大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~

2011年10月12日 17時56分56秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
権現道は旧行徳街道と内匠堤と呼ばれる道に挟まれるように細い道がクネクネと続く歴史道です。とはいっても現在ある権現道は道幅は狭いものの、両側には住宅が軒を連ね、かつてその昔には江戸湾の波が押し寄せる海岸に沿った道であった面影はまったく残っていません。

権現道入口

権現道を歩いてみると、この道に沿って立つ寺のほとんどが権現道に面して山門を構えていることに気がつきます。権現道が先に敷かれたのか、はたまた寺院にそって権現道が敷かれたのかは定かではありませんが、行徳の寺社巡りのルートとしては権現道を歩くことで、この地域に点在する寺院のほとんどを踏破することができるのです。

権現道

権現道の入口から数えて3つ目のお寺「妙覚寺」に伺いました。日蓮宗中山法華経寺の末寺で天正十四年(1586)に創建された古刹です。山門脇の由緒書きにたいへん興味あることが書かれていました。実は当寺の境内に東日本ではたいへん珍しい「キリシタン燈籠」なるものがあるというのです。

妙覚寺山門
妙覚寺本堂

山門を抜けてすぐ右手にその燈籠は何の囲いもなく喫煙場所の一角に立っていました。一見するとその外観はごく普通の形に思えるのですが、燈籠の基壇となる部分の下のほうに長方形の窪みがあり、その窪みの中になにやら人をかたどった様な浮き彫りを見ることができます。人のような浮き彫りが実は靴を履いたバテレン(神父)の姿だというのです。

キリシタン燈籠
バテレンの姿

現在見るキリシタン燈籠はそのほとんどが地上に姿を現していますが、キリシタン禁制の時代には前述のバテレンの姿の部分は地中に隠れていたといいます。

ただ不思議に思うのはこの燈籠がいつの時代に作られ、いつこの妙覚寺に置かれたのかなのです。妙覚寺の創建は天正14年(1586)で家康公の江戸初入府の4年前です。そんな頃の行徳は幕府天領であったころとは違い、江戸湾の波が打ち寄せる寒村ではなかったのではないでしょうか。
塩産業が盛んになるのは家康公の入府以降のことで、開幕前の行徳の人口はそれほど多くはなかったはずです。そんな環境の中で開幕前にこのキリシタン燈籠が妙覚寺にあったとは考えにくいのです。ということは1613年の禁教令以降に行徳が塩産業で急速に発展し始めた頃に、外部から流れ込んできた人たちの中に隠れキリシタンがいたと考えたほうが自然のような気がします。こんな想像をめぐらしながら石燈籠の脇の石造りの腰掛にかけてしばし時を過ごしました。

円頓寺山門

妙覚寺からわずか40mほどで日蓮宗中山法華経寺の末寺「円頓寺」の山門が現れます。開基は天正12年(1584)と古いのですが、本堂はかなり新しいものです。当寺の歴史的建造物は唯一山門のみです。ただご本堂に掲げられた「海近山」の山号額の文字は江戸幕末の三筆と言われた「市河米庵」の筆とのことです。山号の海近山から確かに行徳は江戸湾の波が打ち寄せる海岸沿いにあったことが伺われます。文字を見ると「毎」の下に「水」と書いて「海」と読ませるのですね!

円頓寺本堂
円頓寺山号額

権現道はまだまだ続きます。ほぼ権現道の半分ほどのところにあるのが「浄閑寺」です。東京三ノ輪駅近くにある「生きて苦界、死して浄閑寺」と言われ、吉原の妓郎たちが投げ込まれた寺と同名ですが、ここ行徳の浄閑寺の創建は江戸初期の寛永3年(1626)で、なんと芝増上寺の末寺です。

浄閑寺参道

最盛時はかなり規模の大きなお寺だったそうで、かつて寺に流れていた内匠堀から直接船が入れる池まであったようですが、現在はその面影はのこっていません。ただ権現道沿いのお寺の中で唯一、旧行徳街道から参道で繋がっているお寺なのだそうです。
山門脇には明暦の大火(明暦3年/1657)の供養のために建立された「南無阿弥陀仏」と六面に刻み、その下にそれぞれ「地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道」と六道を彫った、高さ2メートルほどの名号石・六面塔が立っています。塔の一面に明暦の文字が刻まれていました。そしてその傍らに風雨にさらされ風化が激しい半肉彫りの六地蔵が並んでいます。

六面塔
六面塔の明暦の文字
六地蔵
浄閑寺本堂

権現道の処々に古くから多くの人たちに崇められていた稲荷社が置かれています。名もない稲荷なのでしょうか、祠の瓦屋根は朽ちかけ、鳥居もなく、小さな狐の置物が祠を守っていました。

路傍の稲荷社

いよいよ権現道も終盤を迎えます。一番最後に山門を構えるのが真言密教の徳蔵寺です。開基は今から435年前の天正3年(1575)という古刹です。立派な山門を構え、山門をくぐって左手に不動明王を祀るお堂が置かれています。お堂の前にはおそらく行徳河岸(旧江戸川)に置かれていたであろう常夜灯がお堂を飾っています。常夜灯の台座には行徳が繁栄していた頃の土地の名士や大店の屋号、妓楼の屋号などが刻まれています。

徳蔵寺山門
徳蔵寺本堂
不動明王堂
常夜灯

寺院詣でのついでにもう一つ興味深い石碑を見つけました。「おかね塚」と呼ばれているものなのですが、実はこの「おかね」は人の名前であって、金銭を意味するものではなかったのです。
そしてこの塚は悲しい物語の主人公である「おかね」の供養碑だったのです。

おかね女の供養碑

その悲しい物語は、吉原の遊女であった「おかね」が行徳の船頭に恋をし、ここ行徳で待ち続け、ついにはその恋が成就せず「おかね」は亡くなってしまった、という悲恋の内容なのです。

内容をご紹介すると、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという、悲しいお話です。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~




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