磨くということ
お寺では仏具磨きといって
真鍮製の仏具を磨く
とても面倒なんですが
やはり、本堂の仏具が
ピカピカに磨き上げられて
いるのは
気持ちのいいものです。
講義の中でよく登場する
スピノザという人
哲学者といわれていますが
手にはレンズを磨くという
職をもっていたそうです。
この方、今ちょっとした
ブームになっているそうで
難しい本ですが
この本を読み通すという
人が増えているそうです。
17世紀の人ですが
後の哲学者に
大きな影響を与えたことでも
よく知られています。
ただ私にとっては
単純なことなんですが、
磨くという
レンズを磨いて職を得て
あえて哲学者に甘んじる
ことなく、職人という
ところに惹かれたのです。
この時代は哲学をやる人は
結構、レンズを磨くという
ことをやっていたそうです。
勝手に思うのですが
やはり磨くということは
何か集中できる
思索の時間がもてるのでは
ないかと思います。
十地経の初歓喜地は
歓喜したと、
何に歓喜したのか
それは自分の煩悩の在りか
が見えた
ということでしょう。
それまでの自分は
迷っているのやら
ましてや悟っているのやら
何もわからない混沌とした
中にいたのでしょう。
そんな中にあって
初めて自分の煩悩が見えた
それが大きな歓びだった
後は
その煩悩を対治していけば
いいだけ
その道筋が見えた
というのが初歓喜地です。
それから修行が始まる
そして、第七地遠行地まで
くると、一番大きな難関に
出くわす。
そして七地沈空という
空に沈んでしまうという
一番の難関です。
それまでの修行は
有功用行(うくゆうぎょう)
といって、
努力の限りを尽くす、
功用(くゆう)というのは
努力というようなものです
それが、
第八地不動地になると
もう努力のいらない世界
無功用行(むくゆうぎょう)
になってきます。
よく自然(じねん)という
ことをいいます。
努力が身につくというか
努力している意識すらない
もうすべてが自然に
努力しているという
ですから、
初歓喜地から第六地までと
その中間点が第七地
八地以降は仏の世界
第十法雲地は
終わりではなく
無限に努力するという
よくこういうことを
言います。
迷いは始めがなく
終わりがある
さとりは初めがあって
終わりがない
人間が何時迷い出したか
それは分からない
人類がこの世に出て以来
迷い続けている
そこに終止符を打ているの
が初歓喜地です。
そして法雲地が
そこからは終わりのない
修行が始まっていく
何か簡単ですが
こういうことが十地経の
構造のようです。
練磨、
ということがあります。
鍛錬するように
自分を磨いていく。
煩悩を磨いて磨いて
練磨して本当の自分を
磨きだしていく
十地経の実践ということが
自分を練磨していく道程の
ように思えたのです。
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