本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お坊さんの結婚

2021-08-11 21:08:44 | 住職の活動日記

最近では当たり前のように

お坊さんが結婚する

ということになっていますが

よく考えると

お釈迦さまは妻も子も捨てて

そして地位や国まで捨てて

出家されたのに

今の私たちは何の疑問もなく

結婚しています

 

ふと思ったのは、

『十地経』を読んでいる時

繰り返しのように

「対治」タイジという言葉が

でてきます

対治、鬼退治の場合は

「退治」と書きますが

道ドウによって煩悩を

対治するときには

この「対治」を書きます

 

第七地に入るときにも

楽無作行対治と

彼の障対治と出てきます

彼というのは前の

楽無作行を指すのですが

対治したのにさらに

その障りを対治すると

講義では

第七地に入るのが

楽無作行対治で

今度は第七地に住するのが

彼の障対治と

述べてあります。

 

このように

煩悩を対治したのに

さらに、さらに対治していく

それほど私体の煩悩は

根深いものだと思います

 

加行という修行をするのですが

それくらいでは

対治できないのが私たちの

煩悩なのでしょう

 

十地経では

加行道、無間道、解脱道、

勝進道と続きます

そのように

ちょっと修行したくらいでは

無くならないのが

煩悩の正体でしょう

 

結婚生活は世間の修行とも

聞いたことがあります

楽しそうな結婚生活の反面

子どもも出来て

一つの社会が生まれると

そこには色々の

問題も起きてきます

 

お坊さんも外に出て

衣を着ていると

それなりに大切に扱われ

ふと、大きな誤解が生まれます

あたかも自分が偉いものにでも

なったような錯覚です

ちょとやそっとの修行では

なくならい

煩悩を抱えているのです

けど、あたかも人を導くような

立場に立ってしまいがちです

 

そういう偉そうにしている

お坊さんをこてんぱに

世間の立場でやっつけるのが

妻の存在です

そこに大切さがあるのです

 

私も修行時代から

師匠の怒られっぱなしでした

ほめられたことはありません

何で自分だけと、

これでもまんざらではないと

思っていたのですが

頭の先から爪の先まで

一事が万事叱られました

 

よく考えてみると

よくぞそこまで見抜いて

叱ってくれたと

自分でもわからない

煩悩を見抜いていたのです

 

そういうことからすると

十地経で述べてある対治と

いうことは

それだけ自分を見抜いて

冷静に煩悩を観察して

悩み苦しまれた結果と

そこからの道を見出された

その記録ではないかと

思えてきます

 

安田先生はそのことを

「精神現象学」ではないかと

そういう精密な分析が

十地経ではないかと

おっしゃっています

 

そこまでは

深くはないのですが

ある面では

お坊さんの結婚は

ちょっといい気になっている

お坊さんを現実の生活に

引きずり降ろしてくれる

教師という一面を

持っているように思います

そこに世間の修行

ということがあります

 

本当は見抜かれているのに

正面切って言わないのが

周りの人たちです

そこを容赦なく見抜いて

ずっばっと言うのが

妻の役目のようです

そういうことからすると

妻の存在は

一面からは師匠にあたる

のかもしれません

なかなか聞けないのですが

素直に耳を傾けることが

出来るようになると

「十地経」も

分かってくるのではないかと

思うのです

 

本当は妻の言葉くらいでは

対治できないのが

私たちの煩悩でしょう

それほど根深いものだと

知ることが大切なことでは

ないかと

つくずく思い知ります

 

そいうことを知ることでも

お坊さんの結婚は

意味があるのではないかと

思うのです。

 

 

 

 

コメント
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