熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
「法」ということ
何回も書いているような
同じようなことを書いている
ような気がします
なかなか
私自身分からなのでしょう
どうも、法律ということの
「法」ということが
頭から離れず混乱してしまう
のです
仏教では
法ということはダルマ
ダルマを法と訳した、けど
どうも法と訳してしまうと
不十分だったような
それで訳さず「ダルマ」と
それを漢字に当てて「達磨」
と書いたのです
この達磨が人の名前になって
達磨さん、と
あの姿は面壁9年と
壁に向かって坐り続けた
その姿が「だるまさん」と
あの赤い姿になったのです
昔から、
法ということの定義があって
一つには任持自性ニンジジショウ
もう一つは軌生物解キショウモツゲ
というようにいいます
それ自体の本質は変わらず
その姿を保っているという
任持自性
そのように定義するのですが
簡単には
存在するすべてのもの
ということです
よく「諸法は縁より起こる」
という時の法は
「任持自性」ということです
すべてのものは縁より
起こっている、
ということです
すべてのもはそれ自体として
あるのではなく
縁によって在るということ
私一人を考えても
両親があり、
そのまた両親があり
微妙な縁のつながりです
生きるにしても
ありとあらゆるものの
おかげ、空気にしても
水にしても、食べ物も
どれ一つ欠けても
生きることは出来ません
そういう存在している
ありとあらゆるものを
「法」というのです
そういう意味の「法」が
よくでてきます
もう一つの
軌生物解ということが
軌範とか法(のり)とか
法則、道理、教理、真理
ということを表します。
しかし
軌生物解ということも
面白い字です
何となく分かるような
辞書にも見出せませんが
軌生、規より生じた
物解、モツゲという読み方も
面白いのですが
物を理解する
法という字を解するのに
こういう言葉を
生み出したのでしょう
はっきりとは分かりませんが
ただ、「法」ということは
普通でいう法律とは違った
あらゆる存在も「法」
または「諸法」
という表現をするのです
そういうことも頭に入れて
読んでいかなければ
いけないようです。
「明るく悩め」
と、よく言われたものですが
悩めば暗くなるだろうと
内心は思っていたのです
今日読んでいる所で
苦の克服というか
苦のあり方について
よく述べられた箇所でした。
「人間が無明の心を起こして
それによって業を作って、
そうして苦しみを受けると、
普通こう考える。
人間というものがあって、
と考えるけど、
そういうものはありはしない
無明という
法があるだけだと。
無明という法があると
その法において
行という法が呼応して
起こってくる。
行という法から自然に
それが苦を感じ、
苦はまたそれに応じてくる。
そこには
法と法との連関が
あるだけじゃないか。
そうすると
どんな汚れた世界でも、
汚れた世界というものが
縁起しとるということは
汚れとらんわね。
純粋清浄だ。
それを見れば、
色々問題が解かれて
いくんじゃないか。
静かに解かれていく。
つまり
苦しみの世界が見えてくれば
苦しみの世界のままに
解かれてくるんじゃないか。
解かれりゃいいんだろう
と思う。
普通は、
苦しみのなくなることを
求める。
見ないから、
今の苦しみを何とか克服して
ないようにしようと。
そのないようにしようと
することがはや苦しんでいる
証拠です。
苦しみの実相を見れば、
ああそうか
というようなものだ。
苦しみがあっても
その実相が見えれば
それは法です。
迷っとったのは妄想です。
だから苦しみは
なくなる必要がない
じゃないか。
そこになんか、
明るく悩むと。
人間は苦しんどっても
悩めないんです。
苦しむ心は悩まんもんです。
わがままなもんです。」
というように出てきます。
ここのところは
分かったようで分からない
ような気がします
頭では、
苦の世界が見えれば
苦しみのままに解かれてくる
とありますが
苦の世界が見えてくる
ということが大変で
よくよく自分のあり方に
照らして考えていかなければ
いけないような気がします
でも、
ここの箇所は
苦からの解脱ということの
大きなヒントになるような
ところだと思います。
しばらく、いない間に
帰ってみると
牡丹は満開を過ぎた
ところのようでした
一気に15輪ほどの花が
咲いていました
昨年は移動したため
短く刈り込んでいたので
今年はどうなるものかと
心配したのですが
このように咲いていたのです
「天与の花を咲かす喜び
共に咲く喜び
人見るもよし
人見ざるもよし
されど 我は咲くなり」
という武者小路実篤の歌が
ありますが
本当に
見られようが見られまいが
天与の力ですね
見事に咲いていました
ふと帰り支度になると
やはり牡丹のことが
気になってきました
水が足りなくて
枯れたのではないかと
多分花は無理だろうと
一番先にベランダをあけると
咲き終わったところでした
それだけでも愛おしく
なってきました
立てば芍薬、すわれば牡丹
歩く姿はゆりの花
という、
女性の美しさを表現した
歌がありますが
まさにぴったりと思って
いたのですが
よく調べてみると
この歌は漢方薬の処方の仕方
を言ったことのようです
その横ではレモンの木が
鈴なりに花をつけています
どおりで
なんともいい香りが
漂っているのです
一輪ながらも上品な香りを
ふりまいています
この花が咲きだしたら
あたり一面、
なんともいい香りが漂う
でしょう
ご苦労さまと思いながら
牡丹の花を切っていると
こちらからは見えない所に
一輪つぼみがあるのです
隠れるようにそれも
向こうの方を向いて
蕾をつけています
少しガラス窓から離すと
今まさに咲かんとするところ
のようです
花を切ると
これからは葉っぱの仕事と
いわんばかりに
水をどんどん吸い上げて
いくようです
夜になって見てみると
満開になっています
蕾の時にガラス窓に
触れていた
ということもあるのでしょう
花自体が崩れたようです
それでも豊かに花開きました
牡丹の花も
人に見られるために
咲くのではないのです
花自体のハタラキとして咲く
目的があって咲くのでもなく
自然法爾ですね
しかしながら
「本当にご苦労さま」
と口から出てきます
共に生きるものとして
見事な花を見せてくれた
ことに感謝です。