 
 ぼくの「自伝的回想」(の題を改め「エモーショナル・レスキュー」にしました)を読んでくれた人が
 
 こんな感想をくれた。
 
 彼はぼくと同じ、シリウス星出身者だということがわかった。

http://hoshius-emotional.seesaa.net/s/

 
 ・・・・このエッセイ。珠玉の名品ですね。僕はこれをあと何十回も読むでしょう。
貴方はとても記憶が良く、「今」と言う瞬間をキチンと深く味わっているから、こういう文章が書ける。性描写と食事描写は小説家にとって一番難しいというけれど、難なくやってのけている。
 瞑想の体験がベースになって、自己観照力が強まっている。何時でもヴィパサナしていると言う事です。セックスで射精しないトレーニングも、グルジェフのストップモーションと同じ。食事も、味に溺れず味を知る、これも同じ。

しかしこのご婦人の達観ぶりは凄い。達人ですね。人生の名人の域です。自分が無いから、的に矢が吸い込まれてゆく弓道の名人の話と同じですね。
しかし、かっぽう着を着たどこにでもいるような老婦人が、このようなことを語り、それをあなたが体験したとは・・・・。
これは現代の神話だと思います。

・・・僕は達人ではないので、貴方にうるさいと感じさせる程に、お送りしたメールのボリュームが適量から過ぎてしまったかも、しれません。そうであれば、お許しください。

 貴方も凄い才能を御持ちでありながら、成功を求めて世に媚びて、うまく泳いで行くのを拒否してきたタイプの人間なのでしょう。人類の歴史の中で隠者でありつずけたシリウス人の特徴です。
 グルジェフ然り、アレスター・クロウリー、テレンス・マッケナ、シュタイナー、ウイリアム・ブレイク、古くはパラケルスス、一休、親鸞、空海、そしてチベットの名も無き無数の僧達の様に・・・。
 
 
 
 ありがとう。
 
 ちょっと褒めすぎかもしれないけど
 
 とっても嬉しかったです。
 
 

ポルノか芸術か?

2016-02-23 01:34:27 | Weblog

CGで裸の女児、児童ポルノか芸術か 裁判で争点に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160222-00000024-asahi-soci

というヤフーニュースを美術評論家の森下泰輔さんが取り上げて論じたスレッドに私は下記のように書き込みました。

簡単に言うと、「顔を似せて描いた」ことが致命的だったということですね。“顔”には肖像権がありますから。シーレも豚箱に入れられたことだし、社会は“猥褻”を許さないでしょう。アダムとイブが裸体をイチヂクの葉で隠したときから、人間は善悪を知り楽園から追放されたのだから。

世間は“楽園”ではないということです。パンツを脱いで街の中を歩くことはできない。何故なら人間は楽園を追放された動物だから。
でも“善悪”を知ってしまった、本能の上位に理性を持つ動物だとしても、そのことをあからさまに暴露すると、“社会的人間”はその人間を集団から排除せずにはいられないのです。

ときには、理性より抑圧した性の方が強いのです。その性を解放させてしまったら、革命が起きます。
旧約聖書の創世記以来の大革命です。

私が17才のときに行ったインドのアシュラムでは、偉大な実験をしていました。“性の解放”です。ところが閉じられた共同体は、それより大きな“社会”の慣習、法律に必ず潰されます。多くのカルトが集団自殺するのは、そうするより他にないことを知っていたからです。

エロースと猥褻

2016-02-15 00:38:13 | Weblog

以下は、ウィキペディアからのネオプラトニズムのプロティノスの解説からの抜粋です。
“人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。”

またウィキペディアからの抜粋です。すみません。
“アガペー(ギリシア語: αγάπη[1])は、キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛なので、旧約聖書には、神の「不朽の愛」としてでてくる。新約聖書では、キリストの十字架での死において顕された愛として知られる。”
長くなってしまって申し訳ありませんが、皆さん既にご存知のように「無償の愛」「不朽の愛」がアガペーであり、「一者への愛」がエロースのようです。
また、チベット密教のタントラは、男女の愛によって、世俗から解脱できると解いています。一者との合一を“マハムドラー”といいます。このとき、男女の交わりに“猥褻”さは一切ありません。愛は、男女間のものだとしても、神聖なのです。