幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

“美”のイデア

2016-11-16 08:48:41 | Weblog

“言語”は、“思考感覚”の表現である。“思考感覚”とは、思考を感じる感覚のことである。この感覚は、倫理に縛られてはいない。倫理は思考そのものの道筋を規定する。しかし、正しい筋道を踏んだ思考であるからといって、正しい答えに至るとは限らない。“正しい”ことと“無矛盾”であることは別物だから。また、“正しいこと”がいつも“快感”であるとは限らない。正しいことはイデアに属し、快感は感覚に属するものだから。そして感覚は、神経繊維の束が集積した感覚器官によってその刺激が識別され、意識に運ばれ、意識化される。イデアは、思考によって辿りついた正しい認識と似たものであるが、美のイデアは、感覚器官が識別した最高の感覚と似ている。“美”とは、視覚における味覚であり嗅覚であり触覚である。“美”のイデアは全ての感覚器官を逆の向きから、つまり精神から肉体へと刺激する。

















感覚の表現

2016-11-15 22:17:15 | Weblog
若い頃は、アートとは、感情の表現だと思っていた。でも最近は、感覚の表現ではないかと考えるようになった。

今日の夕方、仕事帰り、スーパームーンの満月から一日過ぎた月が、ぶ厚い、冬布団のような雲を透かして輝いていた。
そしてもうすっかり冬の寒さが感じられる晩秋なのに、まるで春一番に戻ったかのような暖かい強風が吹き荒れていた。
僕は久しぶりに感じた。若かった頃、風の匂いを嗅いで、まるで一匹の野良犬のように、獣の悦びを感じていた頃の“感覚”を。今ではすっかり麻痺してしまい、すっかり忘れてしまっていた生々しい“感覚”。それは地球が光と闇の中間を通過するとき、静かに、しかも激しく、夕暮れの祝杯を挙げる歓喜。今日一日の終焉。夕方の気配。若い頃私は、朝には朝の気配を感じ、白昼には白昼の気配を感じていた。そうだ。幸せも悦びも、この私の感覚器官で、その神経で、感じられるものだったのだ。歳をとってそれを失いつつあるとき、私がほんの幾ばくかでもその“感覚”を思い出すことができたとき、それは他ならない、エクスタシーであった、今日の夕暮れ。

( “言語”は、“思考感覚”の表現である。)