浄土へのあこがれ
浄土という世界を心に描き
それをまさに実現した
平安の頃、貴族たちは
平等院に代表されるように
お寺を建立した
六波羅蜜の池を渡り
その向こうには
阿弥陀如来の待つ浄土がある
亡くなる時は
阿弥陀如来の手から導かれる
五色の糸を握り
口には念仏を称え
浄土へ参っていく
そういう形でもって
表現したのですが、
「この『十地経論』を
造った世親菩薩もですね、
『願生偈』というものが
ありますが、
そのときにやはり、
一番最後にですね、
菩薩が出てくるです。
菩薩荘厳という。
菩薩が浄土に生まれる。
凡夫でも浄土に生まれるけど
そんなとき、
まだ浄土ということが
分からないかも知らんけど
心境です。
信仰の一つの境地が
開けて来るという、
それを浄土という。
心境が開けて来る。
狭い娑婆の中におって、
無限に広い心境が開けて
来る。
そういうことなんだ、
信仰を得るということは。
先の白道のように狭いけど、
白道に立つと、
その中に無限に広い世界が、
全法界を包むような境地が、
心境が開けて来ると、
こういう意味です。
だからそれから考えてみても
分かるでしょう。
宗教というものは、
何か、 宗教が、
幸福になるとか、
人間が賢くなるとか、
あるいは
教育のために一つの
利益があるとか、
社会事業の… … 、
そんなことではないのです。
そんなような
世間的利益で
宗教というものが
あるもんではない。
宗教というものを信じたか
信じないかは、
外では分からん。
内に無限に広い世界を
見出していくというのが
宗教の利益なんだ。
外にけばけばしとる
もんじゃない。
外にけばけばしとるものは
返って迷わせる、
文化というものは。
外に幻惑させられて
自分を忘れるんです。
文化といいうものも
大事だけど、
自分を忘れるという。
宗教心という立場からいうと
かなり害毒のあるもの
なんですわ、一面に。
文化が害毒だと
いうんじゃない。
文化を唯一だと考えるのが
害毒なんです。
それで根元を幻惑されるのが
文化に幻惑されるのは
文化の責任じゃない、
幻惑されるのは
人間の方の責任です。
だから文化そのものの
悪口をいうのではないけど
幻惑というのは
非常に危険があるね。
そして
根元的なものを忘却させる。
文化人というのは
皆そういうものだ。
非常に浅薄な文化人ね。
人間に深さがないんです。
何か賢いようなことを
言っているから、
文章なんか読めばえらい
大した思想家みたいだけど
その人間に会ってみれば
何でもない人間、
そこらのおっさんと
同じようなのが沢山おる
インテリの中に。
つまり、
人間としての修行が
できとらんのや。
それは何かというと、
道徳という意味じゃない、
内面を持たんね。
宗教というのは
外にけばけばしいことを
やるんじゃない、
内面の広さというものをね。
それが宗教というもの。
宗教というのは内が広い
という意味です。
精神界というものは
内にあるものです。」
そういう世界がある
というのではなく
そういう心境を開く
非常に微妙なことですが
ものは思いよう
ということとは違います
現実を見れば何とも
苦しい厳しい世界ですが
そこに浄土という心境を開く
非常に微妙な言葉ですが
とても重要なことのように
思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます