いよいよ私たちの東海道の旅はファイナルステージを迎えます。
3年前にお江戸日本橋を出立してから、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江と辿り、その間に52宿の宿場町を訪ねてきました。そして旅は最終回を迎え、いよいよ53番目の宿場町である大津宿を経て、東海道中の終着点(西の起点)である京都三条大橋に到着いたします。
この3年間、季節を問わず双六の駒を一つ一つ進めるように東海道を進んできました。雨の日もありました。雪が舞う中を歩いたことがありました。そしていくつもの川を渡り、街道沿いに現れる宿場町の佇まいを眺め、街道を彩る土地々の風景を楽しんだことが走馬灯のように頭に巡ります。そんな懐かしい想いを胸に最後の行程を楽しく進んでまいりしょう。そして京都三条大橋での感動のフィナーレを迎えたいと思います。
※本日の歩行距離19.1㎞には東海道筋から逸れた場所に位置する琵琶湖畔の膳所城址、膳所神社、更には山科の昼食場所である「和食さと」と京都御陵の天智天皇陵への往復の道程の距離が含まれています。
さあ!JR石山駅前を出立いたしましょう。京都に近い石山ですが、駅前はそれほど賑やかではありません。駅前からほんの少し歩くと松原町西の信号交差点にさしかかります。この交差点で旧街道筋に合流します。それではまずは東海道最後の宿場町である「大津宿」を目指すことにしましょう。
旧街道に入ると、すぐにJRのガードをくぐり線路の反対側へと移動します。すると道筋の左側にはNECの工場が現れます。この工場を回り込むように東海道筋はつづいています。石山駅の北側は商店街がほとんどなく、賑やかさはまったく感じられません。
かつてはこの辺りから右手一帯に琵琶湖を眺められたのではないでしょうか。
1キロほど行くと左側に朝日将軍と呼ばれた木曾義仲と乳兄弟だった「今井兼平(いまいかねひら)の墓」への道案内が置かれています。今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠、兄弟に四天王の一人である樋口次郎兼光、巴御前がいます。このあたりは「御殿浜」という地名ですが、江戸時代以前には粟津野(あわつの)と呼ばれており、平安時代に溯る古戦場だった場所です。
じつはここ粟津は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲の終焉の場所なのです。
木曽宮ノ越の義仲と巴像
木曽の山中で武士団を結成した義仲は治承4年(1180)に京都の後白河法皇の三男である以仁王(もちひとおう)の令旨(呼びかけ)に呼応し平家追討の戦いに立上がります。そして横田河原の合戦、倶利伽羅峠の戦いで平家方を破り、寿永2年(1183)に京入りを果たしました。
しかし、翌年の寿永3年(1184)に鎌倉の頼朝の命で蒲冠者・範頼と義経が京都に攻め上がると、義仲は都落ちを余儀なくされます。当初、義仲は一人で北陸へ落ちのびるはずでしたが、途中で進路を変え、今井兼平が奮戦する琵琶湖の畔の粟津の地へと向かいます。義仲はこれまで自分を支えてくれた仲間と共に最後の戦いに臨みます。義仲の手勢は刻々と減り、敵軍に勝てる見込みはなくなります。そして兼平は最後まで義仲に従い、戦いつづけます。結局、負け戦の中で「自刃」をする準備をしますが、その時に敵の矢を受けて撃たれてしまいます。これを見た兼平も太刀を口にくわえ、馬から真っ逆さまに飛び降り、自決しました。そんな出来事があったのがここ「粟津」だったのです。
瀬田の唐橋を渡って膳所城下に入る手前は粟津ケ原と呼ばれた松原が続いていた場所で、すぐ右手の琵琶湖岸を通る東海道の沿道には美しい松並木がつづき、その枝越に琵琶湖や比叡山を望む景勝地であったといいます。
近江八景の一つ「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」もこのあたりですが、現在は湖が埋め立てられて、湖岸が後退し湖面を望むという風情を今は望むべくもありません。
晴嵐の信号交差点を過ぎると街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家(森本宅)の前に「膳所城勢多口総門跡」の石柱が置かれています。
このあたりは、城下町らしく鉤形の道筋となり、道は右、左、右というようにかなり曲がりくねっています。
左側にあった格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いています。「ばったん床几」とは前に倒すと縁台になるものです。このあたりには若干ながら古い家が残っています。
ばったん床几のついた家
京阪電気鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に鳥居が現れます。鳥居の奥に「若宮八幡神社」が社殿を構えています。
若宮八幡神社鳥居
表門は明治3年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られます。
犬走り門
若宮八幡神社の創建は白鳳4年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、4年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという神社です。当初は粟津の森八幡宮といっていましたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になりました。
神楽殿
社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くありませんが、江戸時代の東海道名所図会に「粟杜膳所の城にならざる 已前、膳所明神の杜をいうなるべし」とあるのはこの神社のことです。
若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がります。この辺りから先には神社や仏閣が集中する地域へと入って行きます。
この先で再び京阪電気鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡りますが、この辺りには古い家がかなり残っています。ほぼ一直線の道筋を進むと、左側のマンションの隣に「篠津神社」の鳥居が立っています。鳥居をくぐり、奥に入ると篠津神社の表門が置かれています。この表門は膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものです。
広々とした境内の奥に本社殿が構えています。
篠津神社の北大手門
篠津神社の社殿
篠津神社の祭神は素戔嗚尊で、古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神です。創建時期は明らかではありませんが、康正2年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けたとあります。
「篠津神社」を過ぎると、道筋はまた鉤形となり、左へ直角に曲がります。ほんの僅かな距離を進むと、真正面に京阪電気鉄道の「中ノ庄駅」があります。そしてこの手前でまたまた道筋は鉤形となり、旧街道はまっすぐに延びています。
ちょうどこの辺りからの道筋に広重が描いた東海道の景がパネルにして置かれています。そんなパネルを見ながら狭い道を進んでいきますが、地名は本丸町と変ってきます。
街道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れます。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。
大養寺の長屋門
大養寺をすぎると信号交差点にさしかかります。左へ進むと「膳所神社」です。膳所神社の表門は明治3年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、 国の重要文化財に指定されています。
膳所神社の表門
膳所神社社殿
膳所神社は天武天皇6年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っています。境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があります。
そしてこの交差点を右へ進むと琵琶湖を望む「膳所城址公園(ぜぜじょう)」へ至ります。まずは「膳所城址公園」へ進むことにしましょう。膳所城址公園へは信号交差点から230mほどで公園入口に達します。
膳所城址公園入口
膳所城址公園
城址公園はちょうど琵琶湖に突き出すような場所にあります。ここに天守を構えていたことを考えると、遠目からみる膳所城はまるで琵琶湖の湖面に浮いているような情景だったのではないでしょうか?
膳所城址公園は「兵どもが夢の跡」のように、かつてここに立派な城があったことを想起することができないくらいに変貌してしまい、公園内に本丸の「天守閣跡」に石碑が置かれているだけです。膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長6年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築いた城で琵琶湖に浮かぶ水城として有名でした。
京都への重要拠点だったので譜代大名を城主に任命、初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安4年(1651)、再び本多氏となりそのまま幕末まで続きました。瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だったのです。明治3年(1870)に廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されましたが、その他は破壊され北側に石垣がわずかに残っているだけです。
【膳所城(ぜぜじょう)】
慶長5年(1600)大津で関ヶ原合戦における局地戦(大津城の戦い)があり、東軍方の京極高次が守備する大津城は西軍方毛利元康率いる大軍に包囲攻撃され、更に城西側の長等山から大砲を撃ち込まれたことで落城しました。城を守備する上での地理的なマイナス要因が露呈し、関ヶ原合戦の翌年に廃城となり新たに膳所城を築城することになり、縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎によるものです。当初は西の陸側から湖に向かって二の丸・本丸という配置でしたが、寛文2年(1662)の大地震で大きな被害を受け、当初の本丸と二の丸を合わせて新たな本丸とし、その南側に二の丸を配置する改修がなされました。
尚、園内には金沢第四高等学校の琵琶湖遭難事故を記念して植樹された桜の木が植えられています。
この遭難事故は昭和16年(1941)4月6日に起こった遭難(海難)事故なのですが、当時、春休みを利用してここ大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現金沢大学)の漕艇部員8名と京都大学の学生3名を加えた11名が琵琶湖で漕艇中に、比良おろしの突風により転覆、遭難した事件です。
その後、この事故を悼む「琵琶湖哀歌」を東海林太郎と小笠原美都子が歌いましたが、メロディは「琵琶湖周航の歌」を借用したものです。
膳所城址をあとにして街道に戻り少し進むと、左側に「梅香山縁心寺」が堂宇を構えています。この縁心寺は膳所城主、本多家の菩提寺です。
その先の「和田神社」の透かし塀に囲まれた「本殿」は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、 軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されています。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものですが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられています。
和田神社は白鳳4年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されましたが、明治に和田神社となりました。門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものです。
境内の銀杏の木は樹齢650年といわれる市の保護樹木で、 関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残っています。
和田神社を過ぎると道筋は斜め左手へ折れ曲がります。そしてこの先200mで右折し、響忍寺の周りを回わりこむように道なりに行くと西の庄に入ります。
響忍寺
小さな橋を渡るとすぐ左側に社殿を構えるのが「石坐(いわい)神社」です。
石坐神社鳥居
石坐神社社殿
石坐神社は大龍王社とか高木宮と称したこともありましたが、延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社です。祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。なんでも叶えてくれそうな方々ばかりです。本殿は文永3年(1366)とあるので、鎌倉期のもののようです。
道筋を進み法傳寺を過ぎると道筋がクランクしますが、街道右側に「膳所城北総門跡」の石碑が置かれています。この辺りが膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。
徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。
馬場1丁目に入ると国の指定史跡の「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。読んで字の如く、木曽義仲を祀るお寺です。
義仲寺
拝観料:大人300円
拝観時間:3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日:月曜日(お寺なのに定休日があるんですね)
☎077-523-2811
名所記に「番場村、小川二つあり。西の方の川をもろこ川といふ。川のまへ、左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。しるしに柿の木あり」と記されているところです。寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。
尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にあります。戦国時代に入ると寺は荒廃しましたが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、寺領を与えました。その後、安政の火災、明治29年の琵琶湖洪水などに遭いましたが、その都度改修され今に至っています。第二次大戦で寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものです。
左奥の土壇の上に宝篋印塔を据えたものは「木曽義仲の供養塔」で「木曾塚」ともいわれています。武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、仲の供養に明け暮れていましたが、ある日突如として旅に出たと説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないのですが、その隣に「巴塚」もあります。
なお、山門の右にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊を祀っていて、昔から遠近の人から深く信仰されています。巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫の「山吹塚」も移設されています。
※山吹姫
義仲といえば、巴御前が常に側におり、まるで妻のような存在であったように思われています。巴御前は義仲が幼いころに木曽に流れたきたころからの竹馬の友であり、養父である中原兼遠に二人は兄妹のように育てられた女性です。そんなことから巴とは妻のような存在よりも、もっと強い絆で結ばれていたのです。
一方、山吹姫ですがこの女性については巴に比べると非常に影が薄く、その出自さえはっきりしません。
でも、平家物語の中で、義仲最後の部分でほんの少し登場します。一応、わかっているのは義仲が木曽から京に伴ってきた愛妾であることと、その後、病気になって京に留め置かれたことぐらいです。その後、どうなったのかは定かはないのですが……。
ついでに言いますと、この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりです。芭蕉は義仲のことをたいへん好きだったようです。芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後4回滞在しています。元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなると芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で遺体がこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬されました。今も当時のままの姿で芭蕉の墓があり、墓の右側にはあまりにも有名な芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っています。
「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」
その他にも、巴塚の近くにお江戸深川の芭蕉庵で詠んだ有名な
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
の句碑があります。
義仲寺のご本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉などの位牌が安置されています。
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあります。
「行春を あふミの人と おしみける」(芭蕉桃青)
尚、木曽の宮ノ越の徳音寺に義仲公をはじめ巴御前、そして家臣たちの墓があります。さらには木曽福島の興禅寺にも木曽義仲公の廟所があります。
木曽宮ノ越・徳音寺の義仲公墓
木曽福島・興禅寺の義仲公墓
さあ!旅をつづけることにしましょう。
京阪電気鉄道の踏切を越えたところが打出浜で、「石場」という名前の駅があります。名の由来は「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほどね!
江戸時代には矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、大変賑わい立場茶屋が並んでいました。港には弘安2年(1845)、船仲間の寄進で建てられた高さ8.4mの花崗岩製の大きな常夜燈が建っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていました。その常夜燈はよそに移されて今はありません。
道を左にとると古くから芸能の神として信仰を集めていた「平野神社」の石碑が建っています。当社は天智天皇7年(668)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わっています。平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っています。
平野集落を過ぎると松本2丁目になりますが、東海道は三叉路の左の道を進んでいきます。
石山からここまでは比較的古い建物が多く残っていたのですが、大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていません。推測ですが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、昭和40年後半から大津市の人口が急増し、市域が5倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだことによると思われます。
途中、小さな、小さな川「常世川」を渡ります。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぎ込みます。
そんな常世川に小さな手書きの看板が立てられています。そこには。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川「三途川」ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。
それでは東海道中の最後の宿場町である53番目の「大津宿」へと入っていきましょう。
広重大津の景
大津宿は南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が2軒、脇本陣1軒、旅籠は71軒を数えました。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、天保年間頃には人口が14,000人を超え、家数は3,650軒と東海道最大の宿場町になりました。
東海道が通るのは「京町通り」で、京都への道筋にあることから名付けられたという通りです。スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静かな佇まいを見せています。道脇に天保12年造と書かれた「北向地蔵尊」を祀った小さな社(やしろ)があり、左折して、通り一つ行くと「滋賀県庁」があります。
このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、「東海道名所図会」に「四宮大明神社-大津四宮町にあり 祭神 彦火火出見尊 」とある四宮神社が町名になりました。
四宮神社は延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同3年(806)、近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれましたが、明治時代に天孫神社に名に変え、現在に至っています。
大津地方裁判所の近くに江戸時代に四宮大明神と呼ばれた「天孫神社」があります。
四宮の由緒には幾つかの説があります。祭神が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、国常立尊(くにのそこたちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、帯中津日子尊(たらしなかつひこのみこと)の四神であることからというもの。近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮から四宮と称しました。
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社です。
天孫神社の隣の「華階寺」の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っています。そして中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」があり、山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っています。
大津別院は慶長5年(1600)織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、本堂は慶安2年(1649)、書院は寛文10年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財です。書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれています。
静かな佇まいを見せる京町通りは江戸時代と違い一般住宅が多く建ち並んでいますが、それでも古そうな仏壇屋や料理屋がところどころに現れます。
京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に「比付近露国皇太子遭難之地」の石柱が建っています。
比付近露国皇太子遭難之地
ここは歴史の教科書に「大津事件」と掲載されている歴史的な事件が起きた場所なのです。
明治24年(1891)5月11日、日露親善のため来日したロシアの皇太子が警備中の巡査、津田三蔵に切りつけられた事件です。ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったのですが、大審院長の児島惟謙の主張により刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いたことでも知られています。
先ほどの天孫神社の例祭は10月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて「大津祭」と称され、周辺の町内から13基の曳山(山車)が参加し、市内を巡幸する様は豪華華麗で非常に有名な祭礼です。その様子はこの通りから右に2つ先のアーケード通りの一画にある大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができます。
旧街道からちょっと逸れますが、大津祭曳山展示館にはトイレがあるので、曳山の見学を兼ねて休憩をしましょう。
曳山(山車)
トイレ休憩を終えて、旧街道へ戻ることにしましょう。
街道をそのまま進むと国道161号が通る大通りに出ます。京町一丁目南交叉点で、江戸時代は札の辻といわれました。 高札場が置かれたことから「札の辻」と名付けられた場所です。交差点を越えた先に「大津宿の人馬会所があった」という説明板があり、建物前に「大津市道路元標」の石碑が建っています。「札の辻」があった場所を示すプレートが側溝の蓋に張り付けられています。
道路の右上には「旧東海道」の標識があり、国道161号を歩くように表示されています。国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点でこの交差点を越えて進み(直進し)坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれていました。
東海道は国道161号を南に向います。江戸時代には札の辻一帯には旅籠が多くあったのですが、旅館も古い家も一軒もありません。その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っています。ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われます。道筋はいよいよ逢坂へと向かって徐々に勾配を上げていきます。前方を見ると、ダラダラとした登り坂が延びています。
道はゆるやかな上り坂で、春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横切っていて「妙見大菩薩」とあります。
右側の東海道線のトンネルは左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。
さあ!東海道中の53番目の宿場町を通り過ぎました。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。
もう一つの峠は山科を過ぎると三条通を辿りますが、天智天皇御陵の先で日の岡峠の坂道になり、峠を越えて蹴上に下っていきます。東海道中も大詰めとなるのですが、まだ峠を2つ越えなければなりません。簡単には京都三条にたどりつけないのですね。
国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなくなり、そのまま国道1号に沿って歩くことになりますが、私たちの脇を通過する車の数は半端ではありません。少し行くと右側に「蝉丸神社下社」の常夜燈と石碑、線路の向こうに鳥居が見えます。
蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。
現在の神社はここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に江戸時代の万治3年(1660)、現社殿が建てられた時、街道筋にあった「猿田彦大神」と「豊玉姫命」を合祀したものです。境内には「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。
私たちが辿る国道1号線は両側から迫る山の間を縫うようにつづいています。
京阪電気鉄道の踏切りを渡ると右側の小高いところに「安養寺」が堂宇を構えています。安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石があり、また国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。
ここから逢坂山の上りになります。逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。
平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守として「関蝉丸神社」と「関寺」が建立されました。なお関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことです。
寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのでしょう。
この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになります。右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を400mほど上ると名神高速道路があり、100mほど行くと道の右手の高いところに赤い鮮やかな鳥居の「蝉丸神社上社」が社殿を構えています。
国道1号線は徐々に勾配を高めながらつづいています。左右には木々に覆われた山が迫ってきます。ちょうど切通しのような道筋です。左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブをしながら頂上へとつづいています。国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れます。この信号交差点の辺りが逢坂の頂です。私たちはこの信号交差点で右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいきます。さあ!ここから下り坂です。
信号交差点を渡ると「逢坂の関跡碑」が置かれています。逢坂の関は810年以降、鈴鹿、不破、逢坂の三関の一つとして重要な役割を担ってきましたが、どこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
ほぼ逢坂を登りきり、左へ進むと「うなぎ日本一」の看板を大きく掲げた「かねよ」という鰻料理の老舗の店があります。その店には鯉幟ならぬ「鰻幟(うなぎのぼり)」がはためいているではありませんか。
鰻のかねよのその先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つの蝉丸神社の分社があります。この場所には「車石」の敷石が目立たない存在で展示されています。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれるところです。旧東海道筋は短くすぐ終わってしまいますので、京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号の左側へ移動します。
国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれています。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始しました。最近まで子孫の方が住んでいたと書かれた案内板が置かれています。
すでに逢坂を登りきり、道筋は下り坂に変るので体への負担はそれほど感じません。このあたりは旧寺一里町で江戸時代には両脇に一里塚があったところです。しかし一里塚があったことを示すものは何もありません。街道左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれています。
私たちが歩く旧東海道筋は道幅が広い国道1号です。国道1号線の右側には京阪電気鉄道そしてその向こうに名神高速が走っています。そんな道筋の左右には緑濃い山並みが連なり、ちょうど両側を山に挟まれた谷間を歩いている感じです。
特段風光明媚な場所でもなく、国道1号線に沿って歩く道筋はいつも飽きがきます。月心寺から700mで名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていくのが旧東海道筋です。面白みのない国道1号とお別れです。
国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。
少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。
世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。
「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。
隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。
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私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)
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3年前にお江戸日本橋を出立してから、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江と辿り、その間に52宿の宿場町を訪ねてきました。そして旅は最終回を迎え、いよいよ53番目の宿場町である大津宿を経て、東海道中の終着点(西の起点)である京都三条大橋に到着いたします。
この3年間、季節を問わず双六の駒を一つ一つ進めるように東海道を進んできました。雨の日もありました。雪が舞う中を歩いたことがありました。そしていくつもの川を渡り、街道沿いに現れる宿場町の佇まいを眺め、街道を彩る土地々の風景を楽しんだことが走馬灯のように頭に巡ります。そんな懐かしい想いを胸に最後の行程を楽しく進んでまいりしょう。そして京都三条大橋での感動のフィナーレを迎えたいと思います。
※本日の歩行距離19.1㎞には東海道筋から逸れた場所に位置する琵琶湖畔の膳所城址、膳所神社、更には山科の昼食場所である「和食さと」と京都御陵の天智天皇陵への往復の道程の距離が含まれています。
さあ!JR石山駅前を出立いたしましょう。京都に近い石山ですが、駅前はそれほど賑やかではありません。駅前からほんの少し歩くと松原町西の信号交差点にさしかかります。この交差点で旧街道筋に合流します。それではまずは東海道最後の宿場町である「大津宿」を目指すことにしましょう。
旧街道に入ると、すぐにJRのガードをくぐり線路の反対側へと移動します。すると道筋の左側にはNECの工場が現れます。この工場を回り込むように東海道筋はつづいています。石山駅の北側は商店街がほとんどなく、賑やかさはまったく感じられません。
かつてはこの辺りから右手一帯に琵琶湖を眺められたのではないでしょうか。
1キロほど行くと左側に朝日将軍と呼ばれた木曾義仲と乳兄弟だった「今井兼平(いまいかねひら)の墓」への道案内が置かれています。今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠、兄弟に四天王の一人である樋口次郎兼光、巴御前がいます。このあたりは「御殿浜」という地名ですが、江戸時代以前には粟津野(あわつの)と呼ばれており、平安時代に溯る古戦場だった場所です。
じつはここ粟津は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲の終焉の場所なのです。
木曽宮ノ越の義仲と巴像
木曽の山中で武士団を結成した義仲は治承4年(1180)に京都の後白河法皇の三男である以仁王(もちひとおう)の令旨(呼びかけ)に呼応し平家追討の戦いに立上がります。そして横田河原の合戦、倶利伽羅峠の戦いで平家方を破り、寿永2年(1183)に京入りを果たしました。
しかし、翌年の寿永3年(1184)に鎌倉の頼朝の命で蒲冠者・範頼と義経が京都に攻め上がると、義仲は都落ちを余儀なくされます。当初、義仲は一人で北陸へ落ちのびるはずでしたが、途中で進路を変え、今井兼平が奮戦する琵琶湖の畔の粟津の地へと向かいます。義仲はこれまで自分を支えてくれた仲間と共に最後の戦いに臨みます。義仲の手勢は刻々と減り、敵軍に勝てる見込みはなくなります。そして兼平は最後まで義仲に従い、戦いつづけます。結局、負け戦の中で「自刃」をする準備をしますが、その時に敵の矢を受けて撃たれてしまいます。これを見た兼平も太刀を口にくわえ、馬から真っ逆さまに飛び降り、自決しました。そんな出来事があったのがここ「粟津」だったのです。
瀬田の唐橋を渡って膳所城下に入る手前は粟津ケ原と呼ばれた松原が続いていた場所で、すぐ右手の琵琶湖岸を通る東海道の沿道には美しい松並木がつづき、その枝越に琵琶湖や比叡山を望む景勝地であったといいます。
近江八景の一つ「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」もこのあたりですが、現在は湖が埋め立てられて、湖岸が後退し湖面を望むという風情を今は望むべくもありません。
晴嵐の信号交差点を過ぎると街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家(森本宅)の前に「膳所城勢多口総門跡」の石柱が置かれています。
このあたりは、城下町らしく鉤形の道筋となり、道は右、左、右というようにかなり曲がりくねっています。
左側にあった格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いています。「ばったん床几」とは前に倒すと縁台になるものです。このあたりには若干ながら古い家が残っています。
ばったん床几のついた家
京阪電気鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に鳥居が現れます。鳥居の奥に「若宮八幡神社」が社殿を構えています。
若宮八幡神社鳥居
表門は明治3年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られます。
犬走り門
若宮八幡神社の創建は白鳳4年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、4年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという神社です。当初は粟津の森八幡宮といっていましたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になりました。
神楽殿
社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くありませんが、江戸時代の東海道名所図会に「粟杜膳所の城にならざる 已前、膳所明神の杜をいうなるべし」とあるのはこの神社のことです。
若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がります。この辺りから先には神社や仏閣が集中する地域へと入って行きます。
この先で再び京阪電気鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡りますが、この辺りには古い家がかなり残っています。ほぼ一直線の道筋を進むと、左側のマンションの隣に「篠津神社」の鳥居が立っています。鳥居をくぐり、奥に入ると篠津神社の表門が置かれています。この表門は膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものです。
広々とした境内の奥に本社殿が構えています。
篠津神社の北大手門
篠津神社の社殿
篠津神社の祭神は素戔嗚尊で、古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神です。創建時期は明らかではありませんが、康正2年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けたとあります。
「篠津神社」を過ぎると、道筋はまた鉤形となり、左へ直角に曲がります。ほんの僅かな距離を進むと、真正面に京阪電気鉄道の「中ノ庄駅」があります。そしてこの手前でまたまた道筋は鉤形となり、旧街道はまっすぐに延びています。
ちょうどこの辺りからの道筋に広重が描いた東海道の景がパネルにして置かれています。そんなパネルを見ながら狭い道を進んでいきますが、地名は本丸町と変ってきます。
街道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れます。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。
大養寺の長屋門
大養寺をすぎると信号交差点にさしかかります。左へ進むと「膳所神社」です。膳所神社の表門は明治3年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、 国の重要文化財に指定されています。
膳所神社の表門
膳所神社社殿
膳所神社は天武天皇6年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っています。境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があります。
そしてこの交差点を右へ進むと琵琶湖を望む「膳所城址公園(ぜぜじょう)」へ至ります。まずは「膳所城址公園」へ進むことにしましょう。膳所城址公園へは信号交差点から230mほどで公園入口に達します。
膳所城址公園入口
膳所城址公園
城址公園はちょうど琵琶湖に突き出すような場所にあります。ここに天守を構えていたことを考えると、遠目からみる膳所城はまるで琵琶湖の湖面に浮いているような情景だったのではないでしょうか?
膳所城址公園は「兵どもが夢の跡」のように、かつてここに立派な城があったことを想起することができないくらいに変貌してしまい、公園内に本丸の「天守閣跡」に石碑が置かれているだけです。膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長6年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築いた城で琵琶湖に浮かぶ水城として有名でした。
京都への重要拠点だったので譜代大名を城主に任命、初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安4年(1651)、再び本多氏となりそのまま幕末まで続きました。瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だったのです。明治3年(1870)に廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されましたが、その他は破壊され北側に石垣がわずかに残っているだけです。
【膳所城(ぜぜじょう)】
慶長5年(1600)大津で関ヶ原合戦における局地戦(大津城の戦い)があり、東軍方の京極高次が守備する大津城は西軍方毛利元康率いる大軍に包囲攻撃され、更に城西側の長等山から大砲を撃ち込まれたことで落城しました。城を守備する上での地理的なマイナス要因が露呈し、関ヶ原合戦の翌年に廃城となり新たに膳所城を築城することになり、縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎によるものです。当初は西の陸側から湖に向かって二の丸・本丸という配置でしたが、寛文2年(1662)の大地震で大きな被害を受け、当初の本丸と二の丸を合わせて新たな本丸とし、その南側に二の丸を配置する改修がなされました。
尚、園内には金沢第四高等学校の琵琶湖遭難事故を記念して植樹された桜の木が植えられています。
この遭難事故は昭和16年(1941)4月6日に起こった遭難(海難)事故なのですが、当時、春休みを利用してここ大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現金沢大学)の漕艇部員8名と京都大学の学生3名を加えた11名が琵琶湖で漕艇中に、比良おろしの突風により転覆、遭難した事件です。
その後、この事故を悼む「琵琶湖哀歌」を東海林太郎と小笠原美都子が歌いましたが、メロディは「琵琶湖周航の歌」を借用したものです。
膳所城址をあとにして街道に戻り少し進むと、左側に「梅香山縁心寺」が堂宇を構えています。この縁心寺は膳所城主、本多家の菩提寺です。
その先の「和田神社」の透かし塀に囲まれた「本殿」は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、 軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されています。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものですが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられています。
和田神社は白鳳4年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されましたが、明治に和田神社となりました。門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものです。
境内の銀杏の木は樹齢650年といわれる市の保護樹木で、 関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残っています。
和田神社を過ぎると道筋は斜め左手へ折れ曲がります。そしてこの先200mで右折し、響忍寺の周りを回わりこむように道なりに行くと西の庄に入ります。
響忍寺
小さな橋を渡るとすぐ左側に社殿を構えるのが「石坐(いわい)神社」です。
石坐神社鳥居
石坐神社社殿
石坐神社は大龍王社とか高木宮と称したこともありましたが、延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社です。祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。なんでも叶えてくれそうな方々ばかりです。本殿は文永3年(1366)とあるので、鎌倉期のもののようです。
道筋を進み法傳寺を過ぎると道筋がクランクしますが、街道右側に「膳所城北総門跡」の石碑が置かれています。この辺りが膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。
徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。
馬場1丁目に入ると国の指定史跡の「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。読んで字の如く、木曽義仲を祀るお寺です。
義仲寺
拝観料:大人300円
拝観時間:3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日:月曜日(お寺なのに定休日があるんですね)
☎077-523-2811
名所記に「番場村、小川二つあり。西の方の川をもろこ川といふ。川のまへ、左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。しるしに柿の木あり」と記されているところです。寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。
尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にあります。戦国時代に入ると寺は荒廃しましたが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、寺領を与えました。その後、安政の火災、明治29年の琵琶湖洪水などに遭いましたが、その都度改修され今に至っています。第二次大戦で寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものです。
左奥の土壇の上に宝篋印塔を据えたものは「木曽義仲の供養塔」で「木曾塚」ともいわれています。武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、仲の供養に明け暮れていましたが、ある日突如として旅に出たと説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないのですが、その隣に「巴塚」もあります。
なお、山門の右にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊を祀っていて、昔から遠近の人から深く信仰されています。巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫の「山吹塚」も移設されています。
※山吹姫
義仲といえば、巴御前が常に側におり、まるで妻のような存在であったように思われています。巴御前は義仲が幼いころに木曽に流れたきたころからの竹馬の友であり、養父である中原兼遠に二人は兄妹のように育てられた女性です。そんなことから巴とは妻のような存在よりも、もっと強い絆で結ばれていたのです。
一方、山吹姫ですがこの女性については巴に比べると非常に影が薄く、その出自さえはっきりしません。
でも、平家物語の中で、義仲最後の部分でほんの少し登場します。一応、わかっているのは義仲が木曽から京に伴ってきた愛妾であることと、その後、病気になって京に留め置かれたことぐらいです。その後、どうなったのかは定かはないのですが……。
ついでに言いますと、この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりです。芭蕉は義仲のことをたいへん好きだったようです。芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後4回滞在しています。元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなると芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で遺体がこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬されました。今も当時のままの姿で芭蕉の墓があり、墓の右側にはあまりにも有名な芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っています。
「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」
その他にも、巴塚の近くにお江戸深川の芭蕉庵で詠んだ有名な
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
の句碑があります。
義仲寺のご本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉などの位牌が安置されています。
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあります。
「行春を あふミの人と おしみける」(芭蕉桃青)
尚、木曽の宮ノ越の徳音寺に義仲公をはじめ巴御前、そして家臣たちの墓があります。さらには木曽福島の興禅寺にも木曽義仲公の廟所があります。
木曽宮ノ越・徳音寺の義仲公墓
木曽福島・興禅寺の義仲公墓
さあ!旅をつづけることにしましょう。
京阪電気鉄道の踏切を越えたところが打出浜で、「石場」という名前の駅があります。名の由来は「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほどね!
江戸時代には矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、大変賑わい立場茶屋が並んでいました。港には弘安2年(1845)、船仲間の寄進で建てられた高さ8.4mの花崗岩製の大きな常夜燈が建っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていました。その常夜燈はよそに移されて今はありません。
道を左にとると古くから芸能の神として信仰を集めていた「平野神社」の石碑が建っています。当社は天智天皇7年(668)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わっています。平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っています。
平野集落を過ぎると松本2丁目になりますが、東海道は三叉路の左の道を進んでいきます。
石山からここまでは比較的古い建物が多く残っていたのですが、大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていません。推測ですが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、昭和40年後半から大津市の人口が急増し、市域が5倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだことによると思われます。
途中、小さな、小さな川「常世川」を渡ります。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぎ込みます。
そんな常世川に小さな手書きの看板が立てられています。そこには。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川「三途川」ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。
それでは東海道中の最後の宿場町である53番目の「大津宿」へと入っていきましょう。
広重大津の景
大津宿は南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が2軒、脇本陣1軒、旅籠は71軒を数えました。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、天保年間頃には人口が14,000人を超え、家数は3,650軒と東海道最大の宿場町になりました。
東海道が通るのは「京町通り」で、京都への道筋にあることから名付けられたという通りです。スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静かな佇まいを見せています。道脇に天保12年造と書かれた「北向地蔵尊」を祀った小さな社(やしろ)があり、左折して、通り一つ行くと「滋賀県庁」があります。
このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、「東海道名所図会」に「四宮大明神社-大津四宮町にあり 祭神 彦火火出見尊 」とある四宮神社が町名になりました。
四宮神社は延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同3年(806)、近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれましたが、明治時代に天孫神社に名に変え、現在に至っています。
大津地方裁判所の近くに江戸時代に四宮大明神と呼ばれた「天孫神社」があります。
四宮の由緒には幾つかの説があります。祭神が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、国常立尊(くにのそこたちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、帯中津日子尊(たらしなかつひこのみこと)の四神であることからというもの。近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮から四宮と称しました。
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社です。
天孫神社の隣の「華階寺」の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っています。そして中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」があり、山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っています。
大津別院は慶長5年(1600)織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、本堂は慶安2年(1649)、書院は寛文10年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財です。書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれています。
静かな佇まいを見せる京町通りは江戸時代と違い一般住宅が多く建ち並んでいますが、それでも古そうな仏壇屋や料理屋がところどころに現れます。
京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に「比付近露国皇太子遭難之地」の石柱が建っています。
比付近露国皇太子遭難之地
ここは歴史の教科書に「大津事件」と掲載されている歴史的な事件が起きた場所なのです。
明治24年(1891)5月11日、日露親善のため来日したロシアの皇太子が警備中の巡査、津田三蔵に切りつけられた事件です。ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったのですが、大審院長の児島惟謙の主張により刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いたことでも知られています。
先ほどの天孫神社の例祭は10月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて「大津祭」と称され、周辺の町内から13基の曳山(山車)が参加し、市内を巡幸する様は豪華華麗で非常に有名な祭礼です。その様子はこの通りから右に2つ先のアーケード通りの一画にある大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができます。
旧街道からちょっと逸れますが、大津祭曳山展示館にはトイレがあるので、曳山の見学を兼ねて休憩をしましょう。
曳山(山車)
トイレ休憩を終えて、旧街道へ戻ることにしましょう。
街道をそのまま進むと国道161号が通る大通りに出ます。京町一丁目南交叉点で、江戸時代は札の辻といわれました。 高札場が置かれたことから「札の辻」と名付けられた場所です。交差点を越えた先に「大津宿の人馬会所があった」という説明板があり、建物前に「大津市道路元標」の石碑が建っています。「札の辻」があった場所を示すプレートが側溝の蓋に張り付けられています。
道路の右上には「旧東海道」の標識があり、国道161号を歩くように表示されています。国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点でこの交差点を越えて進み(直進し)坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれていました。
東海道は国道161号を南に向います。江戸時代には札の辻一帯には旅籠が多くあったのですが、旅館も古い家も一軒もありません。その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っています。ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われます。道筋はいよいよ逢坂へと向かって徐々に勾配を上げていきます。前方を見ると、ダラダラとした登り坂が延びています。
道はゆるやかな上り坂で、春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横切っていて「妙見大菩薩」とあります。
右側の東海道線のトンネルは左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。
さあ!東海道中の53番目の宿場町を通り過ぎました。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。
もう一つの峠は山科を過ぎると三条通を辿りますが、天智天皇御陵の先で日の岡峠の坂道になり、峠を越えて蹴上に下っていきます。東海道中も大詰めとなるのですが、まだ峠を2つ越えなければなりません。簡単には京都三条にたどりつけないのですね。
国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなくなり、そのまま国道1号に沿って歩くことになりますが、私たちの脇を通過する車の数は半端ではありません。少し行くと右側に「蝉丸神社下社」の常夜燈と石碑、線路の向こうに鳥居が見えます。
蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。
現在の神社はここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に江戸時代の万治3年(1660)、現社殿が建てられた時、街道筋にあった「猿田彦大神」と「豊玉姫命」を合祀したものです。境内には「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。
私たちが辿る国道1号線は両側から迫る山の間を縫うようにつづいています。
京阪電気鉄道の踏切りを渡ると右側の小高いところに「安養寺」が堂宇を構えています。安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石があり、また国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。
ここから逢坂山の上りになります。逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。
平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守として「関蝉丸神社」と「関寺」が建立されました。なお関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことです。
寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのでしょう。
この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになります。右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を400mほど上ると名神高速道路があり、100mほど行くと道の右手の高いところに赤い鮮やかな鳥居の「蝉丸神社上社」が社殿を構えています。
国道1号線は徐々に勾配を高めながらつづいています。左右には木々に覆われた山が迫ってきます。ちょうど切通しのような道筋です。左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブをしながら頂上へとつづいています。国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れます。この信号交差点の辺りが逢坂の頂です。私たちはこの信号交差点で右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいきます。さあ!ここから下り坂です。
信号交差点を渡ると「逢坂の関跡碑」が置かれています。逢坂の関は810年以降、鈴鹿、不破、逢坂の三関の一つとして重要な役割を担ってきましたが、どこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
ほぼ逢坂を登りきり、左へ進むと「うなぎ日本一」の看板を大きく掲げた「かねよ」という鰻料理の老舗の店があります。その店には鯉幟ならぬ「鰻幟(うなぎのぼり)」がはためいているではありませんか。
鰻のかねよのその先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つの蝉丸神社の分社があります。この場所には「車石」の敷石が目立たない存在で展示されています。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれるところです。旧東海道筋は短くすぐ終わってしまいますので、京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号の左側へ移動します。
国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれています。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始しました。最近まで子孫の方が住んでいたと書かれた案内板が置かれています。
すでに逢坂を登りきり、道筋は下り坂に変るので体への負担はそれほど感じません。このあたりは旧寺一里町で江戸時代には両脇に一里塚があったところです。しかし一里塚があったことを示すものは何もありません。街道左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれています。
私たちが歩く旧東海道筋は道幅が広い国道1号です。国道1号線の右側には京阪電気鉄道そしてその向こうに名神高速が走っています。そんな道筋の左右には緑濃い山並みが連なり、ちょうど両側を山に挟まれた谷間を歩いている感じです。
特段風光明媚な場所でもなく、国道1号線に沿って歩く道筋はいつも飽きがきます。月心寺から700mで名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていくのが旧東海道筋です。面白みのない国道1号とお別れです。
国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。
少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。
世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。
「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。
隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。
第3ステージの目次へ
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)
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