いつも読んでいるお経『理趣経』
にも出てきますが、
お経ではよく「菩薩摩訶薩」という
言葉で出てきます。
ボーディサットバ(ぼさつ)
マハーサットバ(まかさつ)
ということですが、
「理趣経」では
観自在菩薩摩訶薩とか
文殊師利菩薩摩訶薩と
観自在菩薩も摩訶薩を付けて
それぞれの菩薩の名前も
丁寧に摩訶薩を付けて
仏の名を呼んでいます。
お経の最後の方では
「大薩埵」という句で出てきます
マハーが大、大きいという意味
ですから、
大薩埵も摩訶薩も同じ意味です。
「大」というと
普通には、大中小の大と
考えがちですが、
本来は比較することを止めよ
ということで、大という表現を
とるのでしょう。
『理趣経』も正式には
「大楽金剛不空真実三摩耶経」
といいます。
この時の「大楽」も
私たちの考える小さな楽を
否定するということです。
「十地経」の講義では
マハーサットバというのは、
大きいというんですが、
菩薩というのは大きい人という、
大きいという意味をよく考えて
みると、広大ということが、
大事な言葉ですね。
広く大きい、広大無辺という
ここには深いという意味もある
人間の深み、深心です
これはさとりあらわす
さとりの世界を深心という。
深心から広大が生まれる、
深いから広くなる、
広いというのは、人間を包む
という意味です。
‥
だから、
我々はただ凡夫というのではなく、
未来の仏という意味を持っている
どうせ凡夫ということじゃない。
だからあらゆる人間、
賢い人も、愚かな人間も
偉い人間も、もっといえば
さとった人間もさとらん人間も
区別はない、
こういう所に広大という意味がある
自慢して誇るというわけでもなく
わしゃだめだと卑下するという
その両方を否定するので
広大という。
「大」という字には
そういう意味があるようです。
一切衆生悉有仏性
という言葉があります。
一切の生きとし生けるものには
仏性がある、
ということですけど
具体的には
ダメな人間は一人もいない
ということであり
また、自分だけが一人偉い
というその両方を否定している
ということです。
続けて講義では
大乗というのは(小乗に対して)
威張っとるという意味ではなく
大乗、大人(だいにん)というのは
自分は偉いという
自慢しているという意味ではなく
自重しているという意味であって
こういうことが
これから大事になってくる
大人(だいにん)といって
大いなる人というのは
何よりも、下劣心を克服した
という意味です。
現代的にいえば
コンプレックスを克服した
ということになります。
つまり、
私たちのやる行ということも
つまるところ
コンプレックスの克服という
ことでしょう。
慢という煩悩も
具体的にはコンプレックス
が引き起こしてくる
と思います。
調子がいいと自信過剰になり
ちょっと失敗すると
もう駄目と腰抜けになる
ということに
なるのではないでしょうか。
修行もそうですけど
学校教育も、
根底にはコンプレックスの
克服ということがあるように
思います。
そのことをお経では
「大」という一字で表現している
のではないでしょうか。
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