幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

生と性のエネルギー(タントラ的なこと)

2021-04-20 00:39:00 | Weblog

シャンタンの“ゆるゆる瞑想会”でシャンタンの隣で瞑想していた女性が“いってしまった”という投稿を見て思い出しました。私もそれと似たようなことを今やっています。もう少し過激(?)な形で…。
シャンタンの瞑想会では、男と女が対になって肩に触れ合ったりします。コロナの時代になってからはなおさらですが、見ず知らずの男と女が体に触れ合う事は日本の社会ではほとんどあり得ません。街中で、あるいは電車の中で、ちょっとでも肩に触れたりしたら、それは犯罪行為になりえます。この人口が密集した都会生活の中では、人間の精神はますます孤立化し阻害化されていきます。でも本当は、心の奥底では“ふれあい”を求めています。心と心の触れ合いだけではなく、身体と身体の触れ合いをも…。私はそう思います。
では何故、私がそのようなことを始めたのかというと、話せば長いバックグラウンドがあります。
シャンタンも私も“シュリ・ラジネーシ・アシュラム”にいたことがあります。シュリ・ラジネーシといってもピンとこない方でも、OSHO といえば分かる方がいるかもしれません。でも僕がインドに行ったときにはOSHO の“O”の字もありませんでした。バグワンがOSHO になったとき、僕は思いました。老師ではなくてなんで和尚なんだろう、と。老師の方が禅っぽくてカッコいいと思いました。でもOSHO はocean からきているなどとバグワンが言っているのを見て、私は笑ってしまいました。その頃はOSHO は金ピカのブランドの時計をはめてオレゴンにコミューンを作ろうとしていた時期で、私が行ったプーナのアシュラムの頃とまるで別人のようになっていました。その頃は僕はもう、バグワンに興味を失っていました。でもその話しは別にして、OSHO のところでは(バグワンの時代からそうですが)、男女の“触れ合い”が大切にされてきました。男女が肩に触れ合うなんてだけでなく、抱き合い、あるいはもっと過激なこともグループで行われていました。“グループ”とは、グループになって泊まり込みで行われる心理療法のことです。当時のバグワンのアシュラムは、男女でそのようなグループ療法が行われているたぶん世界で唯一の場所だったのではないかと思います。(もちろんカリフォルニアのエサレン研究所もあるでしょう。でもエサレンは心理学に立脚していて頭〔理論的〕が主なのに対して、ラジネーシ・アシュラムは宗教に立脚していて心〔ハート〕がその対象だったように思います。)
では何故そのような“ワーク”をやる必要があるのでしょう? それはフロイトの深層心理学から来ている考え方です。人間の深層心理には個人が抑圧してきたリビドーが押し込められている。それがトラウマになって“神経症”を患っているという考えです。更にそのリビドーは、ライヒになると、“オルゴン・エネルギー”と呼ばれるようになります。それは“生のエネルギー”です。そして“性エネルギー”でもあります。ライヒはセックスする男女に電極をつけて、実際にオルガズムに達したとき、どのような電気的変化が生じるのかを測定しました。オルゴン・エネルギーは生エネルギーであり、またオルガズムのエネルギー、性エネルギーでもあるのです。そして彼は実際にオルゴン・ボックスやクラウド・バスター(人工降雨機)などを発明しました。(私は太古、ユーゴスラビア辺りで雨乞いをしていて、そのときの私の弟子がラジネーシだったと言われたことがありますが、性エネルギーによって雨を降らせることは、ライヒの理論によればあながちデタラメではないことになります。)
話しは横道にそれましたが、私もシャンタンと同じように70年代後半にラジネーシ・アシュラムにいて、過激な“男女の愛と性の解放”の現場を体験したので、たとえばこのコロナの時代にそのような“瞑想”をやったとしても、それは今日や昨日に思いついたことではないのです。
私はこの地球に生まれてきて強く感じたのは、ライヒのいう“オルゴン・エネルギー”がいかに抑圧されているかということでした。私は幼な心に、この“生と性のエネルギー”を、芸術(絵画や音楽、詩など)によって解放することをやろうと、心に決めました。私はその決意の瞬間を今でもはっきり覚えています。
そして、最近、私が対になって“瞑想”した異性がオルガズムに達する(オルゴン・エネルギーを感じる)ことが起きてきました。これはライヒのいう「生と性の解放」であり、個人的トラウマの解放であり、かつまた社会改革でもあるのです。これは、私なりの、この抑圧された社会に対するささやかなレジスタンスでもあり精神革命への静かな誘いでもあるのです。
 
 2021.4.5 facebook に投稿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



僕は詩人だから 2021. 3. 31

2021-04-01 02:40:00 | Weblog

僕は詩人だから
フィクションの中に生きている
言葉で詩を書く必要はもうない
生きている一瞬一瞬が奇跡的だ
とても奇妙でもある
生と死が
醜く絡み合って
性が
意地らしくねじれ合っている
何人もの夢の電波が
干渉し合っている
その中で僕がピックアップした現実は
僕にしかわからない
物語
奇想天外なエンドレスストーリー
登場人物にはその断片が分かるだろう
でもほんの断片でしかない
僕の経験している詩の章句は
僕だけの公理で必然的に繋がっている
でもその必然は
客観的なものではない
だから
誰にも説明できない
説明できたら
僕が生きる必要はないだろう
一瞬先は闇
ストーリーは急に展開する
それは自分にも分からない
だから詩を書く必要はもうないだろう
書く暇などない
直感は書き留める前に
猛スピードで過ぎ去ってしまう
それを追いかけていたら
次の瞬間を逃してしまう
だから気をつけて目を見開いていよう
こんなストーリーは
まるで
極彩色の幻影
滅多に見られるものじゃないから