咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる
坂村真民
今、庭の移ろいはバラが咲き、やがて散って、
新しい新芽がにょきにょきと出てきて、
次の命を生み出しているようです。
そして、アジサイが次々と変化のある色合いを見せています。
どの花を見ても、とても美しい、
しかし、その美しさを自慢することなく、
人が見ようが見まいが、精一杯に咲いています。
やがて時が来れば、花を落とし、
実を結んでいきます。
それに引き換え、自分の姿を見てみると、
ちょっとでもいいことをすると、
これ見よがしに自慢して、
自分を誇っているものです。
そういう、花の姿に真民さんは感動されるのです。
こういう詩も書いておられます。
優しい言葉の中に、人生に対する厳しい生き方を示しておられるようです。
「 日の昇るにも手を合わさず、
月の沈むにも心ひかれず、
あくせくとして一生を終えし人の
いかに多きことぞ
道のべに花咲けど見ず、
梢に鳥鳴けど聞かず、
せかせかとして過ぎ行く人の
いかに多きことぞ
二度とないこの人生を
いかに生き いかに死するか
耳をかたむけることもなく うかうかとして
老いたる人のいかに多きことぞ
川の流れにも風の音にも告げ給う
声のあることを知ろうともせず
金に名誉に地位に狂奔し終わる人の
いかに多きことぞ 」
お釈迦さまは富みも位も捨てて
出家されました。
それなのに、私たちは富に目がくらみ、
勲章を羨ましく思い、いかにあくせく生きていることか。
真民先生の詩を静かに読み返していくと
お釈迦さまの出家の動機が感じられるようです。
何が大切か、
考え直す時間も必要のように思います。
一休さんは痛烈に、
『 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ 地獄じゃ
苦じゃ 楽じゃ どうじゃこうじゃと
いうが愚かじゃ 』
言ってのけておられます。
私たちの下手なそろばん勘定を
一刀両断の元に切り捨てておられるのでしょう。
両方の人生の見方、
いずれにせよ、一度は考え直してみること
はっと気が付くことがあるかもしれません。
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