幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

この脳味噌は私のもの

2016-05-28 21:40:40 | Weblog

この脳味噌は私のもの。
製薬会社のものじゃない。
一回五分の診察で処方される
何種類もの薬に
もうコントロールされるのは
お終いにしたい。
今日から断薬やってみる。
それもいきなり。
全ての薬を断つのだ。
1、2、3、4、5、6
6種類もの薬。
全部一気にやめるのだ。














僕は君とは違う

2016-05-24 21:31:40 | Weblog

僕は君とは違う

裏表なくスポーツマンで

単純明解な君とは

僕にはいろいろな引き出しがあって

僕には裏表がある

急にスイッチが入ると

自分でもコントロールできない自分が現れる

性と聖

美と死

それらが

下意識から解放される

そうなるともう自分は

裏の自分の操り人形でしかなくなる















宗教家

2016-05-07 02:30:46 | Weblog


宗教家
A teacher of religion
oil pastel on A4 paper

宗教家は幻視者でもある。彼はイデアは外にあるのではなく、自分の内にあることを知っている。真、善、美。それらのイデアを探求することを何より愛している。彼は神が彼を愛する以上に彼が神を愛したいと思っている。


宗教家の妻

2016-05-07 00:30:16 | Weblog

宗教家の妻
Wife of the teacher of religion
oil pastel on A4 paper

宗教家の妻は、夫が神を愛していることを知っている。そして、夫が自分のことを愛するのは、自分の中に神を見ているからだということを知っている。
そして、自分の内なる神に自分は愛されていることを知っている。夫は真、善、美の理想を探求している。その夫の理想が自分であることに自負を感じている。


パゾリーニのデカメロン

2016-05-06 21:36:21 | Weblog

皆んな知ってる?

僕らが十一歳か十二歳の頃

大晦日は、あいも変わらず

“紅白”をやっていた

僕はもちろん“紅白”なんて見ずに

東京12チャンネルの裏番組を観ていた

パゾリーニの“デカメロン”

部屋に鍵をかけて

マスターベーションしながら

パゾリーニの“デカメロン”を観ていた


皆んな偉いな

2016-05-06 21:04:04 | Weblog

皆んな偉いなと思います

ちゃんと日本語を話し

“自分”というものを持っている

僕は日本語の文法もよくわからず

確固とした“自分”というものを持っていない

それどころか、

「何故、私は、ここに、こうして、いるのか」

が、よくわからない

それは宇宙の神秘だとしても

その神秘を

上手く日本語にして表現しようとしても

できない

僕はただの凡庸な啞だ

目を開けていても見えない

盲だ




何故、宇宙は人類を造ったのか?

2016-05-05 18:40:51 | Weblog

何故、宇宙は人類を造ったのか? SさんとFB上でやりとりした私の発言部分を抜粋して掲載させていただきます。
何故なら、この事こそ、私が物心がついた頃からずっと考え続けてきたことだからです。

何故宇宙は人類を造ったのか?

それは、意識をもった存在を創り出すため。^o^

もし宇宙に意識が無かったら、存在するという意識もなく、存在しないことと同じことになってしまいます。“宇宙が存在すること”と、“私の意識が存在すること”は、最大の神秘だと思います。

そうですね。
だから、デカルトは炉部屋に閉じこもって、理性では疑い得ない“第一命題”を導き出したのです。
コギト エルゴ スム。
我 思う 故に 我有り。です。
人間の五感で“視覚”を偏重し過ぎたのは物理学だと思います。アインシュタインは、“光速絶対”の方程式を創造しました。目に見えるこの光より速いものは存在しないのです。かつて、ネオ・プラトニズムが真理を光に喩えたのを思い出します。

哲学的思考によってしか認識できない“有”が存在すると思います。
“哲学的”と書きましたが、“数学的”とも言えるのかもしれません。

表象といいますよね。目で見ていても、そこに概念が無かったら何を見ているのか認識できませんよね。
私はイデアの世界が最初にあったと思っています。
人間の言葉は、最初にあったイデア世界のロゴスを映し出したものであって、言葉による知的活動そのものが、宇宙の法則を創造したロゴスの似姿なのだと思います。

だから、宇宙法則と人間の知性は矛盾しないのだと思います。

もっと言えば、宇宙法則とは、人間の知性によって創造された体系だと思います。宇宙そのものは無限であり、人間の知性が理解したほんの断片が“宇宙の法則”と呼ばれているに過ぎない、と。

聖書「ヨハネによる福音書」1-1に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は 神であった。」と書かれています。言葉によって“神”は、万物を創造したのです。そして神は「我々に似せて」人間を作り出したのです。つまり、我々が使う言葉は、原初の神々の使った“言葉”に似ているのです。言葉そのものが神であったのだとすると、知的思考は神々の創造と同じく、宇宙の法則を創造できるのです。ニュートンの知性がニュートン物理学を創造したように、アインシュタインの知性が相対性理論を創造したように。知性は、神々の創造と似ているのです。

“神”と言うと、その時点で思考が停止してしまいますよね。神々を引き合いに出せるのは近代までで、ニーチェが登場してからは、神とか“イデア”だとか、形而上の存在については、安易に言及できなくなりました。しかし、ニーチェは自らが“神”になったのだと思いますが、ニーチェはあの様な形でしか“超人”になれなかった。

もう一人、自らが神になった人がいます。ディアギレフバレー団のニジンスキーです。ニーチェにしろニジンスキーにしろ、彼らは、狂ったのではなく、我々凡人の及ばない高みに到達したのかもしれないと思っています。

「人間は発展途上の神である」と言ったのはヒットラーだそうですが、ニーチェの超人思想に傾倒していたのだと思います。ニーチェやニジンスキーが神になったのだと思っているのは、私がかってにそう思っているのであって、証明はできません。ただ「ニジンスキーの手記」には、私(ニジンスキー)は神になったのだという記述があります。東洋ではもっと別の見方をするのかもしれません。「精神病院にいる何割かの人は、我々のレベルから下に落ちたのではなく、我々のレベルからより解脱に近づいた人達である」と、インドのグル(自ら、光明を得たと言った)、ラジニーシは言っています。
精神の高みについては、客観的には議論できない事柄だと思います。自らが主観的に体験するしかないのだと思います。けれども、主観に傾き過ぎるのも危険であって、禅では師と弟子の関係ができているのだと思います。

そうですね。
主観と客観とは厳密には分けられないのかもしれません。
議論できて、楽しかったです。