ギリシア人というのは
厳密というのか思考力があるのか
時間というものを二つ考えました。
一つはカイロスもう一つはクロノス
クロノスというのは
何とか分かるような、
セイコーの時計に
クロノスというのがあります。
辞書には、クロノスというのは
過去から未来へ一定速度、一定方向で
機械的に流れる連続した時間、
とあります。
普通いう時間です。
過去から現在そして未来へと
過ぎて行く時間です。
それに対して、
カイロスというのは
一瞬や人生の主観的時間を表す。
内面的時間とあります。
言い換えれば
クロノスは通俗的時間
カイロスは実存的時間
ということになると思います。
「時」ということは
哲学でも宗教でも大切な問題です。
さとりを開いたというのも
いつどこでということが大切です
ただ漠然と、ということはありません
この日この時、という
時間ということが大事になります。
人と人との出遇いも
時ということが大切です。
ただ偶然に出会ったことも
そのことを
必然と受け止めるということは
時ということです。
時が満ちるというか
出遇いもただ、
こんにちわ、さようなら、と
終わる出遇いもあります。
この人と出会ったことが
自分の人生を変えたという
出遇いもあります。
そいう出遇いが
やはりそれは時が満ちたのです
時熟という
時が熟したということが
あります。
そういう時というものは
カイロスという時間でしょう。
出会ってもなんの縁も感じないで
別れていくような出会い
そいう時というものが
クロノスという時間です。
たとえば
仏教の歴史を考えるとき
お釈迦さまがさとりを開いて
涅槃に入られて80年後
根本分裂が起こり
大乗仏教と小乗仏教に別れていく
そして小乗仏教はタイとかセイロン
へ伝わっていく南方仏教
大乗仏教は中国から日本へと
伝わってきた、
という時間的流れがクロノス
通俗的時間です。
ところが、
教えということを自分の問題として
受け止めて実践していくと
その時間の流れは逆転し
釈迦を生み出したような仏教が
大乗仏教なのだと
そういう考え方、というか
実践したらそう言わざるを得ない
ということが出てきます。
そういう時間がカイロス
実存的時間でしょう。
時間というものは
心によって作られるもの
ということが言えます
楽しい時間は
あっという間に過ぎて行き
辛い仕事となると
なかなか時間が過ぎて行かない
とても長く感じるものです。
時間は同じように流れていくのに
短くも長くも感じるのは
私たちの受け止め方です。
そこにクロノスとカイロスという
二つの時間があると思います。
未来ということも
仏教では「当来」(とうらい)
といいます
当に来たるべき
という時間です。
未来という時間は
ぼうっとしてても頑張っていても
過ぎ去っていくものです。
しかし、
当来となるとそうではなく
現在の中に未来が約束されている
という時間です
現在の中に未来が約束されている
というか、内包、孕んでいる
という時間です。
将来は必ずこうするんだ
という時の時間は
現在が荘厳されてくるというか
現在の在り方が違ってくるのです
将来はこうするといって
今をおろそかにしている人には
自分の望む未来はやってこないのです
将来をこうするということを
願う人は必ず
今現在の行いが改められている
そこに「当来」という
当に来たるべき、という
未来を孕んでいるという
現在の時間
というものがあると思います。
極論すれば
過去現在未来は同時である
という考え方も出てきます。
現在という時間は
過去にやって来たことの集大成
そして
今やっているということは
未来の自分を作っている時間
ということが言えると思います。
出遇いということも
偶然の賜です
しかし、それは必然であった
というところに
実存的時間というものになると
思うのです。
出遇いという何げなく
行なっているあたりまえのことも
その出遇いが必然であったと
受けとめるところに
豊かな人生が開けてくるのでは
と思うのです。
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