「これはゲーテの
『マイステル』という
本があるですが、
マイステルというのは
親分という意味です。
学問の親分もあるけど、
大工の親分でも何でもいい。
一人前という意味です。
マイスターは教育の目標だ。
だからこういうものは
知識を積んだって
出来るものじゃない。
積んだってできんのだけど
積まなきゃなおできん。
何かそこに、
どういったからいいかね、
各人各人の個性というか、
アイゲントリッヒカイト
(eigentlichkeit)
自分の本来の面目
というものを見出して
こんならん。
それは誰からも学べん
ものだ。
独自のものだ。
そういうものが見つからんと
マイスターになれん。」
一人前という
これは東井義雄先生の
こういう一文があります
「自分は自分の主人公
世界でただひとりの
自分を創っていく責任者」
この自分は自分の責任者
ということがマイスター
ということでしょう
なかなか、
自分は自分の責任者
といっても
なれないものです
お経の中にも
「一切顛倒」という言葉が
出てきます
般若心経でもそうです
この一切顛倒ということが
分からない
自分はさかさまではない
と思っているのです
逆立ちしているとは
思えない
以前、
師匠に
「ちょっと間違ってました」
といったら
「ちょっとどころではない
頭から指の先まで
全部間違っている」
といわれました。
といわれても
そこまではないだろうと
一人前ということも
今までの自分が
すべて逆さまであったと
気がつくことだとも
いえます
本来は
一切は間違っていたと
自覚できたことが
一人前になった
ということではないかと
思うのです。
「そういうものを
見出した場合が実は
果なんです。
そのために今度は
いろいろやってきたことの
意味が初めて分かるんです。
このためであったかと。
だからして、
やはり因から成就したものを
果ともいうけど、
また因を成就するものを
果というんです。
もし果がないなら
因は無駄になってしまう。
因から成就したものを
果ともいうけど、
また因を成するものを
果という。」
という言葉が続きます。
各人各人の個性という
自分本来の面目
というものを各人が
もっている
本来の自分ということを
先生は「因」と
言っておられるのでしょう
今まで失敗だらけの自分
というものに頭が下がる
そうであったかと
そういう自分に出会うことが
本来の自分の面目を
見出してくるのでは
ないでしょうか。
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