本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

いのちは誰のものか!?

2017-08-08 21:37:08 | 住職の活動日記

本蔵院よりハガキ伝道の

『仏さまの種まき』

が届きました。

 

 

今月の言葉は日野原先生の

「人間の命は、決して

その人自身のものではない」

という言葉です。

 

お釈迦さまがまだ少年の頃

いとこのダイバは弓が上手で

鳥を射落とした。

その鳥をダイバが捕ろうとすると

お釈迦さまはそれは違う

といってその鳥を渡そうとしません

 

命はそれを愛する者のものであって

命を奪い傷つけようとするものの

ものではないと主張するのです。

そこで、大臣たちも集まり

国中で論争が起こります。

 

結論として、

命はそれを愛する者のものだ

ということになります。

 

いのち、漢字では命と書きます

この字も面白く

くちへんの部になります

もともとの意味は、

「おおせ」とか「つげる」

ということです

昔の人は人が生きることは

神のおおせ、命じるところ

と考えたのです

そこから、申しつけるという

意味が最初で

運命とかめぐりあわせ

ひとのいのち

という意味に発展したようです

 

なぜ「いのち」というのでしょう

昔の人は偉いものです!

「はたらきさま」

という表現もとっています

命という

実体的なものがあるのではなく

命という

ハタラキそのものがあるのだと

それで、

お米とか食べ物のことを

ハタラキさまといったのです

いのちを頂くから

命がつながっていく

そのつながっていく姿そのものが

ハタラキさまなのです

 

「息を吹き込む」

という言葉もあります

いのちの「い」ということは

息の「い」とも

いわれているようです

吐く息吸う息そのハタラキが

命のもとと考えたのでしょうか

ですから、

息を吹き込むということは

命を吹き込むということに

通じるようです

 

身近にいる虫や草花

生きている

見ていると命そのものです

というより

ハタラキそのものです

しばらく留守して

水を与えなかったら枯れてしまう

虫たちもお腹いっぱい食べることが

あるのでしょうか

食べ物が無くなれば

命は自然にそのハタラキを

止めてしまいます

 

あらゆる条件のもとに

いのちという

ハタラキが成り立っている

その条件が揃わなければ

ハタラキは止まってしまいます

 

という限られた条件のものとに

私たちのいのちは成り立っている

ともいえます

であればこそ

精一杯の、条件がある限り

ハタラキを最大限に

力を尽くさなければと思います

 

日野原先生も

「賜った命を、

愛する人、親や子、友人、

さらに社会の多くの人々に

役立てていき

その人の心の中に和が命が

溶け込んでいくことが

究極の目的」

と仰っておられます。

 

当たり前に日暮ししている毎日

お盆とかお彼岸とか

そういう日々は

命とはなにか、だれのものか

ということを考える

いい機会になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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