本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

千年の闇もマッチ一本の火で消える

2021-08-18 20:41:10 | 十地経

千年も続いた闇も

その闇が明けるのに千年も

からない

マッチ一本の明かりがあれば

千年の闇も一瞬で消えてしまう

 

ということを

無間ということを説明するのに

例えとして出しておられました

無間、間が無い

媒介するものがない

ということで

 

無間地獄といえば

休む間もない程

次から次へと

苦しみが襲ってくる

ということで無間

ということをいうのでしょう。

 

四道シドウという

修行の段階があって

その第一が加行道ケギョウドウ

次が無間道そして解脱道

勝進道ショウシンドウと続きます

 

講義では、

「この道というものは

つまり、道があるということは

方法的にという意味であって

そこにはプロセスという

ものがある。

そのプロセスという概念を

表すものとして

これを無間という。

間が無い、無間

無間道、解脱道という。

道というところにやっぱり

歩むということがある。

 

方法にしたがって歩く

道というものが、やっぱり

道というものを与えるものが

学という

信仰でも、信仰の道という

ものが明らかになれば

それを学という。

 

無間道によって

惑を断ずるという

解脱道によって滅を証する。」

 

ということが出てきます。

いろいろなところで

この無間、解脱ということは

繰り返し出てきます

人間の迷いが千年続いた

としても

その迷いが明らかになるのに

千年もかからない

マッチ一本といわれるように

その闇が解けるのは一瞬です

間が無い

一瞬で迷いが覚める

そういうことを表現している

のが無間道ということでしょう

 

加行道は修行の世界

一生懸命努力するということで

そこから、閃きがあって

闇が払われる

そして解脱道、勝進道と

修行が進んで行く

ということです。

 

こういうことは

大乗仏教というより

仏教の伝統的な考え方

実践方法のようです。

 

 

 

 

 

 

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さとりを学問する

2021-08-17 20:29:38 | 十地経

「学問というのは何かというと

面倒という意味じゃないんだ。

誰でもそうなりうるものを

学問という。

秘密がないことなんだ。

公開されたもの。

学問は偉い人間がやること

じゃないんです。

平凡だから、

人間というものが偉くないから

学問が要るんです。

偉い人に学問なんか要りゃせん

 

我々が学問を求める

ということは、

優れておらんということから

出発する。

学問というのは、

そういう、

非常に謙譲な道なんだ。

学問で威張るというのは

学問をやらん人間が

いうことです。」

 

という、講義の一文ですが

やはりなるほどと

頷く言葉です。

自分にとっても学問とまでは

いかないのですが

ただ、この講義を読むという

そのことが一番

心が落ち着くというか

分かる分からない

ということを別にして

読み書きするという

だけのことなのですが、

まあ、大学生の頃

安田先生の講義に出て

それ以来ずっと

この講義だけを繰り返し

読んでいるのです

何度読んでも飽きない

ということが

安田先生の講義の凄いというか

面白いところです。

 

 

話しは前後するのですが

この話の前に

こういうことが出てきます

 

「道程を表すのに、行という

この十地経全体が道程です。

これは、人間の、

人間が人間を変革し

完成していく行ですね。

そこには一つの道程がある。

行という字は一歩一歩という

意味です。

一挙にという意味じゃない。

一歩一歩ということが

これが、行という、

道を歩むということです。

 

道というものは行くという時

一歩一歩ということがある。

それは方法的なんです。

それが道を歩まんというと、

飛躍ということになる。

飛躍はこれは、

方法がないんです。

口伝クデンとかね、

はっと思うとかいうような

ことになる。

これは、

人間が学ぶことができない。

 

悟りというものが

道でないなら

悟った人だけに

あるはずでしょう。

悟らんものは永久にない。

悟ったものだけに

悟りはあるという。

そういうことになったら

ですね、

飛躍ということになる。

 

それで、やっぱり、

その悟りの内容を

どんなものか検討してみる

こともできん。

だから、やっぱり、

今日でも広い意味での学問

ですね。

行というようなのも

一つの学問ですけれども、

対象的な学問ばっかりでは

なしにですね、

こういうような、

自分を明らかにするという

完成するというような意味の

学問も一つの学問。

世界を明らかにする

というようなのも一つの学問

です。

科学というものですけど。

自己を明らかにする

というのも一つの学問です。」

 

悟りとかいうと

何かしら、

インスピレーションのような

一つの閃きのように

思っていたのですが

そうではなく、

学問として一つの道筋として

できている

それも秘密でもなければ

公開されたもの

そして誰でもが学べるもの

ということは

ここの一文でもとても感動する

ところに出会ったと思います。

 

 

 

 

 

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私の原生林に鎌を入れる

2021-08-16 19:47:23 | 十地経

表現は違いますが

「自分自身の原始林に

 鎌を入れる」

ということを講義で聞き

何かしらのショックを

受けました

今まで手付かずの自分の心

そこに切り込むというのです

 

講義では、

「よく科学で、

実証的に知られるけど、

私の方はというと

鎌を入れたことがないんだ

だからして

私という言葉は、これは複雑

非常に複雑な言葉ですね。

人間、

私以外の世界は、

微に入り細を穿って研究しとる

日進月歩の勢いで

科学というものは

進歩しとるけど

私の方は一向ですね、

何千年のままのとおりなんだ

ちっとも進歩していない

同じところに居るんです。

野蛮人と近代人とちょっとも、

近代人の方が

さとりに近づいた

ということはないんです。」

 

人間の科学の進歩は

目を見張るものがあります

10年という年月でも

雲泥の差があります

AIの知能は人間を

超えるでしょう

それなのに

人間の心の中はというと

原始時代の人と少しも

進歩していない

さとりに近づいていない

とおっしゃっています。

 

科学や知能が進んでくると

いかに合理的に論理的に

人間を分析して

理解しようとしています

 

人間をそのままにしておいて

その延長線上に

賢い人間を作り上げようと

しています

 

ところが、

そうではなく

自分を否定するような

そういうところから人間を

人間を見直そうと

しているのが仏教の立場です。

 

発菩提心(ほつぼだいしん)

という言葉があります

菩提心をおこすというのですが

この場合、「起こす」とは

書かないで

「発」という字を使います

発心ホッシン、志を起こす

新発意シンボッチという

新しくお坊さんになる人を

こう呼びます

 

「発」というのも

仏教の独特の解釈で

自分の心からおこったのですが

自分の中から出てきたのに

自分を否定するような心です

それで、おこるという字も

起こるではなく、発こる

という字をあえて使います

 

そういう自分の原生林に

鉈を振るうような心がおこった

それで「発」と書きます

今までの自分の延長線上には

本当の自分は発見できません

自分の中に

自分を殺すような心が

芽生えたのです

 

難しいようですが

身近なところでは

私たちは他人のために

何かしてあげたとき

妙にうれしい心になります

他のために尽くす

自分を犠牲に出来る

そこに喜びを見いだす

そういう心も持ち合わせています

 

ここに自分というものの

微妙な不思議な一面が

あるのです

 

お釈迦さまは

人類が未だ切り開いていない

自分の心に切り込み

その心のありようを分析し

その煩悩の在り方を

解明されたのです。

 

自分をそのままに

しておくのではなく

自分の心からおこったのに

自分を否定するような

そういう心が発こる

そこに人間の不思議な一面が

あるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

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愛着するということ

2021-08-14 21:19:51 | 住職の活動日記

愛着ということで

ふと思うのは

お釈迦さまが

さとりを開かれたときの様子

いろいろの表現がありますが

「山川草木一切成仏」とか

さとってみると

もうすでにすべてのもは

成仏していたというのです

自分が一番遅かった、と

また、

「我勝てり」

全ての煩悩に打ち勝った

自分は勝者である

ともいわれたとか、

さらには、

「大工が見つかった」

というような表現もあります

煩悩を構築している大工を

見つけたというのです

さとりということより

煩悩の在り方、

その正体を見つけたという

煩悩のありようが分かれば

おのずとさとりという

ことが分かってくるのです

 

そして、

さとりを開かれ

しばらくは

自受法楽ジジュホウラク

といって、

自分のさとられた法を

楽しんでおられた

というのです

さとってみると他はすべて

成仏している

もはや自分が法を説く

必要はないだろうと

さとられた十二縁起の法を

撫でまわすように

順観したりさらには

逆から観たりと

法に愛着を持たれ

楽しんでおられたようです

 

そこに、

お釈迦さまのさとりを

聞き付けて

娑婆主梵天という

娑婆世界の王である梵天が

お釈迦さまの元へ

ひれ伏して

「どうか世の中には穢れも

うすく道を求めている

人々がおられます

その人のためにも

悟られた法を説いてください」

と懇願されます

すると、

「私のさとった法は

実に微妙で欲深い人には

分からないだろう」と

拒まれます

すると梵天は

最初の七日、次に七日と

四十九日間通われます

 

そういうことがあって

お釈迦さまは座を立たれて

法を説かれた

ということがあります

 

愛着ということも

人や物だけではなく

教え、思想、考えにも

執着します

ざっくりした言い方ですが

人無我・法無我という

二つの無我を説いています

この人に対する執着を

離れるのが人無我で

法や教え思想に対する

執着を離れるのが法無我

というようにも

取れれるのではないかと

 

また、困ったことに

私たちは

本当のことが分からない

というと、

それだけでは終わらなくて

今度は本当でないことを

本当のこととしてそれに

固執してしまうのです

ここが、

無明といわれる

煩悩の一番の根本になる

のでしょう

 

本当のことが分からない

それだけで終われば

問題はないのですが

自分が勝手に思い込んだ考え

に固執してしまいます

この固執して愛着する煩悩の

対治が

一番の至難の業なのです。

 

 

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妻を愛し、仕事を愛し、土地を愛する

2021-08-13 20:46:14 | 住職の活動日記

「妻を愛し、仕事を愛し、

  土地を愛す」れば

ことを成就することが出来る

と言われた方がおられます

 

「愛す」ということも

仏教では愛着といって

煩悩の一つですが

何かを成すには

「愛する」ということは

不可欠のようです

 

愛するということは

分かったようで分かりにくい

私にとっては

掃除をするということは

一つの愛情を感じるもの

なのです

家にしても、車にしても

ものについては

掃除をしてみると

その細かい点とか

「神は細部に宿る」と

いいますか

その細部の出来具合を

感じると

愛情というものは

出てくるもののように

思います

 

しかし、これが

私のものと固執しすぎて

人には触らせないとか

ことのほか自分だけのもの

といいだすと

愛着になってくるようです

 

講義では

「愛着というものは

別に悪いというわけじゃない

けど、

人間を、ものに愛着すれば

それによって人間自身が

惑わされるんです

つまり煩悩といって

煩い悩ますものです

 

しかし、

我々は煩い悩ますものだとは

思っていません

ますます、

我々を満足させてくれる

と思っています」

 

煩悩という言葉は

知っていますけど

煩悩という自覚はない

煩悩ではないと思っています

物事が発展し盛んになることは

なにも悪いとこととは

思いません

それが当然の考えで

世間での営みには

欠かすことのできない

思いです

 

ところが、

何かの目的をもってくると

煩悩ということが

分かってきます

たとえば、スポーツ選手

金メダルという目的を持つと

今まで当たり前に

過ごしていたことが

自分を煩わせ悩みのもと

になってくる

 

食べたいものを我慢し

遊びたいことも我慢し

目的に集中しなければ

金メダルは取れません

すると

食べたい遊びたい

ということが煩悩という

ことになってきます

 

ですから

目的がない人には

煩悩ということはないのです

目的を持った時始めて

煩悩が見えてきます

 

一面には

妻を愛し仕事を愛しと、

いうことは正しいのですが

それが愛着というか

固執してしまうと

それによって

自分自身が惑わされてくる

ということでしょう

判断が鈍ってくる

ということがあります

 

安田先生も

「愛」ということは

随分考え抜かれたのでしょう

繰り返し出てくるようです

やはり

仏教でいう

愛は悲ではないかと

相手そのものになる

傍観するのではなく

相手の人と同じ立場に立つ

ものであれば

ものそのもとなる

ということをいわれています

仏教の言葉に

「同事」ということがあります

同じ事、

上から目線とはではなく

また卑下してみるのでもなく

同じ立場で寄り添う

というような

それが悲・愛ということ

なるようです

 

 

 

 

 

 

 

 

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修行(行を修す)

2021-08-12 20:45:45 | 住職の活動日記

いずれに世界においても

修行ということは

方法ややりかたは違うと

思いますが

必ず必要なことと思います

 

「十地経講義」は実践の

経典で修行ということが

繰り返し出てくるようです

 

ここで「行」ということが

問題で、

漢和辞典では、やはり

行くということが中心で

仏教でいう「行」ということは

独特の考え方のようです

 

「行」という言葉も

大きくは三つの意味があります

まず一つには、

諸行無常で出てくる「行」です

それから

修行とかでいう実践の意味の

「行」ということです

そして、

行住坐臥といわれるような

普通に歩み行くという「行」

になります

 

もともとはインドの言葉では

それぞれ違う言葉ですが

翻訳する時にすべてを

「行」というようにしたのです

そこで、一概に行といっても

非常に多くの意味を持っています

 

諸行無常の行では

移り変わるという意味ですが

無常であるすべての存在

という意味で行を使います

 

それから実践の意味で使う

「行」は

道によって煩悩を対治する

実践項目ということに

なります

つまりさとりにいたるための

修行ということになります

 

最後の「行住坐臥」の行ですが

行くも坐るもという

普通に歩いて行くということ

ですが

それを道元禅師は

それこそが行ではないかと

歩くのも坐るのも

一寸座れば一寸の仏と

いうように言われています

すべての立ち居振る舞いが

行であると

何も特別なことが行ではない

日常の生活そのものが

行であると言っておられます

 

なるほど

それこそが行であると

言えるのではないかと

思います

 

しかし、「行」ということは

いろいろな実践項目として

出てきますので

とても幅広い内容を含んだ

言葉なのです

 

また、

私たちが「行」という

四度加行でも1年ほど

続くのですが

菩薩や縁覚、声聞の行は

三生にもわたり何劫もかかる

ものであると言われています

自分では駄目なら子ども

子どもでも駄目なら孫へと

また、人から人へと

代々引き継いでいくという

行なのです

自分一代で完成するような

行などありえないようです

 

自分がこうやって

今、行が出来るのは

先祖代々受け継がれてきた

ことの賜物なのでしょう

たった1年程度の行などで

完成するものではないのです

それほど深い内容を

含んでいるのが「行」

ということのようです。

 

 

 

 

 

 

 

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お坊さんの結婚

2021-08-11 21:08:44 | 住職の活動日記

最近では当たり前のように

お坊さんが結婚する

ということになっていますが

よく考えると

お釈迦さまは妻も子も捨てて

そして地位や国まで捨てて

出家されたのに

今の私たちは何の疑問もなく

結婚しています

 

ふと思ったのは、

『十地経』を読んでいる時

繰り返しのように

「対治」タイジという言葉が

でてきます

対治、鬼退治の場合は

「退治」と書きますが

道ドウによって煩悩を

対治するときには

この「対治」を書きます

 

第七地に入るときにも

楽無作行対治と

彼の障対治と出てきます

彼というのは前の

楽無作行を指すのですが

対治したのにさらに

その障りを対治すると

講義では

第七地に入るのが

楽無作行対治で

今度は第七地に住するのが

彼の障対治と

述べてあります。

 

このように

煩悩を対治したのに

さらに、さらに対治していく

それほど私体の煩悩は

根深いものだと思います

 

加行という修行をするのですが

それくらいでは

対治できないのが私たちの

煩悩なのでしょう

 

十地経では

加行道、無間道、解脱道、

勝進道と続きます

そのように

ちょっと修行したくらいでは

無くならないのが

煩悩の正体でしょう

 

結婚生活は世間の修行とも

聞いたことがあります

楽しそうな結婚生活の反面

子どもも出来て

一つの社会が生まれると

そこには色々の

問題も起きてきます

 

お坊さんも外に出て

衣を着ていると

それなりに大切に扱われ

ふと、大きな誤解が生まれます

あたかも自分が偉いものにでも

なったような錯覚です

ちょとやそっとの修行では

なくならい

煩悩を抱えているのです

けど、あたかも人を導くような

立場に立ってしまいがちです

 

そういう偉そうにしている

お坊さんをこてんぱに

世間の立場でやっつけるのが

妻の存在です

そこに大切さがあるのです

 

私も修行時代から

師匠の怒られっぱなしでした

ほめられたことはありません

何で自分だけと、

これでもまんざらではないと

思っていたのですが

頭の先から爪の先まで

一事が万事叱られました

 

よく考えてみると

よくぞそこまで見抜いて

叱ってくれたと

自分でもわからない

煩悩を見抜いていたのです

 

そういうことからすると

十地経で述べてある対治と

いうことは

それだけ自分を見抜いて

冷静に煩悩を観察して

悩み苦しまれた結果と

そこからの道を見出された

その記録ではないかと

思えてきます

 

安田先生はそのことを

「精神現象学」ではないかと

そういう精密な分析が

十地経ではないかと

おっしゃっています

 

そこまでは

深くはないのですが

ある面では

お坊さんの結婚は

ちょっといい気になっている

お坊さんを現実の生活に

引きずり降ろしてくれる

教師という一面を

持っているように思います

そこに世間の修行

ということがあります

 

本当は見抜かれているのに

正面切って言わないのが

周りの人たちです

そこを容赦なく見抜いて

ずっばっと言うのが

妻の役目のようです

そういうことからすると

妻の存在は

一面からは師匠にあたる

のかもしれません

なかなか聞けないのですが

素直に耳を傾けることが

出来るようになると

「十地経」も

分かってくるのではないかと

思うのです

 

本当は妻の言葉くらいでは

対治できないのが

私たちの煩悩でしょう

それほど根深いものだと

知ることが大切なことでは

ないかと

つくずく思い知ります

 

そいうことを知ることでも

お坊さんの結婚は

意味があるのではないかと

思うのです。

 

 

 

 

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トンボよトンボ 赤とんぼ お浄土からのお客様

2021-08-10 20:24:57 | 住職の活動日記

お盆の頃になると

どこからともなくやって来ます

雨上がりの車の屋根の水溜まり

そこにお尻を挿しています

その後力尽きたかのように

落ちています

 

 

何かしら親しみを覚え

誰か分かりませんが

このトンボに乗って

お浄土からやって来た

のかもしれません

 

父が亡くなった年

本堂にやって来たトンボ

いくら外に出そうとしても

出ていきません

その時はまさしく

このトンボに乗って父が

やって来たのだと思いました

 

とんぼには「赤とんぼ」

という何とも懐かしい

歌もありますように

優しいイメージがあります

しかし、

トンボには色々の名があります

蜻蛉、せいれい、かげろう、秋津

と呼ばれています

 

aぶが

 

古くは『古事記』には

「手腓タコムラに虻アム掻き着き

その虻を秋津早やくい」

と出てきます

腕の内側の膨れたところに

虻が止まったのでしょう

その虻をトンボが食べた

というような意味です

 

それから、

そこから国見されたときに

「蜻蛉(あきず)の臀呫トナメの

如くあるかな」

と詠まれたといいます

蜻蛉(とんぼ)のとなめ

臀部の臀、呫(なめる)

ですから、

トンボが交尾しているようだと

と言われたのです

国見したことがトンボの交尾

意味がよく分かりませんが?

 

このように色々なところで

トンボという虫は

古くから出てくるのです

『蜻蛉日記』のかげろうも

トンボのことでしょう

 

こういうトンボも

その生態はなかなか凶暴で

幼虫のヤゴのときから

他の虫を食べ

トンボは足を輪っかにして

飛ぶ虫を捕らえるようです

 

こういうトンボですが

やはり、お盆のころは

トンボに乗ってお浄土から

ご先祖さまが帰ってくると

思って

大事にしてあげたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

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心地好い緊張感

2021-08-09 21:30:11 | 住職の活動日記

万灯会当日

本堂の荘厳も出来上がり

 

 

内陣には献灯、献花も

お供えされ

 

 

内陣では最後の

お経の稽古にも余念が

ありません

 

 

やはり声明の声合わせは

ユリというところの

微妙なところが難しく

合わせるのに何回も練習

しているようです

 

お参りの方はお見えにならい

とはいうものの

本蔵院チャンネルという

YouTubeで流れるものですから

カメラワークや音のリハーサルは

合わせるのに時間がかかります

 

その様子を見ていた子供たち

大人の真剣な姿を見て

やはり

緊張感が伝わるのでしょう

 

いざ、

子供たちの献灯・献花の

リハーサルとなると

昨日とは打って変わって

本人たちから

もう一度とリハーサルの

要望がかかってきます

実際にお花と献灯を持つと

そして、

荘厳された本堂を見ると

自然とその役目の大切さが

伝わってくるのでしょう

 

本番の法要では

大人たちも緊張しているようで

その気持ちも伝わって

子ども達も顔が真剣そのもの

 

練習の成果があって

本番でも見事に

仏さまへの献灯・献花は

音楽に合わせて

立派に勤めあげることが

できました

 

終わった後の

子ども達の様子は

何かしらの達成感があった

のでしょう

その緊張がほぐれた気持ちと

みんなでやり遂げた

達成感が心に満足を生み出した

ようです

 

子ども達にも

こういう大切な場面

緊張する場面は

与えてあげるのも大切な

ことではないかと思います

子どもだからというのではなく

子どもであっても

大切なことは大切なこと

そういうことを

自然な環境の中に浸してあげる

そういうことも大切なことだと

思いました。

 

でも、

皆さん全員の協力の賜物が

こういう素晴らしい環境を

生み出したのでしょう。

 

そういう意味においても

今回の万灯会は

素晴らしかったのでは

一人納得していました。

 

 

 

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本蔵院万灯会リハーサル

2021-08-07 20:41:39 | 住職の活動日記

新しく菩提樹苑に建立された

納骨供養の慧日堂にて

万灯会の法要は

明日の午後6時から

勤められます

でも今回は

コロナ禍ということもあり

リモートでの法要となります

 

職員の子どもさん達も

献灯献花のお役目があり

リハーサルに余念がありません

 

 

お参りの方は

お見えにならないのですが

テレビに映るということで

真剣そのものです。

 

万燈万華会

(まんとうまんげえ)

の法要はその昔

天長2年(832年)8月22日

高野山において弘法大師

空海によって勤められました

 

その時の願文が有名で

「虚空尽き 衆生尽き

 涅槃尽きなば

 我が願いも尽きなん」

という一節です

 

とても壮大な願いです

この文の原点は『十地経』の

ようです

願ガンということが主題です

『十地経』の初歓喜地から

発菩提心ホツボダイシンと

いうことで願のことが出てきます

 

ちょうど講義に中でも

「どんな人間でもみな如来の

願というものを背負って

生きている」

ということが出てきます

 

その願いが発見されずに

目先の欲望という願いに

惑わされて

本当の願いが見えてこない

ということです

しかし、欲望がある

ということは

本来は

本当の願いを求めている

という証拠です

ただ、方向が少し違っている

ということです

 

しかし、このことも

微妙な意味を含んでいて

ただ人間の願いの延長線上に

本当の願いがあるのではなく

人間の願いが終わるところに

本当の願いがある

ということです

 

弘法大師の願いも

自分一代だけの願いではなく

自分でダメなら

子ども、子供でも駄目なら

孫と、さらにその先にと

人間が尽きるまで

その願いが尽きることがない

ということでしょう

 

出来るから願う

というのはそろばんの世界で

出来るできないを超えて

願わずにいられない

というのが

本当の願いでしょう

 

万燈万華会で

弘法大師はそのような深く

息の長い願いを

人間がもっている本来の願を

願われたのでしょう。

 

 

その様子を優しいまなざしで

ご本尊の阿弥陀如来は

見守っておられるようです。

 

明日は台風も接近する様子

今回は慧日堂での

法要となりますので

安心できることでもあります。

 

 

 

 

 

 

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