本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

貪・瞋・痴 (とん・じん・ち)

2016-05-03 18:26:38 | 十地経

煩悩とは謂く、

貪と瞋と痴と慢と疑と悪見となり。

と、お経には出てきます。

この中でも、

「貪・瞋・痴」は非常に有力で

起こりやすく、人間を傷つけ、

これほど人間を痛めつける

ものはないということで、

「三毒」ともいわれています。

 

こういう煩悩が何時から

人間に起こったのか?

お経にはこういう表現で出てきます。

「無始已来」と書いて、

『無始よりこのかた』と読みます。

人間が生まれる以前から

すでにあったと、

昔はお経に限らず、古典では

よくこういったものです。

 

孫たちが一つのおもちゃを

取り合ってケンカの真っ最中、

最初は「ジュンバン・バン」とか言って

仲良く遊んでいたのに

自分のものと、取り上げたことから

ケンカが始まったようです。

 

自分のもの、という心も

やはり、「貪」といってむさぼりです。

この貪という心も、

お経に、

「謂く、愛の力に由って

取蘊生ずるが故に。」

とありますが、

今のニュアンスで解釈すると

わかりません。

仏教でいう「愛」とは貪愛ともいわれ

貪という心の最初のかたち

それがほしいな!あったらいいな!

と、軽く思う心です。

 

子どもたちがおもちゃを

「じゅんばん・ばん」とかいって

お互いに欲しいな~と

思っている段階です。

その欲しいという心が

固まってくると、「取」という

そのおもちゃがなければいけない

と、心が固まってくるのです。

 

心が固まってくると

どうしても手に入れようと、

大人の場合は手段を弄し、

子供の場合は力ずくでと

ケンカになってしまいます。

このことを「有」といいます。

 

だから、むさぼりという心も

「愛」から始まって「取」となり

「有」と発展していくのです。

 

人間に付いている煩悩は

いつ始まったか?

それは無始よりこのかた

私たちが意識する以前から

あったのです。

だから、こういう事が言えるのでは

「煩悩は始めがなくて

終りがある」

煩悩を力ずくで叩き潰す

ということではなく、

その構造を知ることによって

煩悩は姿を消す。

反対に、

「さとりは始めがあって

終りがない」

ということが言えるのです。

修行ということも

さとるためにするとも言えますが

さとってから修行が始まる

ともいえると思います。

お経の中に、

「尽未来際」という言葉が出てきます。

未来際を尽くすまで、

 

十地経の中にも

「仏地」とは、

普通でいえば初地から始まって

最終が仏地、もう先がない

ということでしょうけれども、

そうではなくて、

無窮極という言葉もあって

もう終わりのない世界、

永遠に修行する、

未来際を尽くすまで修行する

そういうところが見つかった

というのが仏地でしょう。

 

考えれば考えるほど、

貪欲というかそれに対する

執着は深いものです。

「ワシの目の黒いうちは

絶対に譲らんぞ!!」と

よく聞く言葉ですが、

それほど位に対する執着は

深いものでしょう。

 

怒りはまだ浅いのです。

この執着がより深いもので

人間の心を暗くするものです。

怒りは火に譬えられ

むさぼりは水に喩えられます。

瞋という怒りの煩悩は

激しいけどまだ短い、

むさぼりの方は水のように

静かに浸透していき

幅も広く長く尾を引くものです。

 

「つくべき縁あればともない、

はなるべき縁あれば離れる」

と、その事実の分析と認識のみが

煩悩対治ということの肝心要です。

 

孫のケンカといい

煩悩と煩悩のぶつかり合い

早やもう煩悩の塊が

だんだんと成長しているのです。

 

見ていて、

ふとそんなことを考えていました。

 

 

 

 

 

 

 

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