幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

誰か僕のために詩を語ってくれないか

2014-11-23 22:37:57 | Weblog

誰か僕のために詩を語ってくれないか

カリフォルニアのメンドシーノの

あのオークの林と真っ赤なマンザニータに覆われた山端に点々と存在するティピとヤート

そして、雨が降るとどっと流れ出すワッシュアウトの水の冷たさ

木々を吹き抜ける乾いた風の、呼吸のような音を

誰か唄にして歌ってくれないか

ギターを弾いて、あの川の畔で

マイナーに外れたソプラノ

2014-11-18 22:57:22 | Weblog

灰色の首
マイナーに外れたソプラノ
一度は考えたことがある
目には見えないセラピールーム
味方はそれしかなく
あとは自殺のための高層ビル
立体交差の高速道路でもいい
新宿の
朝の
ガラスのビルは硬く
眠く
静かに眩暈の渦の中に
揺れて
揺られて
渡るスクランブル交差点


創造

2014-11-06 00:02:57 | Weblog

Facebookのどこかに、「思考が存在するから時間が存在する」と書いてあったのを思い出しました。つまり、宇宙の始まりから終わりまでは、既に全体として存在しているのです。思考は、そのひとつひとつを“思考”として時間軸の中に再創造しているのです。まるで“神”であるかのように。

神々の創造

2014-11-05 23:47:52 | Weblog

時間を遡ると、ビッグ・バンに行き当たるなら、我々もビッグ・バンだったわけです。
つまり自分の中に永遠の過去であるビッグ・バンと永遠の未来を含んでいるのです。
神は、我々の創造的知性が創り出した概念であって、この知的創造こそ神々の似姿として神々が我々を創造した理由なのだと思います。
神と言うと聖書の神を思い浮かべますが、旧約聖書には、“我々に似せて”人間を創ったと“複数”で書かれているんですね。アダムとイブの寓話は、その後に書かれています。
つまり、創世記は、複数の神話の寄せ集めなのだと思います。
“神”という絶対的存在を説いているのは、旧約聖書を聖典としているユダヤ、キリスト、イスラームの一神教ですが、その旧約聖書に、“神々”が初めに出現しているのです。ちょうど“我々”人間が複数であるのと同じように。