本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「 蜜の味 」

2013-10-20 12:05:51 | 住職の活動日記

 お釈迦さまの説法はとてもたくさんの比喩で

彩られています。

 そのものをそのまま語るのではなく、

いろいろなたとえ話で語られています。

 

 私たちの持っている 「 煩悩 」 ということも

さまざまな表現で話されています。

 

 「 剣についている蜜 」

も、その一つではないでしょうか。 

 剣を伝って滴り落ちてくる蜜、

剣についている蜜をなめようとすると、

一歩間違えば、舐めている舌を切ってしまいます。

でも、蜜の味がおいしいものですから

やめるわけにはいきません。

 危険を承知でその蜜の味を求めている、

それが私たちの姿である。

 

また、「 鉄のさび 」 のたとえでは

 鉄のさびは鉄から出て

  鉄自身を喰うように

 悪は人から出て人を喰う

というように私たちの煩悩を表されています。

 

 なにも、煩悩は外から来るものではなく

私たち自身が身につけて持っているものなのです。

ですから、私たちの修行ということも

お経のなかでは 「 対治 」  という言葉で出てきます。

「 煩悩障対治 」 ( ぼんのうしょうたいじ ) というように、

「 鬼退治 」 の退治とは意味が違います。

本当の行いでもって煩悩を断じていく、

という意味でつかわれます。 

 

 アダムとイブがリンゴを食べてパラダイスから

追放された、という話があります。

 単純には、神の禁じたリンゴを食べてしまった、

その罪で楽園を追放された、

ということですが、

ルター、というかたでしたか、

リンゴ食べたこと自体は罪ではない、

リンゴを食べてはいけない、という分別

それが罪なのだ、

といわれています。

 アダムもイブも食べてはいけないということを知らなかったら

なんぼ食べても罪にはならなかったのでしょう。

 

 私たちも煩悩があって困ります、とよくいいますが

なにもなく普段に生活している段には

煩悩はないのです。

 何か目的を持った時、何気なくしていたことが

障りとなって、煩悩となってくるのです。

 そのことを我慢してやめないと、

目的が達せられないとなったとき、

そのことが煩悩となって私たちを苦しめてくるのです。

 そのことがいけないと知った時、

それが分別ということですけど、

その分別によって罪というものを感じいぇくるのです。

 

 あいつは悪い奴だと、よく憎みたがるのですが、

どういうわけか、その悪い奴は苦しんでいないのです。

「 悪い奴だと ! 」 と言っている

こっちのほうが苦しまないといけない。

 あいつは悪い奴だといっている、

こちらの分別が、その分別が

かえって私たちを苦しめている、

ということがあると思います。

 

 話は飛びますが、

最近、小泉元首相が 「 原発反対 」 ということを

講演のたびに発言しておられるようです。

剣に滴り落ちる蜜です。

便利で繁栄をもたらすものかもしれませんが、

そこには人間をダメにしてしまうものを

秘めているのです。

 将来を見据えたとき、

今の繁栄か、恒久的な人類の安全か

決断する時が迫っているようにも思います。

 

 

 

 

コメント
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