京都新聞社主催で
井沢元彦さんの
「鎌倉とは何か?
天皇と武士の対立関係」
という題で講演がありました
この方の話は面白く
何回も楽しみに聞いています
日本の歴史を1時間で話せ
といわれたら、
北条義時をあげると、
まず結論から始まります。
いつもそうなんですが
歴史を点で押さえるのではなく
大きな流れとして
とらえていかれます。
その中で気になった言葉が
「よごれとけがれ」
ということです
というのはどちらも
仏教の言葉として使います
染汚(ぜんま)という
煩悩の一つです
それから、穢土(えど)
浄土に対して私たちのいる
ところが穢土です。
講演では、
よごれは洗えば流されて
きれいになる
ところが、
けがれは洗っても消えない
宗教的意味を持つのが
けがれであると、
そういえば辞書では
汚、という字は
たまり水という意味が
語源のようで
穢、は
雑草が生え茂ってあれる
というのがもとの意味の
ようです
文字としてはどちらも
宗教的意味はありません
けがれ、というのは
日本独特というか神道的
考えかもしれません
と思ってっての帰り道
お寺の掲示板に
こういう言葉に出会いました
なるほど
すべては命の芽生えです
私たちに都合のいいものを
美しいとめでて
生え茂り手に負えなくなると
雑草としてけがれたもの
として刈ってしまいます
昭和天皇は
雑草という草はない
私たちが知らないだけ
と、おっしゃっておられました
辞書にあるように
雑草が生い茂ったもの
をけがれとするなら
本来的にはもっと現実的な
洗っても落ちないという
よごれ(けがれ)とは
違うようです
仏教でいう穢土とは
「厭離穢土(オンリエド)
欣求浄土(ゴングジョウド)」
という、
言葉がお経にもあります
短く、
厭穢欣浄(エンエゴンジョウ)
ともいいます
徳川家康も旗印としました
仏教では
ただけがれているという
ことではなく
煩悩によってけがれている
そういう場所だから
私たちの住む世界を穢土と
いうのです
それぞれが相手のことを
思いはかるのではなく
自分の都合だけで
自分勝手に作り出している
ということです
「心がきよまれば
住む世界もきよまる、
さとりを開けば
この娑婆世界が浄土となる」
という言葉が
維摩経という中に出ています
浄と穢
染汚ゼンマと清浄と
いうこともよく考えなければ
いけない言葉のようです。
講演の中で
あの義時を演じる俳優さん
あの清らかさで
今後どう演じるのか
楽しみだとも
おっしゃっておられました。