自利・利他ということも
自益・益他(じやくやくた)
自利利人とも、
自行化他(じぎょうけた)
というように色々の
表現があります
最近では京セラの稲盛さんが
やはり「利他」ということを
事業の根幹にしておられる
ようです。
「十地経」では
初めから三地までが自利
第四番目を利他
それから利他を更に
広く開いたのが五から十まで
ということになります
ですからほぼ利他について
語られているのです。
「利他の方に
非常に力を入れてある
ええ、利他がね。
これはまあ、ここらが非常に
面白い。
これは利他ということが
非常に力を入れている。
これは自利は自分だし、
他は他人と、こう考えると
なんか面白くないですね。
そうえはなしに、
他の衆生を利する。
利益するという意味で
あるけど、
他の衆生の中にやっぱり
自分もおるわね。ええ。
他の衆生を自分の外に
見んでも
他の衆生という中に
自分を置いてみたらいい。
つまり自利利他ということも
色々考え方がね。
それはこっちの
読む者の反省ですわね。
この、他ということに非常に
自利よりも利他という方に
非常に力を入れている。
これが一つの
大乗仏教の面目なんです。
いってみれば
小乗仏教というものと
どこが違うかというと、
小乗仏教は自利だけだ。
大乗仏教というもので
利他というものが出ている。
つまりここでは
自分のことを忘れて
人の世話をするというような
意味じゃないんであって、
人類的というような
意味がある。
人類的という、
超個人的という意味がある。
宗教心が超個人的な広さまで
深められている。
人類と悩みを共にし、
人類と流転を共にする
というようなですね。
オープンね。
大乗、大というのは、
広大という意味で、
開かれたる精神。
宗教の中でまだ閉ざされた
精神もある。」
というように
述べておられます。
利他ということも
伝教大師最澄は
「己を忘れ他を利するは
慈悲の極みなり」
と仰っておられますが
それが自分の実践となると
どうなるのでしょうか
安田先生は
「人類と悩みを共にし
人類と流転を共にする」
と言われています
自分自身も
他の中に入っている
傍観者ではない
いずれにしろ
「オープン」という
開かれた精神と
難しいようですが
分かるような気もします
個の中に閉じ込めない
何でも閉ざしてしまう
という心が自分にもある
そういうところには
利他ということは
出てこないのでしょう。
安田先生はよく
「オープン」ということを
いわれています
個を破るものとして
こういう言葉が
何となく分かるような
気もします。
面白い展開です。
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