本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自分の作ったものが自分を感動させる

2022-03-15 19:46:01 | 十地経

早速ですが、講義で、

 

「左甚五郎がね、

美人の彫刻を作って

ずうっと見ている絵がある。

感心している絵が。

人形作りね。

あの絵は、

つまり自分の作った

人形の方が生きているんだ。

自分の作った人形に

驚かされているんだ。

 

つまり作られたものが

作ってくるんだ。

私の作ったもんだと

いうようなことを

いっている間は、

まだその作品は完全でない。

 

自分の作ったものが、

自分から独立して、

逆に自分というものを

感動させるんです。

そうでしょう。

そういう時、その作品は、

これは初めて創作になる。

作者から独立するんだ。

 

逆に作者を生んでくる。

そういうようなところに

荘厳ショウゴンとかね、

そういう意味がある。

もっとも純なるものが象徴。

製作というものの

真髄を表した言葉が

荘厳というものじゃないか」

 

あるとき、

三浦先生が自分の話した

テープを聞いておられ

うん、うん、

と頷いておられるのです

何も自分の話が素晴らしい

と、自画自賛しておられる

のではなく、

自分の言葉を客観的に

聞き直しておられるのです

 

誰でもそうでしょうが

自分の言葉を一番最初に

聞いているのは自分の耳です

自分の発した言葉を

一番に聞いている。

 

安田先生も

ある対談集が出ました

そのとき、

「対談という形を

とっているがほとんど私が

話したのです」

と仰ってました。

これは講義の中でよく

「ええ」とか「うん」という

言葉が入ります

これは自分の言葉に

自分で納得し頷かれ

その自分で驚いた言葉が

また

次の言葉を生み出してくる

そういうもので

対談という形をとるが

自分が自分との対話している

というものでしょう。

 

対話、対談といっても

自分の主義主張を戦わせる

のではなく

講義の第一巻の初めに

「見て敬い聞いて忘れず」

という言葉が出てきます。

この、敬い聞くということが

大事で、

ここに敬い聞くところに

本当の言葉を聞くという

そこに自分との対話が始る

それが聞法ということでは

ないかと思うのです。

 

左甚五郎でも

わしのは立派やろうと

自慢して眺めているのでは

ないのです

自分の作ったものに

自分が驚いている

 

仏師の方でもそうでしょう

木の中から仏を彫りだし

出てきた仏に

自分自身が驚かされる

思わず手を合わしてしまう

そういう

自分が作ったものであるけど

それは自分自身を超えている

作品はもはや

自分のものではなく

自分が敬うような存在に

なってくる。

そういうことなのでしょう。

 

話し外れますが

相談にお見えになった

お年を召した方が

同じ話を繰り返される

のですが

その話は聞きました

というのではなく

敬い聞いていると

その方も話が展開して

ご自身でも驚かれるような

言葉がとびだしてくる

ということがあります。

 

ここでも講義で

「象徴」「荘厳」という

ことが出てきますが

色々な角度から

この言葉を説明されています

何となく分かるような

はっきりとは分からない

そのようなことなのです。

 

 

 

 

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