本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

方便智発起殊勝行

2022-04-13 20:30:16 | 十地経

「方便智発起殊勝行」

ホウベンチホッキシュショウギョウ

ということが

第七地ではずっと貫いている

ように思います

この「勝」ということも

普通でいう勝ち負けの勝

ではなく、仏教の場合は

「すぐれた」と読みます。

 

「前上地勝」ゼンジョウチショウ

ということもあって

「前」というのは

第七地から見て前ですから

第六地、第五地というように

第七地より前の地

ということです

その地に対して勝れていると

そして

「上」というのは

第七地より上の地ですから

第八地、第九地、第十地です

その上の地に対しても

勝れているというのです

 

そういうことを講義では

 

「そこで、

増上の行というのは、

世間及び出世間において

更に勝れたるものがないから

殊勝の行と言うんだと。

というのは

低い方に対しては、

第一地から六地までに対して

勝れとるというのなら

それは当たり前のことだけど

後に出てくる

八地・九地・十地というもの

に対しても勝れとるという。

 

下に対しても勝れとるけど

上に対しても勝れとる。

勝れるという意味にも

こんな使い方がある。

低いものに対して勝れとる

というんじゃなしに、

上なるものに対しても

勝れとるという。

 

こういうことに揺られるから

我々の思想が練れてくる。

低いものから勝れる

ということは言っても、

勝れたものから

勝れとるとは言わんでしょう

 

八地・九地・十地という

勝れとるものも

この第七地の上に

建設されるから、

それは八地・九地・十地は

勝れとるかもしらんけど、

その勝れとるものを生み出す

のが方便荘厳なんだ。

勝れとるものを生み出す

ものは一層勝れとるんだ。

 

普通は果というものは

勝れたものだと、

因は低いものだというように

考えるけど、

果という勝れたものを

生み出すのが因だという場合

果よりも

もっと因が勝れとる

ということになる。

因を押さえれば

その中に果はあるんだ。

果を求めても果は得られない

 

いろいろ長い道を歩いてきた

のは

今日のためであったのか

という、

長い間の苦労がそこに

満足するわね。

今日というものがなければ

長い間の苦労も無駄苦労や。

 

勉強でも何でも

途中で止めると

無駄になってしまう。

小学校の時の教育の意義は

高等学校で分かるんです。

小学校で何を学んできたか

という意味は

高等学校で分かる。

高等学校で止めてしまえば、

高等学校の努力も

消えてしまうんだ。

大学へ行って初めて

高等学校で学んだことの

意味が初めて

このためであったかという

自覚ができる。」

 

普通は

因は劣っていて

努力して身につけた

果の方が勝れていると

思いがちなのですが

勝れた果を生み出す

因の方に勝れたものが

あるというのです

 

これはちょっと

早合点かもしれませんが

仏が果というなら

人間が因で

修行して仏になる

そういうことなら

人間が低くて仏が上と

普通は考えるのですが

ひっくり返して

仏を生みだすような

因である人間の方に

本来は勝れたものを

内包しているのではないかと

いうことが言えるのでは ??

 

そういうことを

見出していく所に

菩薩という人間像が

あるように思うのです。

また、

そういうところに

「自己を尊重せよ」

ということもあるように

思います。

 

方便智発起殊勝行と

人間の中に仏を見出した

からこそ

十地の歩みというものを

見出してきたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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感無量!すべて無料!!

2022-04-12 17:37:52 | フラワー

京都市の植物園

今は春の花々が満開

テレビでの放送があって

地下鉄で一本

早速出かけてきました

 

 

北山口からはいると

雪柳のロードが待ち受けて

います

向こうには桜の花が

入った瞬間から

胸が高鳴ります

 

 

これは関山カンザンという品種

 

 

ピンクの色がやわらかい

花を演出しています

 

 

この品種は今が見ごろです

 

 

こちらは桃の花

ピンクと白で源平枝垂れ

といいます

 

 

この枝垂れ桃も枝が

倒れすぎて地に着いて

しまってます

 

 

フジモドキという

 

 

品よく白い佇まいは

利休梅リキュウバイという梅

 

 

さすが植物園

花の種類の多さには驚きです

 

 

温室に入るとさすが

エキゾチックな花が

出迎えてくれます

 

 

名前は

わからなかったのですが 

 

 

なんとも美しい

 

 

不思議な葉のような

赤いところが花

 

 

まるで唇にそっくりです

サイコトリア・ペピギアナ

と舌を噛みそうな名前

別名を

「ホット・リップス」熱い舌

といいますが

全くその名の通りです

 

 

サボテンも

花を咲かせています

 

 

萌えいづるといいますが

やはり熱帯植物は

 

 

その出方も不気味なような

 

 

虫を思わせるような姿です

 

 

笠をかぶったような

その周りをアリさんが

忙しそうに動き回っています

 

 

この花も牡丹の一種

フィリピンのノボタンで

メディニラ・メグニフィカ

別名はオオバヤドリノボタン

(大葉宿野牡丹)

名前のように着生植物

木や岩の上で育ち

地に根を下ろすことはない

 

 

という花なんです

 

 

シャガの群生

 

 

やはり日本の花のほうが

落ち着きます

もっともっと沢山の花々に

出会ったのですが

珍しくカメラの電池がなくなる

ほど撮ってしまいました

 

まあ、感無量

花たちの美しい姿を

見せていただきました

さらに、

敬老乗車券などを頂いて

地下鉄も入園料も

すべて無料

なんともいい一日です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人間の構造として、自利利他がある

2022-04-11 20:28:43 | 十地経

学問というのは

問いを学ぶと書きますが

安田先生の講義も

答えを出していく

というのではなく

問いということを

明らかにしていく

ということだと思います

 

「人間存在というものは

初めから共同体的な

構造をもっとる。

社会的な構造をもっとる。

人間が個人であるなら

何もいらん。

宗教も教育も何もいらん。

なぜ人間を教育せんならん

のかね。

共同体という問題が

あるからだ。

こういうような問題は、

宗教だろうが哲学だろうが

およそ人間というものの

構造が自利利他の構造を

表しとる。

自他の構造をもっとる。

 

これは自利利他ということが

果たして可能であるのか

という問題です。

それから可能だとして

如何に可能であるか。

果たして可能であるか

という問題と、

如何にいて可能か

という問題がちゃんとここに

あるわけです。

 

人間自身の構造がもっとる

問題なんです。

それが自利利他。

これは不可能だという

結論が出ても

止めておけん問題なのだ。

不可能であっても、

じゃ止めておこうと

言えん問題だ。

 

問題を止めるわけに

いかないんで、

問題を解くことのできない

自分の立場を

やめなきゃならん。

 

問題が解けんからといって

問題を捨てるわけに

いかんでしょう。

問題が解けないなら、

それを解くことができない

自分の立場を

変えなきゃならん。

そして

もっと根源的な立場を

見出してこんならん。

 

それが

思想の事業

というものでしょう。

こういうような一つの、

大きな、

これは無上仏道の問題

なんです。

こういう自利と利他とを

完全に解決するから

無上というんでしょう。

無上道だ。

こういうような問題が

ここに出ております。」

 

第七地になってから

ずっと、自利利他、

それから方便ということが

繰り返し出てきます

一つの問題が終わったから

次、ということではなく

いろいろな角度から

また外国ではこういう問題を

どのように扱っているか

というように

なんだか、

音楽でいえばオーケストラ

のような

主題があってその楽譜が

表現を変えながら

繰り返し出てくる

そのような

講義のように思います。

 

そういう問題を温めながら

ずっと講義されていく

そこが

この講義の醍醐味のように

思われます。

 

 

 

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清水へ祇園をよぎる

2022-04-10 21:27:00 | 住職の活動日記

清水へ 祇園をよぎる

 桜月夜

こよひ逢う人

みなうつくしき

 

という、

与謝野晶子の歌がありますが

円山公園の桜のライトアップ

今日までということで

 

「祇園をよぎる桜月夜」

 

の歌につられて

出かけたのですが

初めての夜桜

そんな歌のような様子を

想像していたのですが

あたりは

若い人たちの奇声が聞こえる

情緒も何もないものです

 

 

しだれ桜ももはやすっかり

葉桜という状態

なんとかあるかなと探すと

 

 

古木の幹に出ている

美しいピンクのさくらが

残っていました

 

 

山を見ても

桜の花とモミジの若葉が

入れ替わりの時のようです

 

 

元気のいいタンポポも

見つけました

踏まれないように

柵の中にあるタンポポは

美しく咲いています

名前も

「ダンデライオイン」と

日本名は西洋蒲公英

根はコーヒーの代用になると

そういう立札が見えます

 

もうすっかり桜の時期も終わり

いよいよ春本番というか

連日20度を超える

5月中旬のような天気

花々も一気に

咲き乱れることでしょう

 

しかし、

我が家の牡丹

移動のためにバッサリと

切ってしまったので

葉は悠々と見事に広げて

いるのですが

花芽は一向に出る気配は

ありません

今年は葉の茂りを

楽しむことにします

 

花が咲くのは

植物たちにとっては

ほんの一瞬の出来事

葉を広げ日の光をいっぱいに

受けて力を蓄える

そのことが本当の働き

かもしれません

その葉の勢いを見るのも

楽しいものです。

 

 

 

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よごれ(汚)とけがれ(穢)

2022-04-09 19:38:49 | 漢字

京都新聞社主催で

井沢元彦さんの

「鎌倉とは何か?

天皇と武士の対立関係」

という題で講演がありました

この方の話は面白く

何回も楽しみに聞いています

 

日本の歴史を1時間で話せ

といわれたら、

北条義時をあげると、

まず結論から始まります。

いつもそうなんですが

歴史を点で押さえるのではなく

大きな流れとして

とらえていかれます。

 

その中で気になった言葉が

「よごれとけがれ」

ということです

というのはどちらも

仏教の言葉として使います

染汚(ぜんま)という

煩悩の一つです

それから、穢土(えど)

浄土に対して私たちのいる

ところが穢土です。

 

講演では、

よごれは洗えば流されて

きれいになる

ところが、

けがれは洗っても消えない

宗教的意味を持つのが

けがれであると、

 

そういえば辞書では

汚、という字は

たまり水という意味が

語源のようで

穢、は

雑草が生え茂ってあれる

というのがもとの意味の

ようです

文字としてはどちらも

宗教的意味はありません

 

けがれ、というのは

日本独特というか神道的

考えかもしれません

 

と思ってっての帰り道

 

 

お寺の掲示板に

こういう言葉に出会いました

なるほど

すべては命の芽生えです

私たちに都合のいいものを

美しいとめでて

生え茂り手に負えなくなると

雑草としてけがれたもの

として刈ってしまいます

 

昭和天皇は

雑草という草はない

私たちが知らないだけ

と、おっしゃっておられました

 

辞書にあるように

雑草が生い茂ったもの

をけがれとするなら

本来的にはもっと現実的な

洗っても落ちないという

よごれ(けがれ)とは

違うようです

 

仏教でいう穢土とは

「厭離穢土(オンリエド)

欣求浄土(ゴングジョウド)」

という、

言葉がお経にもあります

短く、

厭穢欣浄(エンエゴンジョウ)

ともいいます

徳川家康も旗印としました

 

仏教では

ただけがれているという

ことではなく

煩悩によってけがれている

そういう場所だから

私たちの住む世界を穢土と

いうのです

それぞれが相手のことを

思いはかるのではなく

自分の都合だけで

自分勝手に作り出している

ということです

 

「心がきよまれば

住む世界もきよまる、

さとりを開けば

この娑婆世界が浄土となる」

という言葉が

維摩経という中に出ています

 

浄と穢

染汚ゼンマと清浄と

いうこともよく考えなければ

いけない言葉のようです。

 

講演の中で

あの義時を演じる俳優さん

あの清らかさで

今後どう演じるのか

楽しみだとも

おっしゃっておられました。

 

 

 

 

 

 

 

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花祭り

2022-04-08 21:03:27 | 住職の活動日記

花咲き匂う春八日

響き渡った一声は

天にも地にもわれ一人

 

で始まる、花祭行進曲

ルンビニー園の花が咲き誇る

なかにお釈迦さまは

お生まれになりました

 

 

あたかもこのような

花々が咲き誇っていたので

しょうか

 

 

今はどこを見ても

美しい花たちが

咲きだしています

 

 

木蓮も踊るような花びらです

しかし、

お釈迦さまにとっては

すぐにお母様が亡くなられ

環境的には恵まれていても

精神的には色々悩みの多い

ご苦労がはじまるのです

 

響き渡ったひと声

天上天下唯我独尊

という

天にも地にもわれ一人

独立宣言のようなひと声です

 

面白いことに

南方の仏伝ではこのような

ことはあまり言わない

ようです

お釈迦さまは

すでに仏になられた方

その方の生い立ちやご苦労は

言わないということです

 

人は誰でも仏になれる

という立場と

仏はお釈迦さま一人だけ

という考え方の違いに

よるものです

 

まあ、この頃の季節

いろいろな命が芽生えだす

心も楽しくなってくる

そのような命の響きを

感じる時でもあります

 

そういう息吹を感じるのも

素晴らしい時期です

 

今日はパソコンの調子が

悪く携帯からのアップですが

なんとも不自由なものです

 

 

 

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ヴァールハイト・アンジッヒ

2022-04-07 20:44:07 | 十地経

この言葉を聞いた時

何かしらこの響きに

意味も分からず

感動したものです

講義の中でも

よく出てくる言葉です

 

Wahrheit an-sich

というドイツ語です

真理それ自身という

仏教では

法性ホッショウという言葉で

出てきます。

 

「真理はそれ自身で

あるものです。

衆生によってあらしめられ

とるのじゃない。

衆生が努力したから

真理が増えたとか、

衆生が否定したから

真理が壊れたというもの

じゃない。

衆生が否定しても

否定されんもの。

人間の努力などというものを

待たんものが真理や。

真理はいつでも

真理自身として、

真理は真理自身によって

支えられとる。

 

大体、法という字が、

支えられとる

という意味なんです。

法性というのは。

支えるという語根から

出来た言葉です。

 

自分で自分をもっとるもの。

火は熱いという時、

火の本質は何かといえば

熱さということです。

熱さは熱さ自身によって

熱さを支えとる。

そういうものが自己自身を

もっとるものです。

そういうものを法性という。

 

火という存在、

火という法の法性は熱さです。

それは

変わらないものでしょう。」

 

なかなか面倒なような

難しいことが続きますが

こういうことを

厳密に見ていかないと

煩悩という問題も

それから真理といいうことも

解明できないのでしょう。

 

法性ということも

法の本質ということで

法そのもの

般若心経にも

「空の相は不増不減」

という言葉で出てきます

空といっても法といっても

同じことです

その姿は増えもしないし

減ることもないといって

いるのです。

更に、

滅することもなく

生じることもない、と

「不生不滅」

という言葉が続きます。

 

ということは人間は

増やして見るか

減らして見ると

なかなか、ものそのもを

自分の好き嫌いを交えないで

見ることはできない

ということです。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

という言葉もあるし

反対に

好きになればあばたも

えくぼに見えてくる

ということがあります。

 

ものそのものを

冷静に好き嫌いを超えて

見るということが

如何に難しいか

ということです。

そういう意味で

ものそのもの、

真理それ自身ということを

知るには

私たちの片寄った見方を

如何に離れるかが

修行といわれるものでしょう

 

こういう問題が次々

でてくるというか

展開していくのが講義の

醍醐味のようです。

 

 

 

 

 

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方便智

2022-04-05 19:47:21 | 十地経

ここのところ難しい

「方便」ということについて

語られておられるのですが

方便という言葉も

分かったようで分からない

言葉です

普通には、

「嘘も方便」と

それが方便は嘘だと

いうようになっています。

 

方便という言葉

ウパーヤ(upâya)といい

近づけるという意味です

本当のことに近づける

ということなのでしょう。

また

六波羅蜜(布施・持戒・

忍辱・精進・禅定・智慧)

に、方便波羅蜜

願波羅蜜・力波羅蜜・

智波羅蜜の四つを加えて

十波羅蜜と、その

七番目に方便波羅蜜が

あります。

講義では、

 

「空智に対して方便智。

空智というのは

根本的認識ですね。

空智というような

根本的な認識に対して

方便智と。

『十地経』第七地

というものの問題は

第六は空智、根本智を

取り扱っている。

根本地が現前した

というから現前地という。

 

第七地は方便智の問題。

低いようだけど、

この低いということが

非常に意味が深い、

低いということは

深いものに入るんじゃない

低いということは

深いものから始まるんだ。

深いものから始る低さだ。

浅いということが

実は深いもののはたらき

なんだ。

 

方便智というものの、

方便は嘘だと

簡単にいっているけど

その、方便が大乗なんだ。

この教学が完成した

という立派な教学という場合

方便というものが

非常にはっきりしてきた。

 

これは空智というのは

分かったんですけど、

方便智というのは

分からんものを分からせる

というのが方便や。

空智だけなら

分かったものは分かった

分からんものは分からん、

ただそれだけだ。

たもとを分かつだけ。

孤立してしまう。

オープンされん。

空智というものが

ある特定の人だけに、

閉ざされている。」

 

と続くのです

第七地も

「方便智発起殊勝の行」

という言葉で始まるように

方便ということが

中心の課題です。

 

別のところでは

 

「嘘も方便だというけど

噓は方便ではない。

方便は真(まこと)に

属するものだ。

法無我智が体なんだから。

嘘に属するものじゃない。

 

そこで

『方便智とは衆生を捨てざる

無我智なり』と

こういう。

衆生を捨てんところの

無我智なんだ。」

 

と、折に触れ

繰り返し繰り返し

方便智ということが

出てきます。

このことも分かったという

ことではなく

分からい問題なのです。

根本智というだけなら

分かる人には分かる

何かそこには

限られた人だけのこと

なのでしょう

一般の衆生という問題が

抜けています

衆生の問題ということを

考えたとき

衆生を捨てないという

それでは

智慧をどう具体化するか

そこに方便智ということが

出てくるのでしょう。

 

私たちに身近なことと

浅いようだけど

それが実は深い問題を

はらんでいるという

方便智の大事な問題が

あるようです。

アウトラインしか

分かりませんが

この問題はずっと続いていく

ようです。

 

 

 

 

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唯識の勉強会

2022-04-03 20:07:47 | 住職の活動日記

東福寺ではさくらは

座禅の集中をさまたげる

ということで

全部切ってしまったそうです

それで、

モミジを植えたのかは

分かりませんが

秋には紅葉を求めた人達で

賑わっています

 

 

青モミジの新緑が

美しさを増しています

 

 

龍谷大学の長谷川先生の

お話だったのですが

しょっぱなに

 

 

終戦後に日本統治案として

四分割して治めるという

案があったようです

その時、

異議を唱えたのが

スリランカ代表の

ジャヤワルデ氏です

釈尊の言葉を引用して

「実にこの世においては

怨みに報いるに怨みを以て

したならば、

ついに怨みの息むことがない

怨みをすててこそ息む。

これは永遠の真理である。」

日本に対する賠償請求放棄と

日本の自主独立を主張する

演説を行ったそうです。

 

この事実も

初めて知るものでした。

それから本題に入り

 

生まれを問うことなかれ。

行いを問え。

という釈尊のことばから

人間の業について

人は生れではなく

行いによって人間性が決まる

という、

当時のインドでは

カースト制度があり

それに対する平等を

唱えたのが釈尊です。

 

そして、やっと

唯識三十頌の言葉が

始ります

それまでは

何回かあったのですが

まずは唯識というか

その前段階の人間の心に

ついての話が続き

今日は、

『仮に由て我法と説く。

種々の相転ずること有り。』

という最初の文に接しました。

 

また気になっていた

瑜伽唯識とヨーガとの関係

今は健康の一つとして

ヨガが盛んですが

これは体を動かすヨーガの

一部分で、

釈尊の「心の重視」

(すべてのもごとは

心によって作り出される)

という基本の立場の実践の

一つとしてヨーガの修行が

あったということです。

 

繰り返し繰り返し

心を整える

そしてそのことによって

もごとを正しく見ていく

そのためには

心を正しくするには

身体を正しくしていく

ということによるものです。

 

唯識は

「識のみあって境なし」

という立場です

この言葉はどうにも

分からなかったのですが

というのは

私がいなくても境という

環境は存在している

と思っていたのです。

 

ところが、

百人百様で百人いれば

百の環境があるという

ことです

例えば、リンゴを見ても

お腹が減った人には

美味しい食べ物に見えるし

絵を描く人にとっては

絶好の被写体となります

また別の生き物にとっては

それぞれの見方がある

ということです

 

自分の経験やその時の状況

などによって

自分なりの環境を作りあげて

いるということです

 

時間の関係上

肝心のところは駆け足に

なってしまいましたが

また次回は

さらに深く話が進んで

行くことでしょう

レジメを頂いたのですが

その内容は

一年かけても十分なほどの

内容です

このことを繰り返し

学んでもいいのではないかと

おもえる内容です

 

 

おみやげに

「はなくそ」という

あられを頂きました

涅槃会の時は

かきもちというか

子どもの頃は

暮れの餅つきの時に

小さな四角の餅を干して

涅槃会の前には

大きな鍋で煎って

ちょうど膨らんだ時に

水あめとかをまぶして

美味しいあられを

作ったものです

子どものころには

何よりのお菓子で

それも涅槃会の楽しみなのです

 

ということで

また次回を

楽しみにしています

 

 

雪柳も美しい白さを

かたっていました。

 

 

 

 

 

 

 

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さくら街道を東へ

2022-04-02 17:33:09 | フラワー

熊本の桜は散りはじめて

いました。

一路東へ

帰ってくると

京都は今まさに花盛り

桜花爛漫です

 

 

下を流れる高瀬川

この湖畔にそった木屋町も

今が見頃です

 

 

川の中にライトが見えます

ライトアップがあるようです

 

 

帰る頃は散っていいるかと

思いきや

ちょうどいい時分に帰れました

 

 

夜のそぞろ歩きも

格別の風情があることと

思うのですが

 

 

鴨川沿いの桜も今が満開

西から東の対岸を見るのも

美しい

 

 

瓦屋根の建物は南座です

その向こうの山は比叡山

 

 

一気に冷え込みました

風も強く、

体感温度は冬のよう

吐く息が白く見えるほどです

 

 

雪柳との対比もいいものです

 

 

鴨のご夫婦

彼女はしきりに食事中

 

 

方や旦那はもっかお昼寝です

そういえば

熊本の桜も美しい

 

 

ピンクの花びら

 

 

艶やかです

 

 

逆光気味に降り注ぐさくら

花びらの透けた様子が

また違った印象です

 

 

花博の会場で

見かけたものです

 

 

色とりどりの花たちが

春を演出しています

 

 

ここにもクマモンが大活躍

蝶々になっていました

 

 

クマモンにお別れして

一路東へと道中のさくらを

楽しみながらの帰路です

 

 

京都御所のさくらも

今が一番の見ごろ

広い御苑の中ですが

やはり桜を求めてでしょう

多くの方で賑わっています

 

 

何だか

この一枚もお気に入りの写真

なのですが?

 

 

山桜も多いようで

若葉と花が同時に

出てきているようです

 

 

御所では丁寧に手入れはせず

現状をできるだけそのままに

残し

自然の姿を見せています

 

 

この松も見事な風貌ですが

自然の姿にそった剪定です

 

 

もっともっといろいろな

さくらがあるのですが

なにせ広い!!

 

 

ほんの障り程度の桜たちです

お茶した所の庭も

 

 

江戸時代の回遊式庭園

 

 

躑躅も咲き出していて

 

 

奥には瀧もあり

茶室かと思われる建物は

四阿(あずまや)といって

内部には

「龍鱗」という額があり

淡々斎宗室の手によるもの

だそうです。

 

何だか桜というと

命も短くすぐにも散って

しまいそうで

今見なければという

心落ち着かない日々です。

 

 

 

 

 

 

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