幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

帰らない旅

2018-05-25 20:59:36 | Weblog

旅に出て

もう帰ってこない

片道の夜行列車に乗り

雪の降る行き先は見えない

たぶん私さえも失くしてしまうのだろう

死を待つまでもなく

神秘はすぐそこにある

どこにでもある





















グル・ラジニーシは明確にドラッグに反対している

2018-05-20 23:12:29 | Weblog

グル・ラジニーシは明確にドラッグに反対している。
そして、バグワンはベジタリアンでもあった。
サイキックなパワーも持っていた。
殺されてしまって残念だ。
ただ、あれ以上教団が大きくなったら、バグワンにはコントロールできなかったと思う。
バグワンは初めから教団の経営には興味がなかったのだと思う。
バグワンが死んで、アシュラムが“瞑想リゾート”になってよかったのだと思う。
エサレン研究所も、シリコンバレーエンジニアのための“メンタル・リゾート”になっているらしい。
70年代80年代のラディカルな“精神の実験場”は今や、大人のための“スピリチュアル・ディズニーランド”になった。
それはそれでいいことかもしれない。
逆に社会的になって社会変革に走ると、革命を起こしたくなって反社会的になる。でも、
バグワンが言ったのは、「世界にありながら世界に属さないこと」だった。ヒマラヤに隠遁して瞑想に耽ろ、とは言わなかった。そこがバグワンのすごいところだと思う。
でも結局は、本当の師と弟子の関係を持てなかったのではないか。達磨にしろティロパにしろ、弟子はたった一人だけだ。何万人もの弟子がいたら、本当の師弟関係は築けないのではないかと思う。バグワンは、出口王仁三郎と並ぶ新興宗教界の巨人だと思うが、二人とも後を継ぐ弟子には恵まれなかった。勿論、これは私の私的な感想だ。大本教も今でも立派に存続しているし、OSHOアシュラムも立派に繁盛している。それを否定するつもりはまったくない。















別の次元に存在する身体

2018-05-12 12:29:03 | Weblog

身体を使ってやったことが
身体でやったことでないことがある

この世の物質界での現象が
この世の物質界の現象でないことがある

それを波動とか周波数という言い方をすれば
物質界の周波数と平行して
別の次元の周波数も同時に存在しているのではないか

たまにそちらの方の周波数に波動が合うと
物質界の現象とは違うリアリティを体験する

でもそれは、この物質界に生きている私の身体と
まったく切り離された体験ではないし
行為でもない

私は私の身体を使って行為する
私の身体の一部である目を“使って”見る
私の身体の一部である脳を“使って”考える
私が“行為する”とき
私は私の身体を“使う”

ところが、私は、
この物質界の身体以外の“身体”を使うこともできる

それが、この物質界の周波数と同時に存在している
別の次元に存在する“身体”だ


What I did with my body
There is something not done in the body

The phenomenon in the physical world of this world
It may not be a phenomenon of the physical world of this world

If we call it wave motion or frequency
In parallel with the frequency of the material world
There is also frequency of another dimension at the same time

Sometimes the wave matches the frequency of you
Experience reality different from phenomenon phenomenon

But that is because of my body living in this material world
It is not a completely separated experience
It is not an act

I act with my body
I see "using" eyes that are part of my body
Thinking "using" the brain that is part of my body
When I "act"
I use "my body"

However,
You can also use "body" other than the physical body of this material world

It exists simultaneously with the frequency of this material world
It is a "body" that exists in another dimension











































光の体験 2018. 5. 11

2018-05-12 09:23:12 | Weblog

昨日、ふと「自分にディクシャするといいよ」とシャンタンに言われたのを思い出して、寝る前に自分にディクシャをしてみた。ディクシャギバーになって以来、ずいぶんと久しぶりに(それ以来初めて)試してみた。
すると、夜寝ていたら急に“光”を体験した。
このようなことを書いていいのか(許されているのか)わからないが、シェアしてみたい。
“光”は夢ではなくてリアルだった。とても怖かったが、その体験から逃げないようにしようと思った。すると、光にもっと近づいていった。光は一定のリズムで点滅していた。それは頭の前頭葉から入って来ていた。
急に点滅のスピードが速くなった。しばらく点滅する光を見つめていた。
すると今度は身体ごと光のトンネルに入った。全身が光に包まれている感覚があった。
しばらくすると光が消えて闇になった。闇の中に光の残像が見えた。
(形容詞をできるだけ使わないで書いてみた。形容詞を使うと大袈裟な印象を与えるから。)























stand on a completely different horizon

2018-05-10 21:07:49 | Weblog

I was sick, but I did not expect to heal.
I wanted to get back to the condition before I got sick, but I read it in something like "I'm not going back to the original thing to recover from my illness, it is to stand on a completely different horizon" .
If it did not get sick ... Perhaps this time it would have been like this ... I thought I had to get back the time I lost because I was sick, but I noticed that it was not so.
If I had not experienced that dark bottom, I began to think that I was not standing in the place I was. To recover from illness was not to return before sickness, but to stand on a completely different horizon, to see a completely different landscape.
Illness was a long hopeless tunnel for gestalt transformation, so to speak.
I think that walking through it has transformed my various aspects.
Humans do not collapse to a certain extent, there is a point where you can not be aware.
I feel that the fear of being broken is less than before. Because it always reproduces even if it breaks. And that regeneration is never the way it will be.

Google translation 😄




















元に戻るのではなく、まったく別の地平に立つこと

2018-05-09 00:26:11 | Weblog

私は病気でしたが、治るとは思っていませんでした。
なんとか、病気になる前の状態に戻りたかったのですが、「病気が治ることは、元に戻ることではない。まったく別の地平に立つことだ。」と何かで読んで、ハッとしました。
もし病気にならなければ…たぶん今頃はこんな風になっていただろう…病気で失った時間を取り戻さなければ…と思ったりしましたが、そうではないことに気づきました。
もし、あの暗黒のどん底を体験しなければ、今いる場所には立っていなかったのだと思うようになりました。病気が治ることは、病気の前に戻ることではなく、まったく別の地平に立って、まったく別の風景を見ることだったのです。
病気はいわば、ゲシュタルト変換のための長い絶望のトンネルでした。
その中を歩くことで、自分のいろいろな面が変容したのだと思います。
人間はある程度崩壊しないと、自覚できない境地があるものです。
前より少し、壊れることへの恐怖が少なくなったような気がします。なぜなら、壊れてもまた必ず再生するからです。そしてその再生は、決して元どおりになることではないのです。






















宇宙法則と理性の照応関係

2018-05-05 01:04:13 | Weblog

何故、宇宙は存在するのか?
何故、存在は存在するのか?

もし宇宙に意識が無かったら、存在するという意識もなく、この宇宙には何も存在しないことと同じことになってしまう。

“宇宙が存在すること”と、“私の意識が存在すること”は、最大の神秘であり、その二つの神秘が伴に“私”の内に存在すること。

「哲学的思考によってしか認識できない“有”が存在する」。

表象といいますよね。目で見ていても、そこに概念が無かったら何を見ているのか認識できません。
私はイデアの世界が最初にあったと思っています。
人間の言葉は、最初にあったイデア世界のロゴスを映し出したものであって、言葉による知的活動そのものが、宇宙の法則を創造したロゴスの似姿なのだと思います。

だから、宇宙法則と人間の知性は矛盾しないのだと思います。

もっと言えば、宇宙法則とは、人間の知性によって創造された体系だと思います。
宇宙そのものは無限であり、人間の知性が理解したほんの断片が“宇宙の法則”と呼ばれているに過ぎない、と。























アストラル・プロジェクション

2018-05-03 19:51:36 | Weblog

かぐや姫や浦島太郎もアストラル的なお話しだと思う。
アストラル界にはアストラル・ライトと呼ばれている光がある。その光は太陽光線とは違うから、見えるものが現界とはぜんぜん違っている。
月は太陽の光を反射して輝いているが、太陽も霊的な天界の太陽の光を反射して輝いている。とエマニュエル・スウェーデン・ボルグが言っている。最近では、太陽はプレアデス銀河の中心太陽であるアルシオーネの光を反射して輝いていると言われている。だんだんと中心に行くにしたがって、より明るい輝きを発するエネルギー体が存在していて、太陽もその中心太陽の光を反射させているだけなのかもしれない。そして、もうすぐ中心太陽であるアルシオーネの太陽が姿を現わすと言われている。そうなったら、地球は完全に変わってしまう。太陽とアルシオンが連星になるという説もある。われわれは、3次元的存在から5次元的な存在にアセンションすると言われているが、それが起きるはずだった2012年12月21~23日には何も起きなかった。マヤ暦は終わった。新しい時代に入ったが、今のところ、まだ何も起きていない。





















恋愛とは自分との対話だ

2018-05-03 02:24:01 | Weblog

恋愛とは自分との対話だ

誰か相手を追いかけることではない

叶わぬ恋ほど丈が高いと

山本常朝が言ったのは正しい

それは武士道精神に通じている

死ぬことと恋することは似ている

どちらも自分との真剣勝負だ

怖くて逃げ出してしまう人もいる

自分を捨てる勇気がなければ

本当の恋をすることはできない



















自分が消えてしまう恐怖

2018-05-03 01:45:38 | Weblog

今日は久しぶりに忘れてしまっていた感覚を思い出した

それは恐怖心だ

自分が消えてしまう恐怖

未来がなくなってしまう恐怖

無の、空白の恐怖

今日は束の間

自分の頭の中に

大きな真空ができた

それは僕が十七才の頃に味わった感覚だ

そうだ!

この感覚の中にいたのだ

自分が消えてしまう恐ろしさ

それはリアルタイムで、新鮮な感覚でもある

太平洋でも大西洋でもインド洋でもいい

大海にたった一人投げ出された感じ

身震いするほどの恐ろしさ

この恐ろしさに耐えられずに

ごまかすこともできる

でも、それと向き合うのだ

向き合ってカードをめくる

ジョーカーが出ようとエースが出ようと構わない

どうなろうと動揺しない

腹ができているから

未来とはそのようなもの

自分が消えたとき

たった一人大海原に投げ出されたとき

本当の自分との対話が始まる






















フィクションと現実の隙間に

2018-05-02 04:24:48 | Weblog

首筋がひきつるくらいに

ハラワタから衝き上げてきた

白い花びらがはらはらと舞うように

喋るセンテンスは

レーザー光線になって

僕の眉間のアジナーチャクラを貫いた

白い姿も見えない美しすぎる天使が

まるでフィクションの世界から踊りでて

ある可能性を信じさせてくれた

それはもしかしたらフィクションかもしれないし

現実かもしれない

でも僕はそれを殊更追いかけたりしない

失望しても耐えられるだけの理性は自ら養ってきたから

あとはプロジェクターが映し出す光景を鑑賞しながら

寝台列車に乗り込むだけだ

夜が真夜中になり

やがて朝になる

胸の炎は燃えたまま

夢を見るために眠りにつく

夢は自らが上映する映画

筋書きもその場その場で決めていく

いや、決める意志などない

ただストーリーの展開を見つめているだけ