本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自然=必然と自由

2022-10-10 20:47:10 | 十地経

自然(じねん)

仏教では自然と書いてじねん

と読みます

意味はネイチャーではなく

おのずからそうなっている

ということを表し

仏教そのものの真理を

表す言葉でもあります。

 

無為自然(むいじねん)とか

業道自然(ごうどうじねん)

自然法爾(じねんほうに)

という言葉があります。

 

講義の中で、

よく自由ということと宿業

ということがよく出てきます

自由自由といっているが

人間には一切の自由はない

のだということがでてきます

 

西洋では、

自由という考えは最も大切な

概念で、あらゆる場面で

自由ということが

中心に置かれます。

まあ仏教とはまるっきり

正反対の考え方ですが、

 

「一点一画も人間の

自由意志で変えるわけには

いかんのです。

そんなら

心は自由になるかというと、

今、腹立てとるということを

静めることもできんし、

それから腹を立てる力もない。

 

論より証拠、

今腹を立ててみよ

と言われても立ちやせん。

どうもわしは凡夫で

腹が立ってかなわんという。

そんなら一つ立ててみよと、

何も立ちやせん。

自分の意志ですら

自分で支配できん。

そこらはよく考えてみん

ならんね。

意志の自由ということを

言うけれどもね。

 

そこに荘厳ショウゴン

という意味は、

世界を創り出すという

ものじゃなしに、

世界に遇うんじゃ

ないでしょうか、反省して。

願が見出すんじゃ

ないでしょうか。

創ったんでもなんでもない。

 

だから

必然の世界というものを、

道理を、

自然の道理を止めて

自己を実現する

というんじゃないだろうと。

自然の道理というものは

自由意志などというものは

許さん。

 

自由すべからずと、

そういうところに

自然の道理にかなうんです。

我がままを超えて。

自然の道理かなうというと

そこに自由がある。

 

自然という言葉は、

一面には必然があり

一面には自由ということが

ある。

自ずから然る(シカル)んです

から自由です。」

 

自由ということも

何でも自分の自由になると

思いがちですが

仏教では何一つ自由になる

ものはないといいます

それは宿業の催すところで

 

最近になって

好き勝手に生きてきた

ように思うのですが

どうもそうではなく

ほとけさまの掌の上を

動きまわていたように

思うのです。

 

今日の「徹子の部屋」で

お客様は美輪明宏さん

瀬戸内明美さんとも

親しかったようで、

昔のインタビューで

瀬戸内さん

「自分は自由奔放に

生きてきたけど

自分の心からは自由に

なれなかった」と

おっしゃっていました。

 

好き勝手に自由に

やっているようですが

やはり

自分の心からは自由に

なれないのでしょう。

 

考え直してみると

含蓄のある言葉です。

 

 

 

 

 

 

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本当の自分とは

2022-10-09 20:16:26 | 十地経

よく、自分探しの旅に出る

ということをいいますが

なかなか旅に出て本当の自分

との出会いということは

ないように思うのですが

出会ったと思い違いを

しているのは

自分にとって都合のいい自分

に出会っているだけです。

 

講義の中では

「ここに穢土を荘厳する、

今度は浄土を荘厳すると、

穢土と浄土というものが

出とる。

世界が二重になっとる。

自覚というものが

そうだと思う。

 

生まれるということも、

すでに生まれとるじゃないか

という疑問が起こるでしょう

だからして、

改めて生まれるという、

今生まれとるのは

本当の存在でないと、

もう一つの存在があるはず

だと、

だから再生ということを

いうわけです。

 

この生を延長するんじゃない

この自分は

本当の自分じゃない。

もう一人の自分がある。

根底に眠っているじゃ

ないかと。

自分に遇うとらん。

 

我々が腹が立ったとか

正しいとか、

あいつはひどい奴だとか

いうような自分は

迷っている自分です。

本当の自分じゃない。

本当の自分にまだ遇うて

おらんのです。

 

世界と共に生き

世界と共に死ぬるという、

そういう自分にはなっとらん

不平不満だらけの自分だ。

そんなものは

自分じゃないだろう。

何か二重になっとるが、

その二重の中を逃げ出そうと

せずに、

どれだけ穢土であっても

穢土に絶望せずに

その意味を再発見してくると

こういうことが穢土の荘厳

ということだろうと思います

 

例えば、

病人になったというときに、

病人とは情けないから

早く治りたいと

いうんですけども、

しかし病気するときには

病気しとるのが一番いい。

病気するという義務がある。

そういしてみると、

情けないということは

いらんことなんだ。

ああ情けないというのは

煩悩だ。

 

したがって、

これは情けないということを

考えることで

情けなくなるんです。

病気しとるのはなにも

情けないことあらせん。

 

だからそういうとき、

今病気しているときには

病気を治すということが

自分の使命だ。

そうしてみると

病気を逃げ出そうとせん。

そこに病気を超えた

広い世界を見出してくる。

 

病気でなければ

分からんような世界を。

健康だったらこんな世界に

気がつかなんだろうと、

病気したおかげで

独自な大きな世界を見出した

と、

これはぴんぴん健康になる

よりもうらやましいことじゃ

ないか。

 

そういうようにして、

人間は皆各々大きな世界を

背負うとるんですけど、

見つからんのです。

不平不満で他に探しとるんだ

困らん世界を。

 

困るのはなにも

困らしとるわけじゃない。

困らせるものなくして

自ら困っとる。

それだから非常に惨めなんだ

 

貧乏なのが

不幸なんじゃない。

貧乏ということを

恨んどるのが一層不幸なんだ。

不幸じゃない、

不幸以上なんだ。

悲惨でしょう。

不幸というのはべつに 

悲惨じゃない。

 

そういう点で、

世界というものに

一つの新しい意味を

見出してくるというのが

穢土を荘厳する

という意味です。」

 

この言葉も

先生が長い闘病生活から

見出してこられた

ことのようです。

 

よく分かりませんが

自分に絶望した時に

意外と本当の自分に

出遭うのではないでしょうか

 

 

 

 

 

 

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食物の定義

2022-10-08 21:26:04 | 十地経

何気なく食べている食事も

仏教という立場からみると

私たちが考えている

ただ口から食べる食べ物

だけではなく

もっと広い考え方がある

ようです

 

「食物ということを定義

してみよと言われると

ちょっと困るだろう。

米だというが、コメは穀物。

魚だ、魚は魚類。

環境でなく主体だ。

人間の食物、

それは魚にとっては

えらい迷惑な話だ。

人間に食われるために

生まれたきたんじゃない

のだから。

そういうように、

我々が米とかパンとか

いっているのは

一番狭い範囲の食物。

それを段食(ダンジキ)と

いいまして、

物質的食物として

なんぼでも細かく分ける

ことができる。

パンの一切れと二切れの間に

連絡はあらせん。

それを段食という。

 

しかしそれだけが食物かと

いうと、そうはいかん。

お前は明日の午後2時に死ぬ

と、こう決まったら

パンがあっても喉を通らん

のです。

そうすると

人間をパンが生かしとるん

じゃないんだ。

不安がないことが生かしとる。

希望だ。

明日はまだ生きれるという

希望がパン以上に

人間を支えとる。

 

そういうところを

推していくというと、

自己を除いた一切が食物に

なるんです。

物質だけじゃない。

感情も意志も表象も

皆これ食物になる。

瑜伽の学問の中で説かれて

います。

 

それで、

身体というものは

環境を食物として身体自身を

支えとると、

身体自身を支える。

身体自身を支えるものを

食物という。

穀物が食物になるためには

他を媒介にする必要がある。

 

例えば胃液、

胃液によって溶解された時に

食物になる。

溶解されるまでは穀物だ。

そしてそれが

肉体の一部分に再組織される

ときに厳密には

食物といえるんです。

 

そういうことで、

唾液とかもある。

あるいは脂肪は運動しないと

たまる。

そういうようなもので、

支えるというのが

身体の意味なんです。」

 

というように

講義には出ています

そのことを読んでいたので、

今日は久しぶりの方々と

美味しい食事をしました。

先生のいわれる

段食を頂いたのですが

ふと外の風に当たっていると

 

 

やや肌寒い秋の風が心地好く

吹いています

これも肌にとっては

いい食事なのでしょう

 

 

一歩踏み込むと

草月のお花が見事に活けて

あります

 

 

こうやって見るのも

目にとっては最高の食事

になるのでしょう

 

 

こちらにも秋を感じさせる

コスモスが活けてあります

何気なく公園とかに咲く

コスモスも自分を生かしている

ようです

 

 

帰りがけに空を見上げると

何とも美しい雲の動きが

目の中に沁み込んできます

 

あらゆる環境が

人間にとっては大事な食事に

なるのでしょう。

 

 

 

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人間成就

2022-10-05 20:50:56 | 十地経

「人間成就」

何か分かったようで分からない

人間に生まれたことの意義は

自分が自分になる

というか、

本当の自分を見つける

ということでしょう

 

どんなに、

有名になってお金を儲けても

自分が分からなかったら

生まれた意義も

分からなくなり

せっかくの人生が無駄に

なってしまうような

気がします

 

十地経の講義では

「法に触れて、

人間は色のない人間に

なれるんです。

無色透明な。

何のくさ味もない人間。

坊主臭いことがない。

坊主臭くなければ

百姓臭いとか、

そういうもんじゃない。

いかなる臭みもない。

だからそんな人は

どこにおったか

気がつかんほど形がない。

 

仏者らしさのない

完全に人間の中に

自己を没しきるような人

ですね。

仏者という色や姿を

人間そのものになってしまう

こういうのが人間成就

というもんだと思います。

 

法というものがなければ、

人間というものは

どんなにくさ味を取ろうと

思っても取れんのです。

何か臭いものを持っとる。

 

つまり凡夫ということは

ただ人ということです。

ただの人なんだ。

凡夫になるというのじゃない

本当の凡夫に帰るという、

本来の。

 

凡夫という立場に立って

初めて人間を超えた法に

触れるんです。

人間が賢かったら

法がはたらきようがない。

腹に一物あるんですから、

はたらいてみようがない。

体験だの理論だの思索だの

そんな下らんものを

持っとるから

法がはたらきようがない。」

 

 

多分、お釈迦さまの

苦行の時の姿でしょう

痩せこけてあばらは見え

背中の骨も見えています

 

お釈迦さまというけど

実際の姿は痩せた老人

ということが

書いてありました

こういう姿が実際の

お姿だったのかもしれません

涅槃に入られたときも

はたから見れば

痩せた老人が

生き倒れになった

ということです

それが

ずっとお側にいた阿難尊者

から見れば

痩せた老人ではなく

光り輝く姿に見えた

それがあの大きな光り輝く

涅槃像になったのです。

 

法を具現した

というのは光り輝くのでなく

無色透明な人になった

ということなのでしょう。

 

当院にいる僧侶たち

最初の頃はどうにもこうにも

衣を着ても様にならない

何ともちぐはぐな感じ

なのですが

それが今では

すっかり衣も身に馴染み

坊さんらしくなってきた

先生の言葉を借りれば

「坊主臭さがでてきた」

ということでしょう

 

まあ、そこからが修行で

坊主臭さがなくなってくる

そこまで修行するのが

本当の修行でしょう。

 

安田先生もよく

「鳥が飛んだ

でも跡形もないではないか

飛んだという事実はある

しかし跡形もない」

ということを話されて

おられました。

 

しかし、

跡形もなく生きる

ということは

本当に難しいことのようです

 

 

 

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東本願寺の瑞獣たち

2022-10-04 20:07:52 | 住職の活動日記

最近は東本願寺が散歩コース

訪れるたびに新たな発見が

あります

まあ色々気になるのですが

 

 

立派な松の選定が

行われています

 

 

こちらの松が剪定後

すっきりとしています

松が一番大変で

殆ど手作業で時間もかかります

 

境内に一歩踏み込んで

何気なく屋根を見上げたら

屋根の上に何かいる

 

 

悲しいかな携帯のカメラ

うまく撮れません

 

 

目を凝らしてみると

どうも亀のようです

えらい怖い顔をしています

 

 

反対側にも、

南北の屋根の隅にいます

仏教では経典を運んできた

という亀、

東寺には仏頂尊称陀羅尼

という石碑を甲羅の上に

乗せています

 

この瑞獣というのは

中国の考え方のようで

為政者が良い政治を行うと

瑞獣が現れ

悪政がなされると

災異(わざわい)が

天から下されるという

思想があります

それで

聖人は四霊を手なずけた

といいます

四霊とは、

麒麟・鳳凰・亀・龍

になります

 

 

ここ本願寺の手水の龍は

ことさら立派で

普通は頭の部分だけで

下は省略されているのでが

 

 

ここの龍は全身があるのです

龍を手名付けると

魚たちは激しく泳ぎ回る

ことがなく

鳳凰を手名付けると

鳥たちは驚いて飛び立つ

こともなく

麒麟を手なずけると

獣たちが逃げまどうことも

なく

亀を手なずけると

人身の機敏を見失うことが

ないといわれています

 

また、

龍は九似(くじ)といわれ

身体の九か所が他の動物に

似ているとされ、

角は鹿、耳は牛、頭は駱駝

目はウサギ、鱗はコイ、爪は鷹

掌は虎、

腹は蜃シン(蛟コウ-龍の一種)

項ウナジはヘビという

特徴があるといわれます

 

といわれるのですが

この龍を見ていると

目はウサギでもないし

頭は駱駝でもないような

とても恐ろしい形相です

 

 

この爪が鷹というのは

それらしい貌です

 

 

鱗は鯉の様相です

 

ちょうど鐘楼堂も修理中で

釣鐘が移されています

 

 

この梵鐘には天女が描かれ

見るからに古そう

 

 

5月28日のも見え

別な面に慶長9年の年が見えます

 

 

そこには立派な鳳凰の姿が

描かれています

 

 

梵鐘を釣るところが

竜頭といいます

時計の針を合わすのも

竜頭を回すのですから

何か通じるところがある

のでしょう

 

門の柱を巻いている金具

名前は知りませんが

 

 

ここにも表情の違う

獅子の姿が描かれています

 

なかなかおもしろいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高瀬川 七条~五条

2022-10-03 20:35:08 | 住職の活動日記

この高瀬川も五条より北と南

では趣を異にしているようです

 

 

七条から歩きだして

まず目に飛び込んできたのは

この大きな柘榴の木です

真っ赤な実が花のように

輝いていたからです

 

 

川の上に実っているせいか

捥ぎ取られるより

川の上に落ちる方が

多いような気がします

 

 

高瀬川も慶長19年(1614)

角倉了以・素庵親子によって

作られたものです

それも私財をなげうって

二条~伏見まで作られました

 

 

この川は伏見から京の町へ

米・材木・薪や炭など

生活必需品を運んだ

大動脈だったのです

そして、大正9年(1920)

まで使われていました

 

 

川沿いを歩くと

まだこの黄色の彼岸花が

咲いています

当院にもあったので

何にも増して懐かしく

感じるものです

 

 

百日紅の花にも出会いました

 

 

一際ねんきのはいった

高瀬川の石碑

反対側には正面通りの

文字が彫られています

 

 

ショウウインドウに

大きな金魚が二匹

よく見ると鞄なのです

古そうなカバンのお店

他にも鳥の格好の鞄も

見かけました

 

 

「紀念」とだけ書いた石碑

横の立て札には

この付近は砂浜になっていて

ここで船を回した場所

ということです

当時この付近は川幅が

9mほどもあって

回すのには適当な場所

だったのでしょう

 

高瀬川で使われた舟は

水深に合わせて浅く平な舟で

5~6隻を繋げて一組とし

それを14~5人で綱で引いて

伏見から京都まで引き上げた

ということです

その際には、

「ホーイ、ホーイ」と

掛け声をかけて引いた

ということです

 

 

ずいぶん日焼けした公衆電話

色は褪せているものの

国際電話もかけられま話と

表示が出ていました

 

川沿いの木々は

水が十分にあるのでしょう

幹も大きく

豊かな緑を湛えています

 

 

足元には

 

 

根っこに囲まれるように

彼岸花が花が枯れて

下からは葉が出始めています

 

 

誰も取らないのでしょう

サルノコシカケが

見事に成長しています

五条より下は

まだまだ自然が残り

ところどころには

昔の風情を感じることが

できるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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東本願寺の彼岸花

2022-10-01 20:48:08 | 住職の活動日記

彼岸花、好きな花の一つです

咲く時期も

不思議なほど彼岸になると

土の中から花を出します

この頃になると

朝夕はめっきり涼しくなり

 

秋きぬと

目にはさやかに見えねども

風の音にぞおどろかされぬる

 

という藤原敏行の歌が

ありますが

まさに、

そのように感じ取れます

 

 

東本願寺の烏丸通に面した所

松の木の下にもう

やや盛りを過ぎた一群が

あります

 

東本願寺の周りには

堀があって

 

 

ちょうど生垣の内側に咲き

誰からも踏み荒らされないので

一列に美しく咲いています

 

 

堀に映る花もいいものです

 

 

この場所は東北の角地

鬼門を塞ぐように欠けるように

作ってあります

 

 

その角を廻ると

六条通の掘りに綺麗に一列に

行儀よく並んでいます

 

もう彼岸も過ぎ

はや10月になります

今朝は21度ほどですが

昼間は30度まで上がってきて

やはり夏の装いで

汗ばむほどです

 

 

わずかに残る道端の彼岸花

この形も不思議なものです

誰がこういう形にしたのか

やはり自然の力は

驚くべきものがあります

 

 

そして、咲き終わると

花は枯れて実を結び

その後から

葉が勢いよく出てきます

花が咲きに出て

葉が後から出てくる

この生き方も不思議です

 

葉は長いこと茂り

緑の葉を精一杯広げ

太陽の光を浴び

光合成で栄養を球根に

蓄えていくのでしょう

 

何時も咲いていた

本蔵院の彼岸花は

解体のともない

さら地になったあとに

出てきた球根は

近くの檀家の方が頂いて

いかれました

また、

ご縁のあった方のお宅で

美しい花を

咲かせることでしょう

 

今年も美しい彼岸花に

出会えて何よりでした。

 

 

 

 

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