何気なく食べている食事も
仏教という立場からみると
私たちが考えている
ただ口から食べる食べ物
だけではなく
もっと広い考え方がある
ようです
「食物ということを定義
してみよと言われると
ちょっと困るだろう。
米だというが、コメは穀物。
魚だ、魚は魚類。
環境でなく主体だ。
人間の食物、
それは魚にとっては
えらい迷惑な話だ。
人間に食われるために
生まれたきたんじゃない
のだから。
そういうように、
我々が米とかパンとか
いっているのは
一番狭い範囲の食物。
それを段食(ダンジキ)と
いいまして、
物質的食物として
なんぼでも細かく分ける
ことができる。
パンの一切れと二切れの間に
連絡はあらせん。
それを段食という。
しかしそれだけが食物かと
いうと、そうはいかん。
お前は明日の午後2時に死ぬ
と、こう決まったら
パンがあっても喉を通らん
のです。
そうすると
人間をパンが生かしとるん
じゃないんだ。
不安がないことが生かしとる。
希望だ。
明日はまだ生きれるという
希望がパン以上に
人間を支えとる。
そういうところを
推していくというと、
自己を除いた一切が食物に
なるんです。
物質だけじゃない。
感情も意志も表象も
皆これ食物になる。
瑜伽の学問の中で説かれて
います。
それで、
身体というものは
環境を食物として身体自身を
支えとると、
身体自身を支える。
身体自身を支えるものを
食物という。
穀物が食物になるためには
他を媒介にする必要がある。
例えば胃液、
胃液によって溶解された時に
食物になる。
溶解されるまでは穀物だ。
そしてそれが
肉体の一部分に再組織される
ときに厳密には
食物といえるんです。
そういうことで、
唾液とかもある。
あるいは脂肪は運動しないと
たまる。
そういうようなもので、
支えるというのが
身体の意味なんです。」
というように
講義には出ています
そのことを読んでいたので、
今日は久しぶりの方々と
美味しい食事をしました。
先生のいわれる
段食を頂いたのですが
ふと外の風に当たっていると
やや肌寒い秋の風が心地好く
吹いています
これも肌にとっては
いい食事なのでしょう
一歩踏み込むと
草月のお花が見事に活けて
あります
こうやって見るのも
目にとっては最高の食事
になるのでしょう
こちらにも秋を感じさせる
コスモスが活けてあります
何気なく公園とかに咲く
コスモスも自分を生かしている
ようです
帰りがけに空を見上げると
何とも美しい雲の動きが
目の中に沁み込んできます
あらゆる環境が
人間にとっては大事な食事に
なるのでしょう。