本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

空がはたらくのが空

2022-10-12 20:27:56 | 十地経

持てるものはますます与えら

持たぬものは持てるものまで

失うと、

講義の中でこの言葉は

ずっと残っていた言葉です

聞いた時、何かしら

強烈な印象でした

そのときには

ないものですから

それでは不公平じゃないかと

思っていたのです。

 

「まあ、僕はその空智って

いうのを、そうですね、

主体というもののない

はたらきということですね。

誰かがあって

はたらくんじゃない。

はたらくものなくして

はたらくと、

こういうときに、

空にしてはたらくという

ことが出てくるんです。

はたらくものなくして

はたらく。

 

ま、こういいうようなことが

ここでなっとるですが、

その、

空が悪いんじゃない、

空をはたらかないように

さしとる障りがあるわけです

空が過失じゃないんだ、

空に停滞することが

過失なんです。

 

はたらこうとせんことが

過失なんです。

空にしてはたらく

という場合に、

はたらけんようにさしとる

ものね、

それは、あの、

はたらく必要がないという

一つの考えですね。

 

空に、空に滞るというか、

空を愛着するということが

はたらけんように

させるわけです。

そうするというと、

空まで失ってしまうわけです。

空というものに愛着すると

有になってしまう。

 

これは福音書にある言葉で、

持てるものは

ますますあたえられると

持てるものはますます

与えられると。

持たぬものは

持てるものをも

失うということがある。

 

持てるものはますます

与えられるし、

持たぬものは持っとるもの

まで失ってしまうという

ような言葉がありますが、

 

空がはたらかんようになる

というと空にとどまれば、

空まで失ってしまう。

空がはたらくのが空なんだ、

はたらかんのが空じゃない。

無限にはたらく

ということが空、

空自体なんです。」

 

空に停滞する

七地沈空ということがあって

第七地まで来ると

こうこれでよいといって

空に止まってしまう

そういう難があります

 

修行でももうここまでやれば

これでいいといって

一服してしまう

その心が難で

修行が止まってしまうと

いままでやってきた修行まで

失ってしまうのです

ちょうど

坂道にいるようなもので

止まると落ちてしまう

足踏みしているだけで

やっと現状維持

一旦止まれば落ちてしまう

そこに難、障りがあるのです

 

だから修行でも

やり続けなければ

今までやってきたことが

そのまま保たれるかというと

それまで失ってしまう。

 

持てるものは

ということはやり続ける

ということです

止めてしまえば

今まで持っているものまで

失ってしまうということです

 

そこに修行の大切さが

あると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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