十地経講義の講義では
受講される方が高校の先生
ということもあって
安田先生は専門語・仏教語を
使わずにあらゆる言葉を
駆使しながら話されています
願(がん)ということも
とても大事なことです
菩薩の四弘誓願とか
本当の願ということで本願
そういうことを
ドイツ語の sollen と
…すべきだ、…するのが当然
だ、というような意味があり
また名詞としては
道徳的義務、当為(とうい)
という意味があります。
願い、というと
私たちにも
色々の願いがありますが
そういう理想ではなく
そういうものを振い落して
最終的に残っているもの
人間の根底に横たわっている
願ガンがあるのではないか
ということで講義では
「日本語では理想というと
ゾレン(sollen)といいますが
その場合、日本語の「べし」
という言葉は、
何か「すべきである」と、
なしうるということもですね
「すべし」という。
「汝なすべし」
ということは一つの命令で
あるとともにですね、えー、
なすべきであるという意味で
あの応、応という字ですね、
この応ずるという。」
ここのところを読んでいて
思いだすのは
洛南高校の校訓を作る時
自己を尊重せよ
真理を探究せよ
社会に献身せよ
というのですが、
「せよ」というのは
上から命令するようで
今の時代に
そぐわないのではないか
自己を尊重しましょう、
とか
自己を尊重しよう
という方がいいのではないか
という意見も出たのです
ところが、
三浦先生は
「自分が自分に向かって
命令するのだから、他から
命令されるのではない
自己が自己を呼び起こす
そういう言葉です」と
仰ったように思います
べし(可し)ということも
広辞苑には
個々の主観を超えた理のある
ことを納得して下す判断で
あることを示す。
と出ています。
また、当為ということも
人間の理想として、
「まさになすべきこと」
「まさにあるべきこと」
を意味するとあります。
この校訓も
人間として本来のあるべき姿
というものを
自分が自分に呼びかける
そういうものだと思います。
ここで「願」ということを
話されるのに
色々言葉を選びながら
宗教的言葉でなく
現代に生きる言葉でもって
話されています。
「我々が運命に生きとる
ということは一番いいのは
身体をもっとるということだ
文句いってみようがない。
それに対して願は自由です。
そこに身体を超えて
しかも身体に生きとると。
必然を超えて自由な精神が
やっぱり、自ら、
いやいや必然なんじゃない、
喜んで必然を取るわけです。
こういうものがやっぱり
我々が、人間が人間らしく
生きとるということの
構造じゃないかと思う。
だから、誰でもですね、
願というものがない人は
生活がない。ええ。
願というのもがね。」
「願というものが
なしうるという確信。
理想というだけじゃない、
理想の母胎なんだ。
自ら自分の中に理想を
建てていくんです。」
というように出てきますが
校訓ということも
人間としての願いですし
ここのところは
本当にいろいろの言葉
ドイツ語やなんでもない
「べし」という言葉の中に
本来持っている意味を
見出してこられるのは
本当に面白いところです。