はかなさを貫いて
何か永遠のものが生きとる
から歴史になる。
とか、
ただ
消えていくもんじゃない
そこに永遠を荘厳するとか
分かるような
分からないような
けど何となく分かるような
そのような言葉が続きます
その続きとして
「それから荘厳ね、
殊異の義と荘厳の相、
これは一つのことでしょう
けど、荘厳によって
荘厳されとる意義が
殊異の義でしょう。
殊異の義を表現しとるのが
荘厳の相でしょう。
こういうようなものを、
あのー、
無量の智中に、
念ずるという。
ということは何か
というと、
仏の世界の、
如来の世界の中にね、
あのー、
自己の当来を見るわけ。
自己のね。
自己の成就した世界を
見ると。」
(当来というのは未来
ということです。
当に来るべき。
未来は偶然に来る
のではなく
今の中に内包されている
という意味です)
「私は、今は仏に
なっとるわけではないけど
仏を目前に見るという。
ただ
仏は仏、
自分は自分じゃないんだ。
仏を信ずる
ということはね、
ただ仏を信ずるというのは
仏の中に
自分を確信するんだ。
仏の中に自分を確信、
自分の成就、
成就したすがたを見届ける
そういう、念、
念とですね、
つまり自分、
そういう自分を超えた
ものを念ずる念と
相離れんというんだ、
現在がね。
それが信念というものだと
何かそこにね、
あのー、
仏を信ずるということは、
ただ仏、
自分を超えた仏を信ずる
という意味もあるけど、
更にまた、
仏となりうるという
ことがある。
ええ、
結局最後は仏を信ずるけど
そういう仏に自分も
なりうるという。
結局最後は自分を信ずる
ことになる。
確信でしょう。
初めは仏を信ずるんだけど
その仏に自分がなりうると
そりゃ自分を信ずる
ことになるでしょう。
そりゃ、確信が持てるんだ。
自分に。
仏は仏、
我は我じゃあない。
仏と自分とは違うんだ。
わしゃ仏だと、
そんな大法螺吹
くわけじゃないんだ。
だけど、
その違った仏、
我を超えた仏の中に
我自身を見るわけだ。
そこに
信念というものがある。
未だ仏にあらずして、
すでに仏になりうる
確信を持つと。
こういうのが信念。
こういうことが、
念念に、
この一念というものが
成立してくると、
自然にその中に
そういう確信が
起こってくると。
こういうような意味
ですね。」
何度も読むのですが
とても重要なポイントに
なりうるような言葉です
先生の話は
盛り上がったかと思うと
「じゃあこれで」
と終ってしまいます。
ですから、
普通にいうような
序論・本論・結論
というような展開ではなく
最初から本論で
中も本論、終わりも本論と
どこを切っても
エッセンスのような話
なのです。
そこが面白いところです。
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