お釈迦さまの説法はとてもたくさんの比喩で
彩られています。
そのものをそのまま語るのではなく、
いろいろなたとえ話で語られています。
私たちの持っている 「 煩悩 」 ということも
さまざまな表現で話されています。
「 剣についている蜜 」
も、その一つではないでしょうか。
剣を伝って滴り落ちてくる蜜、
剣についている蜜をなめようとすると、
一歩間違えば、舐めている舌を切ってしまいます。
でも、蜜の味がおいしいものですから
やめるわけにはいきません。
危険を承知でその蜜の味を求めている、
それが私たちの姿である。
また、「 鉄のさび 」 のたとえでは
鉄のさびは鉄から出て
鉄自身を喰うように
悪は人から出て人を喰う
というように私たちの煩悩を表されています。
なにも、煩悩は外から来るものではなく
私たち自身が身につけて持っているものなのです。
ですから、私たちの修行ということも
お経のなかでは 「 対治 」 という言葉で出てきます。
「 煩悩障対治 」 ( ぼんのうしょうたいじ ) というように、
「 鬼退治 」 の退治とは意味が違います。
本当の行いでもって煩悩を断じていく、
という意味でつかわれます。
アダムとイブがリンゴを食べてパラダイスから
追放された、という話があります。
単純には、神の禁じたリンゴを食べてしまった、
その罪で楽園を追放された、
ということですが、
ルター、というかたでしたか、
リンゴ食べたこと自体は罪ではない、
リンゴを食べてはいけない、という分別
それが罪なのだ、
といわれています。
アダムもイブも食べてはいけないということを知らなかったら
なんぼ食べても罪にはならなかったのでしょう。
私たちも煩悩があって困ります、とよくいいますが
なにもなく普段に生活している段には
煩悩はないのです。
何か目的を持った時、何気なくしていたことが
障りとなって、煩悩となってくるのです。
そのことを我慢してやめないと、
目的が達せられないとなったとき、
そのことが煩悩となって私たちを苦しめてくるのです。
そのことがいけないと知った時、
それが分別ということですけど、
その分別によって罪というものを感じいぇくるのです。
あいつは悪い奴だと、よく憎みたがるのですが、
どういうわけか、その悪い奴は苦しんでいないのです。
「 悪い奴だと ! 」 と言っている
こっちのほうが苦しまないといけない。
あいつは悪い奴だといっている、
こちらの分別が、その分別が
かえって私たちを苦しめている、
ということがあると思います。
話は飛びますが、
最近、小泉元首相が 「 原発反対 」 ということを
講演のたびに発言しておられるようです。
剣に滴り落ちる蜜です。
便利で繁栄をもたらすものかもしれませんが、
そこには人間をダメにしてしまうものを
秘めているのです。
将来を見据えたとき、
今の繁栄か、恒久的な人類の安全か
決断する時が迫っているようにも思います。