「力」という字も
お経にはよく出てきます。
いつも唱えるお経では
『三力偈』(さんりきげ)
という一文があり、
「以我功徳力」(いがくどくりき)
「如来加持力」(にょらいかじりき)
「及以法界力」(ぎゅういほうかいりき)
という三つの力です。
「菩提心が力の源泉
力があって歩くのでない
歩くから力が出てくる」
ということも
普通には力があるから歩けると
考えがちですが、
事実というか、
実際は歩みがあるからこそ
力が湧いてくるのです。
以我功徳力、ということも
まずは自分の努力の力
ということです。
その時に
「無相」(むそう)ということが
書いてあります。
無相に対しては
有相ということがいえます。
どんなに努力しても、
親切でいいことをしても、
そのいいことをしたという
意識があっては駄目だというのです。
それでは心が濁ってくるし、
いいことをしたと得意になる
そのことを有相といいます。
その得意になるということが
小さい人間にしてしまうのです。
無相ということは
その努力したというかけらもない
それで、無功用(むくゆう)という
表現もあります。
努力無功用行と、
そこが、以我功徳力
ということなのでしょう。
いいことをしたという思いがあっては
功徳にならない。
「力」らということも、
今では、権力、金力とかが
もっぱらですが、
また、力といば
最近ではパワハラという暴力
といこともあります。
それも力の一つに違いありませんが
なにか、
修行するということも
総力戦というか、力全体
これだけ努力すればいい
というのではなく、
頭だけ使えばいいとか
体だけ使えばいいというのでなしに
物事を活かしていくということは
ありとあらゆる力のあつまり
これが「及以法界力」ということかも
しれませんが、
歩み始めれば、自然と
力が集まってくれるものです
誰とはなしに協力してくれる。
一歩あゆめば
歩んだことで力が出てくる
それでまた次の一歩が出てくる
書いてしまえば、
なんだか観念論のようですが
実際やってみると
頷ける世界なのです。
こういうことが生活力だと
思うのですが、
「以我功徳力」の功徳
ということも、
ただあるのではなく
努力によって勝ち取ったもの
努力に与えられるもの
努力が見出すものなのです。
何もしなくて偉い偉い、
といったところで、
なにも力はつきやしません、
生活の実践を通して
勝ち取るものなのです。
求道心という菩提心が
我々を奮い立たせて
歩むのです。
だからこそそこから
力が出てくるのです。
力も出てくるものであって
外から持ってくるものでは
ありません。
本来私たちに備わっている
ものなのです。
それを努力によって見出していく
そのことが修行であり
その修行が自分自身を
荘厳していくのでしょう。
頭だけでもダメ体だけでもダメ
総力戦で修行していく
日々一歩一歩です!!!
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