『仏にはなれないが 仏になろう』
今週の言葉は先日聞法会で虎頭先生よりお聞きした、
この言葉にしました。
不思議な言葉です。仏にはなれない、しかし 仏になろう、というのです。
矛盾した言葉でもあります。
本当の事は、矛盾してることが同時に成り立つ。そういうことではないでしょうか。
事実は理論立ててその通りにあるのではないのです。
「絶対矛盾の自己同一」ということを言われた哲学者もおられました。
仏教でも、
十善戒ということが、先ず最初に出てきます。
その第一が『不殺生戒』です。生き物の命を取ってはならない。
人間が生きるということは、他の命の犠牲のうえに成り立っています。
他の命を頂けなければ生きていけない、食べなかったら
自分が死ぬ、自分を殺生することになる。
食べれば他を殺生、食べなければ自分を殺生
だから仏教的には生きるということは
大きな矛盾の上に成り立っているのです。
仏にはなれない、ふつうは『どうせ』がつくのです。
どうせ仏になれないのだから、…
べつに、そう無理しなくても
仏になれないが
仏になろう という方向性これが大事です。
仏のほうを向いた方向づけられた人を『菩薩』(ぼさつ)といいます。
仏になろう、という方向が大事ではないでしょうか。
今週の言葉は先日聞法会で虎頭先生よりお聞きした、
この言葉にしました。
不思議な言葉です。仏にはなれない、しかし 仏になろう、というのです。
矛盾した言葉でもあります。
本当の事は、矛盾してることが同時に成り立つ。そういうことではないでしょうか。
事実は理論立ててその通りにあるのではないのです。
「絶対矛盾の自己同一」ということを言われた哲学者もおられました。
仏教でも、
十善戒ということが、先ず最初に出てきます。
その第一が『不殺生戒』です。生き物の命を取ってはならない。
人間が生きるということは、他の命の犠牲のうえに成り立っています。
他の命を頂けなければ生きていけない、食べなかったら
自分が死ぬ、自分を殺生することになる。
食べれば他を殺生、食べなければ自分を殺生
だから仏教的には生きるということは
大きな矛盾の上に成り立っているのです。
仏にはなれない、ふつうは『どうせ』がつくのです。
どうせ仏になれないのだから、…
べつに、そう無理しなくても
仏になれないが
仏になろう という方向性これが大事です。
仏のほうを向いた方向づけられた人を『菩薩』(ぼさつ)といいます。
仏になろう、という方向が大事ではないでしょうか。