本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

物と心

2022-04-21 19:07:02 | 十地経

「こころの時代」とも

「物より心」ということが

いわれますが

物心両面ということも

いわれます

 

講義では

「物質を否定した

やせた精神ではない」

という言葉も出てきます

物と心、

こころ、心といわれるのは

それほど物質欲が

強いのでしょう

中身がないと

ついつい外目の物で

見栄を張ったりと

ブランドンものとかが

幅を利かせてきます

そういうこともあって

ものじゃない、心なのだと

ということが

言われるのでしょう。

 

講義で

「これは財や身は功徳と

いうものによって

かちとられるものだ。

(財及び身勝因事と)

智慧によってかちとる

ものじゃない。

大功徳というものによって

かちとられるものが

財や身というものです。

遊んどって降ってくる

ものじゃない。

 

けど

それは智慧じゃないでしょう

だけど智慧を助けるものだと

道を助けるものだ。

道を助ける法なんです。

つまり

大功徳というものは

物質的なものだ。

 

財にしても身にしても。

物質的なものは

ただ物質的な快楽のために

求めとるのじゃない。

無上仏道のために

それを求めとるんだと、

こういうわけです

 

無上仏道のために

物質的なものを捨てないと。

物質も無上仏道に

転ずるんだ。

無上仏道の内面的意義に

転ずるんだと。

内面的豊かさに転ずるんだと

物質性というものを。

 

物質を否定したやせた精神

ではない。

物質をもなお精神化

してしまう。

こういう意味で

助道の法なんです。

こういうようなところが

菩薩道というもんじゃないか

 

だから功徳を集める

といっても、

ただけちけち金貯めとる

という意味でもないんです。

資本投資のためでも

ないしね。

物質といっても

個人の享楽を満足するために

物質を求めとるんじゃないし

そうかといって

資本というものを

再生産するために物質を

求めとるんじゃない。

これは個人的感性的努力

じゃないんであって、

かえって超感性的な動機から

物質が求められとる。」

 

私たちが物を求めると

それに執着してしまい

物がすべてだと

物によって人を価値判断

してしまいます

かといって

物を粗末にするのでなく

物の中に

心を見出していく

ということでしょう。

 

滴水和尚と呼ばれた

方がおられました

一滴の水にも命を見る

「水が死ぬぞ!」

という言葉が有名です

弟子が雑巾バケツの水を

捨てようとしたときの

喝、だったのです

「植木にやれ木が喜ぶぞ」

ということがあります

 

しかし、

ここで先生の言われている

ことは

もっと大きな

やせた精神ではないという

内面的豊かさに転じていく

そういうものなのでしょう

 

けど、

物を単なるものとして

使い捨てしまうのではなく

物にも命を見る

そういうところに

今でいう「SDGs」に

通じるものがあるようにも

思います。

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 存在への勇気・運命愛 | トップ | 新緑の京都御苑 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事