以下は、『現代思想 1975年7月号』(《この号の記事は皆興味深いです》 特集=反文明の思想は可能か カウンター・カルチュアの現在 )掲載の日吉真夫 論文『意識の拡大とは何か』の感想を弁護士の丸井英弘先生に求められて書いた私の感想文です。
———
「17才で翔ぶことを覚えた」(『マリファナ・ナウ』にそのように題した私の手記が載っています)私としては、「日吉論文」は100%理解できました。
日吉先生の言う「マリファナは意識を拡大するための触媒である」という説や、現代人は言語によって自らを封印してしまっている、マリファナはノンバーバルコミュニケーションを取り戻すための道具であるという主張は100%理解できます。
なぜなら私は、17才でインドのバグワンのアシュラムで“至福”を体験したからです。
意識を拡大するマリファナを使いながら、バグワンの提唱する瞑想をしたためでしょう。
そして19才でカリフォルニアのエルクバレー・コミューンに行き、Dr. Bob(ヒッピーの親玉みたいな人)と同じヤートで寝食を共にして、朝起きたときから夜、目を瞑るまで、センサミアやインディカを嗜み、私は完全な“犬”になりました。山にいた二匹の犬とテレパシーで話しができたし、カスタネダの本を原書で読んで理解できました。
ところが日本に帰って来て成人してからは、一切の“幸福”を、自ら封印しました。
だから、日吉先生の論文で一番切実に私に響いたのは、「マリファナは“幸福”を思い出すための道具である」という部分です。
“幸福”は、私が40年に渡って封印してきた感覚だからです。
犬のような動物は、人間のような大脳新皮質の言語を発達させなかった分、人間よりも“宇宙との一体感” すなわち“幸福”を感じているのではないでしょうか。そして、この“宇宙との一体感”である“幸福”を忘れてしまったからこそ、人間には様々な問題が浮上し、それを解くための言語的な“思考錯誤”を始めたのだと思います。
ところが人間も、他の動物と同じく、“幸福”を感じる権利はあるはずです。“幸福”を感じることは“罪”ではないはずです。ところが、言語的知性に支配された人間社会は、法律によって“幸福”を感じることを“罪”だと規定しました。「なぜなら我々人間は、動物より高等である、そして高等でなければならないから」と自らを定義したからです。それがデカルトに始まる近代だと思います。いや、アダムがイブの誘いにのって禁断の果実を食べて自らが裸であると認識したときから、蛇に象徴される“分別知”を持った、動物とは区別される人間が始まったのかもしれません。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、マリファナはそのくらい重大な問題を孕んでいるのだと思います。
ウィルヘルム・ライヒは、“性と生の革命”を提唱しました。オルゴン・エネルギーとはフロイトを持ち出すまでもなく性エネルギーです。それはあらゆる生命のエネルギーであると同時に、快感のエネルギーです。快感と言うと卑猥かもしれませんが、幸福と言い換えることができるかもしれません。そして、人間社会はこの幸福の源である性を封印しました。それは、マリファナを麻薬だと規定したことに繋がるのではないかと思います。つまり、個人個人が自由に“幸福”を感じては困るのです。個人個人が“宇宙との一体感”を感じたら、為政者は大衆を支配することができないからです。だから逆に言えば、“宇宙との一体感を感じること”や“性エネルギーを解放すること”、そして“マリファナを解禁すること”は革命でもあるのです。つまり、それが60年代にやろうとしたけどできなかったベビーブーマーたちの革命でもあったのです。でも、夢は敗れたわけです。私は、その後の世代です。
“ジェネレーションX”とダグラス・クープランドが名付けた世代であり、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンが名演した映画『ファイトクラブ』の原作者であるチャック・パラニュークと同じ歳です。
つまり結局、何が言いたいかわからなくなってしまいましたが、私のように、団塊の世代の人たち(ヒッピーや赤軍派や)のことも知っていて、次世代に橋渡しできる存在は貴重ではないか、と自ら思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
(上記の文中で“幸福”という言葉を多用していますが、私はあの宗教団体(幸福の◯学)とはなんの関係もありませんので、あしからず…)