今日も二体の龍神様が現れてくれました。
龍神様は空を飛んでいますが、いつも姿を現しているわけではありません。むしろ、いつもは見えないようになっています。私が空を見上げると、私に姿を見せるために雲を使って見えるようにしてくれます。
二体目の龍神様は、頑張ってかなり長い間姿を表してくれたので、私は空に向かっていろいろと話しかけていたのですが、その間、通行人が3、4人通り過ぎました。私が空に向かって何か話しているのを見て、通行人は不可解に思ったことでしょう。笑
今日も二体の龍神様が現れてくれました。
龍神様は空を飛んでいますが、いつも姿を現しているわけではありません。むしろ、いつもは見えないようになっています。私が空を見上げると、私に姿を見せるために雲を使って見えるようにしてくれます。
二体目の龍神様は、頑張ってかなり長い間姿を表してくれたので、私は空に向かっていろいろと話しかけていたのですが、その間、通行人が3、4人通り過ぎました。私が空に向かって何か話しているのを見て、通行人は不可解に思ったことでしょう。笑
ブックカバーチャレンジ、12、13、14、15、16、17冊目。
『脳をあやつる分子言語』
知能・感情・意欲の根源物質
大木幸介 著
講談社ブルーバックス
昭和54年5月20日第1刷発行
『麻薬・脳・文明』
物質から精神を解明する
大木幸介 著
光文社 KAPPA SCIENCE
1990年9月30日第1冊発行
医学博士である大木幸介教授は化学系出身であるが、論理物理学の量子論を学習し、それを触媒や生命、あるいはそれらの最も複雑な体系としての人間脳のメカニズムの探求に応用する。著書として『量子化学入門』(ブルーバックス)、『分子薬理学』、『ドラックデザイン』など多数ある。
『脳を操る分子言語』の著者紹介より。
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『脳と心の正体』
ワイルダー・ペンフィールド著
塚田裕三、山河宏 共訳
文化放送
1977年1月30一日第1版第1刷発行
ワイルドペンフィールド
1891一年アメリカのワシントン州スポケーンに生まれる。プリンストン大学を卒業してさらにオックスフォード大学ジョンズ・ホプキンス大学に学び哲学、神経生理学、神経解剖学を収めて1921年脳外科医となる。
てんかんの治療に関する発見で知られる脳外科の世界的権威でカナダのマギル大学教授及び1930余年に自ら創設したモントリオール神経研究所の所長を長く務めた。1976年4月5日死去。その医学的業績は古典として高く評価されている。著者略歴より。
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『心は脳を超える』
人間存在の不思議
ジョン・C・エックス /ダニエル・N・ロビンソン 著
大村裕 山川宏 雨宮一郎 訳
紀伊国屋書店
1989年2月28日第1冊発行
1903年オーストラリアのメルボルン生まれ。20世紀における脳研究のパイオニアの1人。1963年に抑制性シナプスの発見による功績でノーベル医学・生理学賞受賞。オーストラリア国立大学教授をはじも多数の大学で要職を歴任。
著者略歴より。
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『神経政治学』
人類変異の社会生物学
ティモシー・リアリー 著
山形浩生 訳
株式会社トレヴィル発行
リブロポート発売
1989年5月10日初版印刷
ティモシー・フランシス・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、アメリカの心理学者である。集団精神療法の研究で評価され[1]、ハーバード大学で教授となる。ハーバード大学では、シロシビンやLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)といった幻覚剤による人格変容の研究を行った。
Wikipedia より
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『意識の中心』
ジョン・C・リリー 著
菅靖彦 訳
株式会社平河出版社
1991年1月20日第1刷発行
1915年、ミネソタ州セントポールに生まれる。カリフォルニア工科大学で生物学と物理学の学士号を得て卒業後ペンシルバニア大学で医学を学ぶ。電極を用いた脳の基礎研究によって猿の快感や苦痛の中枢をつきとめ、マン・マシン・インタフェースの先駆けとなる。その後アイソレーションタンクを用いた感覚遮断の実験で意識の真相に興味を持ち、LSDその他のドラッグやノンドラッグのテクニックを用いて意識の研究にあたる。イルカ研究でも著名。
著者略歴より
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“精神”と一般に言われていることは、“脳内”の電気化学情報によって生じる“現象”であると最近流行りの“脳還元論者”の説ではそうなりますよね。
そのことをちゃんと解明したのが、『脳を操る分子言語』です。そして、重要なことは、“脳内ホルモン”によって脳は操られているのですが、この“脳内ホルモン”は、いわゆる“麻薬”といわれているものと分子構造が似ているということです。これがまず基本中の基本となります。
その上で、大木幸介先生は、この“脳内麻薬”によって、我々の文明ができてきたのだと『麻薬・脳・文明』の中で言われています。
そして、さらに重要なことは、“脳還元論”は、もしかしたら、エセ科学かもしれないということです。
それが『脳と心の正体』、『脳は心を超える』に書かれていることです。つまり、“心”は“脳”に還元され得ない、脳とは別のものだということです。
つまり、心は脳内の化学物質によって影響は受けるが、それとはまったく別のものであるということです。
次に、1960年代にアメリカで流行った“サイケデリックス”がアメリカ発の“新しい時代”の起爆剤になったということです。
『ビー・ヒア・ナウ』(ババラムダス著、吉福伸逸訳)を書いたババラムダス(リチャード・アルパート)はハーバード大学の教授だったし、ティモシー・リアリーもハーバード大学の心理学の教授でした。
そして、ジョン・C・リリーも脳の研究者です。
こんな重要な““脳と精神の研究者””を日本の脳科学者の権威はまったく話題にもしないのは何故なんですか?!
脳還元論者のお偉い日本の大学教授の皆さんたち!!
無視しないでくださいよ、お願いしますよ!!
ということで、長くなりましたが興味を持たれた方がいらっしゃったら、読んでみてください。
ブックカバーチャレンジ11冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『シークレット・ドクトリン』
宇宙発生論[上]
H・P・ブラバツキー 著
田中恵美子/ジェフ・クラーク 訳
竜王文庫
平成元年十月末日 初版発行
皆さんよくご存知の『シークレット・ドクトリン』です。
こちらは上巻で[宇宙発生論]となっていますが、多分、下巻はついに日本語訳はこのような形では出版されなかったと思います。
皆さんご存知の通り、この本は大著で内容もかなり高度で、翻訳するのは大変なことだったと思います。
なかなか下巻が出版されないので、私は神智学協会から原書を取り寄せました。まだインターネットもない時代なので、手紙を書いて苦労して取り寄せましたが、何しろこの英語がかなり難しく、おまけに私の高校時代の英語の成績は1、もしくは斜線でしたから、まったく太刀打ちできませんでした。ww
上巻はCosmogenesis[宇宙発生論]で、下巻はAnthoropogenesis[人類発生論]です。
その後、日本に来ていた国際捕鯨委員会の調査員のアメリカ人と知り合いになる機会があり、彼にこの本を見せて、私の英語の勉強をかねて、下巻を翻訳しようとしましたが、やはりまったく刃が立ちませんでした。
この本を翻訳された田中恵美子さんには、私は唐突に出版社の住所を訪ねて行ってお会いすることができました。
田中恵美子さんは、竜王文庫の三浦関造さんの娘さんです。私は竜王文庫の本をほとんど(といっていいくらい)読んで、三浦関造さんの大ファンでしたから、娘さんの田中恵美子さんにお会いできてたいへん光栄でした。当時、ご高齢にもかかわらず、とてもお元気で、鋭く輝く目が印象的でした。私のような、なんの関係もないものが突然ひょっこりとご自宅にお邪魔したのに、笑顔で対応していただき、この大著の翻訳がいかに大変だったかを伺うことができました。
コーヒーか何かをこぼしてしまって表紙が汚れてしまいましたが、この本は私にとっての“権威”として、度々参照させていただいております。
ブックカバーチャレンジ10冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『天界と地獄』
イマヌエル・スエデンボルグ 著
柳瀬芳意 訳
静思社
昭和37年8月10日初版
サドでキリスト教についてネガティブに触れたので、この本を紹介してバランスをとりたいと思った。
皆さんご存知のイマニュエル・スエーデンボルグの本だ。
キリスト教にはスエデンボルグ派というのがあるらしい。あのヘレンケラーもそうだったようだ。僕がキリスト教徒なら、スエデンボルグ派に間違いない。
前にも書いたが、僕は3歳の頃から近くの教会の日曜学校に通っていた。その教会はプロテスタントのアッセンブリー・オブ・ゴッドという派閥の教会だった。クリスマスには長い台詞を覚えて、キリスト誕生の演劇をさせられたりしていた。ヨブ記を要約した作文を書いて日曜学校の先生に見せたら、すごく驚かれて、アッセンブリー・オブ・ゴッドの機関紙に載せてくれたことがあった。あんなに長いヨブ記を、こんなに簡潔に要約するなんて大人にでもできないと、機関紙の編集長が驚いて、載せてくださったと先生に言われた。後日、銀座にあるキリスト教関係のグッズが売られているお店に連れていかれて、コインのセットをプレゼントしていただいた。子供心にとても嬉しかった。
その頃は、毎日曜日に教会に通い、神がまるで身近にいるような感覚で、全てが光輝いていた。
でも、小学校に通うようになり、学年が上がるにつれて、だんだんとその光が弱くなっていって、不幸せになっていった。その感覚(光がだんだん消えていった感覚)は今でもはっきりと覚えている。
小学校四年生になる頃は、その光がほとんど見えなくなって、なんでこんな人生を生きているのだろうと疑問を持つようになった。そして心にぽっかりと空いたその空虚な穴を埋めるために、友達を教会に誘ったりしたが、誰も僕の言うことを理解できなかった。学校から帰って遊んだり勉強したりするだけではない、もっと大切なことがあるんだよ。僕の親友にさえも理解してもらえなかった。だから、誰も教会には来てくれなかった。
キリスト教って、いったいどんな宗教なのだろう。今ではまったくよく分からなくなっている。ただ一つだけ言えることはとっても単純なことだ。スエデンボルグの本に書かれている“天界の太陽”。この太陽の光を信じること(信頼すること)が、本来のキリスト教なのではないか。幼い子供の頃は、この光をいつも身近に感じていた。その暖かくて明るい光。
キリストが神の一人子だとか、父と子と聖霊の三位一体だとか、キリストが十字架に架かって全ての罪を贖ったとかいう話しは、キリスト教会が作ったドグマであって本来はどうでもいいことだと思う。だから僕のキリスト教は、スエデンボルグ派なのだと今では思っている。
静思社から、スエデンボルグの本が何十冊も出版されていた。僕は3年くらいどこかに籠もって、これらの本を全部読んでみたい衝動に駆られたが、そんな贅沢をする時間は、貧乏人の自分には持てなかった。
スエデンボルグの世界に浸ることは、僕にとっては至福の時間に違いない。
静思社の住所を訪ねたことがあったが、勇気がなくて、ドアを叩くことができなかった。翻訳者の柳瀬さんに、一度でもお会いしてみたかった。
ブックカバーチャレンジ9冊目は、
カバーも何もない。
マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』、『ジェスチーヌ』。
僕はこの本が大好きだった。
ジェスチーヌが大好きになった。
僕は3歳の頃から近くの教会に毎日曜日に通っていたから、物心ついたときから聖書の物語を知っていたし、キリスト教徒だった。
そしてサドを読んだから、ちゃんと正統的に真面目にショックを受けた。だから、どのようにジェスチーヌを読んだかというと、ジェスチーヌの側に立っていたのと同時に、ジェスチーヌを誘惑する悪徳の側にも共感できるのだった。
サド自身が言っているように、これは“思想小説”なのだ。決してエログロ小説でもなければ、面白おかしいエンターテイメント小説でもない。
僕は初めは、単行本で読んだ記憶がある。それから、どこかへいってしまってから、文庫本を買って読み直した。でもそれもどこかへ行ってしまった。何度か読み直して、本そのものはなくなったが、ジェスチーヌは僕の中に入ってしまった。もしかしたら、大切な本は失くした方がいいのかもしれない。失くしたものは、記憶としていつまでも残り続ける。永遠の恋人のように。
サドにとっても、ジェスチーヌは彼の中の永遠の恋人だったのかもしれない。サドの中の女性性であり、分身でもあると思う。
悪徳の誘惑に抗えば抗うほど、逆に純潔の信仰心が際だっていく。だから、これは逆の意味で、キリスト教会の図書館に是非とも蔵書しておいてほしい一冊であり、ジェスチーヌを聖者として列伝してもいいのではないか。(などと言うと、カトリック、バチカンから逮捕されるかもしれないが…笑)
今、カトリック、キリスト教会のペドフィリアで多くの枢機卿が逮捕されているらしい。キリスト教会の禁欲主義は、初めから偽善だったのだ。サドはキリスト教のドグマが内包する矛盾を、鋭く見抜いていた。何故、宗教は禁欲的にならなければいけないのか。
それはキリスト教に限らず仏教でも同じだ。
性を聖なるものから切り離し、汚れたものとして隔離する。そして実際は、陰湿に隠れたところで、ペドフィリアに耽る聖職者達によって宗教的権威とドグマが守られてきた。今はそれが白日の元に晒される時代だ。
キリスト教の権威が内包している純潔のドグマが偽善であることを、サドは直感的に見抜いていたのだと思う。
ブックカバーチャレンジ8冊目
『シッダールタ』
ヘルマン・ヘッセ 著
私はこの本をもちろん日本語の翻訳で読んだ。
文庫ではなくて単行本で、誰の訳だったか忘れてしまったが素晴らしい訳だった。出版社も忘れた。たぶん新潮社だったような気がする。
これを読んだのは中学のときだったと思う。
母からその単行本を渡されたのだと思う。
何かとても素晴らしいと思った。
その後、何度か読み返した記憶がある。
そのたびに本を買った。
文庫本も買った覚えがあるが、そのたびに全部失くして、今は一冊もない。
何度も読んでいるはずなのに、今ではうろ覚えになってしまったシッダルータの台詞で気に入っていたフレーズがある。
たぶん、中学の頃にそのセリフが僕の頭にインプットされ、その後、高校を卒業した後で読み返したときにはそのセリフを暗記していた。簡単なセリフなので覚えるのも簡単だが、今は何故か正確に覚えていない。確か「私は断食できます。私は瞑想できます。私は考えることができます。」だったと思う。最後が考えることができますだったかどうか、あやふやになってしまった。
こんな私の個人的なことを長々と書いても、読む方としては意味がないとは思うが、私の勝手で最後まで書き続けるが、私はこのシッダルータのセリフにいたく感動したのだった。
そして私はいろいろと職を転々としたから、若い頃に当然いろいろなところに採用の面接に行ったのだが(履歴書を持って)、その際に、履歴書の特技の欄に(いや、今ではそんな欄はなくなったのかもしれないが)、シッダルータを真似て、「私は断食できます。私は瞑想できます。私は考えることができます。」と書きたい衝動に駆られた。でも正直、私にはそのどれもできないのであるから、そんな嘘は書けないのだったが。この三つができると自信を持って言うことができたら、誰でもその人は仏陀になれるだろうと思う。
母からこの本を渡されて読んだ後、私はその感想を母に話して聞かせるために母を散歩に誘った。そんなことをするのは、私の人生で最初で最後のことだった。近所の川が流れている辺りを散歩しながら、その当時自分が考えていることを母に話して聞かせた。シッダルータの感想と供に、自分は宗教的なことに興味があることを話したと思う。母はあなたの考えていることが聞けてとてもよかったと言っていた。それ以来、母に自分の気持ちを語ったことは一度もない。だから、今から思い返すと、この本は私にとって、とても大切な本なのだが、いつの間にかなくなってしまった。
フランス人のJean-Charlesがこの本をFacebook に投稿していたので思い出した。そして思わずシェアさせていただきました。
ブックカバーチャレンジ7冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『マインズアイ MIND’S I 』
コンピュータ時代の「心」と「私」
上・下
D・R・ホフスタッター/D・C・デネット 編著
坂本百大 監訳
TBSブリタニカ
1985年1月5日初版
僕が初めてNECのパーソナルコンピュータを見たとき(80年代の初め)、これは人間そのものだと思った。そのように感じた人は私だけではなくたくさんいたようだ。
その後コンピュータがどんどんと人間に近くなっていく。センサーという感覚器官を搭載し、無限大のメモリを有し、複雑に絡み合った脳細胞以上に入り組んだネットワークを構成し、かつ高速の情報処理ができるコンピュータが登場したとき、果たして0と1の超高速の演算が、“私”という意識を持てるだろうか。それがこの本のテーマである。
私は「私がいる」と思っている。果たしてその“私”とは一体なんだろうか。私の中には“私”がいる。それと同じように、あなたの中にも私と同じような“私”がいるのだろうか?
翻って1匹の蝙蝠の中にも“私”がいるのだろうか?
1匹の蝙蝠が超音波を使って知覚する世界はどのようなものなのか人間である私には知り得ない。それと同じようにあなたが見る青色と私が見る青色は同じものだと証明することができない(クオリアの問題)。
いかなる数学、物理学、生物学、論理学を使って証明したとしても、“私”という意識については、何も知り得ないパラドックスとして最後まで手付かずのまま残る。何故なら、証明とは、それを導き出すまでの道筋に矛盾がないということであって、導き出された無矛盾の解が何を意味するのか、知ることではないからだ。最後まで残るのは直感的な知覚だ。コンピュータは論理演算はできるが、直感的知覚は果たして半導体の中に、あるいは量子ビットの中の電子信号の中に生まれ得るのだろうか? いやそもそも知覚とは何なのか? ありのままに既に知っていると思い込んでいる知覚的現実とは何か? 我々はその中に存在するのだろうか? それとも“私”の知覚がそれらの世界を投影しているだけなのだろうか?
仏教では唯識派という一派がある。また神秘主義では瞑想によって“私”という意識は何なのか知ろうとする試みもある。ただし、これら宗教的内観による証明は、己一人の内側でのみ可能な一人称の解法でしかない。
現代に登場したコンピュータは、この意識の問題を“私”の内側から解くに留まらず、論理演算の回路という客観的なメタファーを使って、“私の心の中の私”を客観的に類推する試みが可能になるのではないか。
この本は、様々な著者(ホルヘ・ボルヘス、アラン・チューリング、リチャード・ドーキンス、T・ネーゲル、S・レム、レイモンド・スマリヤンなど)の著作から、編者がオムニバス的に抜粋して、「コンピュータ時代の心と私」をホログラムのように照射させる試み。
僕はこの本を読んで、コンピュータに興味を持ち、その後機械語を勉強して情報処理の資格試験を受けてプログラマーになり、UNIXとC言語を勉強してその後何年も働くことになった思い出深い本です。
ブックカバーチャレンジ6冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『城』
カフカ 著
前田敬作 訳
新潮文庫
これはある測量士の物語りである。
城を測量に来た測量士が、なかなか城を測量できない。何故なら、複雑な官僚制度に阻まれるから。
これは“官僚制度”を描写した“写実小説”であって、“抽象小説”ではない。
フィクションのようでいて、ドキュメンタリーよりも現実的である。
僕は、二つの理由から、この小説の虜になった。
一つ目の理由は、私もある意味で“官吏”になったこと。そこで(小さな官僚制の中で)様々な不条理を感じていたこと。
二つ目の理由は、何ものにも属さない、アイデンティティーを喪失した(している)カフカに自分を投影して共感したこと。このカフカの“異邦人性”について、訳者の前田敬作があとがきで以下のように書いている。
以下引用。
彼の生涯を苦悶の連続たらしめたキズは、生誕とともにはじまる。彼は、ユダヤ人として生れたが、ヨーロッパ化されたいわゆる「西方ユダヤ人」であり、民族としての強固な存在を保持している東方ユダヤ人、正統ユダヤ教徒には属していない。が、ユダヤ人として、キリスト教世界にも属していなかった。さらに、ドイツ語使用者として、チェコ人でもなければ、ドイツ語を使用するからといって、ボヘミア・ドイツ人でもなく、にもかかわらず、ボヘミア生れとして、オーストリアにも属していなかった。また、労働者災害保険局の吏員として、市民階級でもなく、商店主の息子として、労働者階級でもなく、それかといって、みずからを作家と感じていたから、官僚階級でもなく、また、自分の力の大部分を専制的な父が支配する家庭との戦いについやしていたから、完全な作家でもなかった。しかも、『父への手紙』(Brief an den Vater) にのべられているように、「ぼくは、ぼくの家庭のなかで、他人よりもなおいっそう他人のように暮している」のだった。さまざまな世界にすこしずつ属しながら、どの世界にも完全には所属しない、生れながらの「異邦人」ないし、これが、彼の生誕の宿命的星座であった。
引用終わり。
カフカのこのような「誰でもなさ」加減が、僕とそっくりだと思った。
私は誰か? 私は誰でもない。いや、誰にもなれなかった。いや、あえて、ならなかったのもしれない。高卒のまま、専門の知識などなく、いろいろな職業を転々としたからキャリアもない。いろいろな人と出会い、いろいろな所へ行き、いろいろな経験をしたから、いろいろな顔があるが、そのどれのエキスパートでもない。いわば、いつどんな組織に属していたとしても常にアウトサイダーであり、傍観者だった。それがカフカに強く共感した理由だ。
傍観者だからこそ、カフカの視線は鋭い。鋭く現実を見抜いて、ありのままに描写する。なんの先入観もバイアスもかけずに見て感じたままに描いたデッサンのようなものだ。光と影の描き分けとか、遠近法とか、三点図法とか、デッサンの技法を身に付けたわけでもないし、他のどんな作画法に則って描くわけでもない。むしろ既存のいかなる技法にも縛られず、カフカが見たままを見たとおりに描く。すると描かれた世界は、不条理で、およそ凡人の理性では理解できない、笑うしかないような滑稽なものが浮かび上がってくる。
これはナチスが台頭してくる時代に書かれたものだが、社会の本質的な不条理性は今でも何も変わっていないのではないか。そんな得もいえね懐かしさを感じながら、夢中になってこの小説世界の中に入って行った。
ブックカバーチャレンジ5冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『静かなあたまと 開かれたこころ』
吉福伸逸アンソロジー
吉福伸逸 著
株式会社サンガ
2019年8月1日 第一刷発行
吉福伸逸さんは、ババラムダスの『ビー・ヒア・ナウ』やF・カプラの『タオ自然学』を翻訳された翻訳家であり、トランスパーソナル心理学を日本に輸入したサイコセラピスト。
吉福さんと出会ったのは、僕が高校を卒業して(といってもほとんど学校にも行かずに単位も落とした)、新宿の地下街で掃除のバイトをしている頃だった。
早朝からお昼までの週6日のバイトをしながら、バグワンの瞑想センターに通って瞑想なるものをしていた。そこで知り合ったソノコが僕に教えてくれた。
「星太郎、掃除のバイト以外にやることないんだったら、吉福さんのところに行ってみたら。すごい人だよ。吉福さん。バークリー音楽大学を出た元ジャズのベーシストでカリフォルニア大学のバークレー校でサンスクリット語と仏教を勉強して日本に帰ってきた人だよ。吉福さんの家で講座を開いているから、行ってみたら? きっと星太郎に合うかもよ」
そう言われて、半信半疑で(僕にとってすごい人とは当時バグワンしかいなかったから)、教えてくれたところに行ってみた。
長くなるから、はしょって超簡単に書くが、そこに吉福さんがいた。初対面のときに、部屋の壁に飾られていた写真を見ていたら、吉福さんが、「この写真、何の写真だと思う?」と訊かれた。「どこか外国の古い映画館か劇場で、やっぱり映画館かな? スクリーンをカメラのシャッターを開けたまま、ずーと撮った写真。ですか?」
「すごい! そのとおり!」
なんだか、初対面の吉福さんから出されたテストに合格したみたいな気がした。
余談だが、その写真をその後何十年もしてから、テレビで見た。僕は写真家では杉本博司の写真が一番好きなのだが(メープルソープよりも)彼の写真が好きになったのは、彼が撮った海の写真を見たときからだった。その後、ニューヨークの博物館を撮った写真や日本の滝を撮った写真など、ものすごくいいと思って見ていた。そして、ついにNHKだったか、テレビで特集されたので、見逃さずに見たのだが、その中に映画館の中を撮った写真があった。どこかで見たことがあると思った。吉福さんの部屋にかけられていた写真じゃないか? たしかに間違いなかった。吉福さんはそれをその写真家からもらったと言っていた。この本の帯にあるように、杉本博司は、吉福さんとの出会いがなかったら、自分はアーティストになっていなかったのかもしれないと書いている。びっくりした。憧れのファンである写真家が、よりによって吉福さんの友人だったとは。
話しは横道に逸れたが、高校を卒業した僕は吉福さんの家で週一回開かれる“神秘学講座”に通い始めた。
神秘学講座とは、グルジェフとウスペンスキーの神秘学を主に扱う講座だった。
その後、吉福さんの紹介でグルジェフの本が日本語に翻訳された。ぶ厚い『ベルゼブブの孫への話し』と『注目すべき人々との出会い』(星川淳訳)。
神秘学講座に通っていたある日、吉福さんからこう言われた。
「星太郎、一浪して大学に行くつもりなの?」
僕は「いいえ。そんな気はありません」と応えた。すると、
「星太郎。カリフォルニアに行ってみない?」と言われた。
僕は嬉しくなった。
行ってみたいー!
でも英語もろくに喋れない。
「行きたいけど、英語もろくに喋れないから・・」というと、
「えっちゃん、星太郎に英語教えてあげたら?」と奥さんに言われた。
奥さんはバイリンガルだったから、僕は最高の先生に恵まれた訳だ。
それから週に2、3回、吉福さんの家にお邪魔して英語を教えていただいた。ときには夕飯までご馳走になり、しかも無料でマンツーマンの家庭教師。こんな有難いことはなかった。若気の至りで何もお返しもできなかったが、今から思うと感謝の気持ちしかない。
そして、カリフォルニアに行くことになったのだが、行ったらここを訪ねるようにと、吉福さんの知り合いを5,6人、住所と電話番号を教えてもらった。
ところが僕は、カリフォルニアに行くときに、地図も何も持って出なかった。行き当たりバッタリだ。よく迷いもしないで無事にカリフォルニアまで辿り着いたと思う。実は迷ったりもしたのだが、詳しくは長くなるので、珍道中は別の機会に書けたら書きたいと思う。
「星太郎、カリフォルニアに行ったら皿洗いでもしてさ、アダルトスクールに行くんだよ。そうするとステゥーデント・ヴィザがもらえるから。そしてアダルトスクールを卒業すると大学に入れる。カリフォルニア大学バークレー校があるから。そこがいいよ」と吉福さんは僕に言った。
「星太郎、カリフォルニアには“山”って呼ばれているところがあるんだけど、星太郎はそこに行ったらダメだよ」と吉福さんは僕に言った。
“山”ってどんなところだろう?
行くなと言われてみると、ことさら余計にいろいろな想像が掻き立てられた。
あまりにも長くなってしまったので、このあたりでやめにしますが、
この本は、めっちゃ面白いです。
80年代、90年代、カリフォルニア経由のスピリチュアル・スーパーマーケットと言われた精神世界は、ほとんど全てといっていいくらい、吉福さん経由で日本に入ってきました。エサレンやヒューマンポテンシャルムーブメント、ニューサイエンス、その後のトランスパーソナル心理学など。
皆さんも是非、この本を手にとってご覧になってください。
ブックカバーチャレンジ4冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『存在の詩(うた)』
バグワン・シュリ・ラジネーシ講和録
スワミ・プレム・プラブッダ 星川淳 訳
メルクマール社
1977年4月25日 第一刷発行
この本はバグワンが書いた本ではありません。彼が彼のアシュラムで語った言葉を書き留めた本です。
私はこの本を高校の時に読み、彼に会いたくなり、インドのPoonaにある彼のアシュラムに行って彼に会うことができました。
Good !
と彼は言いました。
悟りは君が思っているような、そんな難しいことではないんだよ。
誰でも悟れるんだよ。
木でさえ悟るんだよ。
わかるかな?
(えっ! そうなんですか? …)
はい。
Good!
君の新しい名前は“至福の星”だ。
ありとあらゆる生命は
その輝く星に向かって旅をしている。
木でさえも
それに向かって旅をしているんだよ。
君は、ここにいる間は、ただリラックスしていなさい。
悟りは難しいものではない。
ここにいる間はただ静かにしていなさい。
ん。どうだい?
はい。わかりました。
Good!
アシュラムというと“僧院”のようですが、ラジネーシ・アシュラムはちょっと違っていました。
戒律に厳しい僧院のように禁欲的ではなく、むしろその真逆の快楽的、エピキュリアン的コミューンでした。
世界中から集まった男女が抱き合い、見つめ合い、愛し合う、桃源郷のような世界。
もちろん、夢には悪夢もあるし、世俗に存在する組織である以上、表もあれば裏もあるでしょう。
でもなぜ彼や彼女は世界中から集まってきたのか?
そこには、もしかしたら地上の天国があるのではないか。いや、愛と平和に満ちた理想郷を自分達の手で作れるのではないか。
バグワンの話しを聞いていると、そんな現実離れした理想が、あたかも簡単にできてしまうかのような、白昼夢を見てしまうのでした。