大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から大津宿を抜けて逢坂を下り髭茶屋まで(その1)

2015年12月27日 15時04分15秒 | 私本東海道五十三次道中記
いよいよ私たちの東海道の旅はファイナルステージを迎えます。
3年前にお江戸日本橋を出立してから、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江と辿り、その間に52宿の宿場町を訪ねてきました。そして旅は最終回を迎え、いよいよ53番目の宿場町である大津宿を経て、東海道中の終着点(西の起点)である京都三条大橋に到着いたします。

この3年間、季節を問わず双六の駒を一つ一つ進めるように東海道を進んできました。雨の日もありました。雪が舞う中を歩いたことがありました。そしていくつもの川を渡り、街道沿いに現れる宿場町の佇まいを眺め、街道を彩る土地々の風景を楽しんだことが走馬灯のように頭に巡ります。そんな懐かしい想いを胸に最後の行程を楽しく進んでまいりしょう。そして京都三条大橋での感動のフィナーレを迎えたいと思います。

※本日の歩行距離19.1㎞には東海道筋から逸れた場所に位置する琵琶湖畔の膳所城址膳所神社、更には山科の昼食場所である「和食さと」と京都御陵の天智天皇陵への往復の道程の距離が含まれています。



さあ!JR石山駅前を出立いたしましょう。京都に近い石山ですが、駅前はそれほど賑やかではありません。駅前からほんの少し歩くと松原町西の信号交差点にさしかかります。この交差点で旧街道筋に合流します。それではまずは東海道最後の宿場町である「大津宿」を目指すことにしましょう。



旧街道に入ると、すぐにJRのガードをくぐり線路の反対側へと移動します。すると道筋の左側にはNECの工場が現れます。この工場を回り込むように東海道筋はつづいています。石山駅の北側は商店街がほとんどなく、賑やかさはまったく感じられません。
かつてはこの辺りから右手一帯に琵琶湖を眺められたのではないでしょうか。

1キロほど行くと左側に朝日将軍と呼ばれた木曾義仲と乳兄弟だった「今井兼平(いまいかねひら)の墓」への道案内が置かれています。今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠、兄弟に四天王の一人である樋口次郎兼光、巴御前がいます。このあたりは「御殿浜」という地名ですが、江戸時代以前には粟津野(あわつの)と呼ばれており、平安時代に溯る古戦場だった場所です。

じつはここ粟津は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲の終焉の場所なのです。

木曽宮ノ越の義仲と巴像

木曽の山中で武士団を結成した義仲は治承4年(1180)に京都の後白河法皇の三男である以仁王(もちひとおう)の令旨(呼びかけ)に呼応し平家追討の戦いに立上がります。そして横田河原の合戦、倶利伽羅峠の戦いで平家方を破り、寿永2年(1183)に京入りを果たしました。
しかし、翌年の寿永3年(1184)に鎌倉の頼朝の命で蒲冠者・範頼と義経が京都に攻め上がると、義仲は都落ちを余儀なくされます。当初、義仲は一人で北陸へ落ちのびるはずでしたが、途中で進路を変え、今井兼平が奮戦する琵琶湖の畔の粟津の地へと向かいます。義仲はこれまで自分を支えてくれた仲間と共に最後の戦いに臨みます。義仲の手勢は刻々と減り、敵軍に勝てる見込みはなくなります。そして兼平は最後まで義仲に従い、戦いつづけます。結局、負け戦の中で「自刃」をする準備をしますが、その時に敵の矢を受けて撃たれてしまいます。これを見た兼平も太刀を口にくわえ、馬から真っ逆さまに飛び降り、自決しました。そんな出来事があったのがここ「粟津」だったのです。

瀬田の唐橋を渡って膳所城下に入る手前は粟津ケ原と呼ばれた松原が続いていた場所で、すぐ右手の琵琶湖岸を通る東海道の沿道には美しい松並木がつづき、その枝越に琵琶湖比叡山を望む景勝地であったといいます。 
近江八景の一つ「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」もこのあたりですが、現在は湖が埋め立てられて、湖岸が後退し湖面を望むという風情を今は望むべくもありません。
晴嵐の信号交差点を過ぎると街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家(森本宅)の前に「膳所城勢多口総門跡」の石柱が置かれています。
このあたりは、城下町らしく鉤形の道筋となり、道は右、左、右というようにかなり曲がりくねっています。 
左側にあった格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いています。「ばったん床几」とは前に倒すと縁台になるものです。このあたりには若干ながら古い家が残っています。

ばったん床几のついた家



京阪電気鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に鳥居が現れます。鳥居の奥に「若宮八幡神社」が社殿を構えています。

若宮八幡神社鳥居

表門は明治3年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られます。

犬走り門

若宮八幡神社の創建は白鳳4年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、4年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという神社です。当初は粟津の森八幡宮といっていましたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になりました。

神楽殿

社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くありませんが、江戸時代の東海道名所図会に「粟杜膳所の城にならざる 已前、膳所明神の杜をいうなるべし」とあるのはこの神社のことです。

若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がります。この辺りから先には神社や仏閣が集中する地域へと入って行きます。 

この先で再び京阪電気鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡りますが、この辺りには古い家がかなり残っています。ほぼ一直線の道筋を進むと、左側のマンションの隣に「篠津神社」の鳥居が立っています。鳥居をくぐり、奥に入ると篠津神社の表門が置かれています。この表門は膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものです。
広々とした境内の奥に本社殿が構えています。

篠津神社の北大手門
篠津神社の社殿

篠津神社の祭神は素戔嗚尊で、古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神です。創建時期は明らかではありませんが、康正2年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けたとあります。



「篠津神社」を過ぎると、道筋はまた鉤形となり、左へ直角に曲がります。ほんの僅かな距離を進むと、真正面に京阪電気鉄道の「中ノ庄駅」があります。そしてこの手前でまたまた道筋は鉤形となり、旧街道はまっすぐに延びています。
ちょうどこの辺りからの道筋に広重が描いた東海道の景がパネルにして置かれています。そんなパネルを見ながら狭い道を進んでいきますが、地名は本丸町と変ってきます。

街道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れます。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。

大養寺の長屋門

大養寺をすぎると信号交差点にさしかかります。左へ進むと「膳所神社」です。膳所神社の表門は明治3年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、 国の重要文化財に指定されています。

膳所神社の表門
膳所神社社殿

膳所神社は天武天皇6年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉北政所徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っています。境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があります。

そしてこの交差点を右へ進むと琵琶湖を望む「膳所城址公園(ぜぜじょう)」へ至ります。まずは「膳所城址公園」へ進むことにしましょう。膳所城址公園へは信号交差点から230mほどで公園入口に達します。

膳所城址公園入口
膳所城址公園

城址公園はちょうど琵琶湖に突き出すような場所にあります。ここに天守を構えていたことを考えると、遠目からみる膳所城はまるで琵琶湖の湖面に浮いているような情景だったのではないでしょうか?
膳所城址公園は「兵どもが夢の跡」のように、かつてここに立派な城があったことを想起することができないくらいに変貌してしまい、公園内に本丸の「天守閣跡」に石碑が置かれているだけです。膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長6年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築いた城で琵琶湖に浮かぶ水城として有名でした。

京都への重要拠点だったので譜代大名を城主に任命、初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安4年(1651)、再び本多氏となりそのまま幕末まで続きました。瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だったのです。明治3年(1870)に廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されましたが、その他は破壊され北側に石垣がわずかに残っているだけです。

【膳所城(ぜぜじょう)】
慶長5年(1600)大津で関ヶ原合戦における局地戦(大津城の戦い)があり、東軍方の京極高次が守備する大津城は西軍方毛利元康率いる大軍に包囲攻撃され、更に城西側の長等山から大砲を撃ち込まれたことで落城しました。城を守備する上での地理的なマイナス要因が露呈し、関ヶ原合戦の翌年に廃城となり新たに膳所城を築城することになり、縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎によるものです。当初は西の陸側から湖に向かって二の丸・本丸という配置でしたが、寛文2年(1662)の大地震で大きな被害を受け、当初の本丸と二の丸を合わせて新たな本丸とし、その南側に二の丸を配置する改修がなされました。

尚、園内には金沢第四高等学校の琵琶湖遭難事故を記念して植樹された桜の木が植えられています。

この遭難事故は昭和16年(1941)4月6日に起こった遭難(海難)事故なのですが、当時、春休みを利用してここ大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現金沢大学)の漕艇部員8名と京都大学の学生3名を加えた11名が琵琶湖で漕艇中に、比良おろしの突風により転覆、遭難した事件です。
その後、この事故を悼む「琵琶湖哀歌」を東海林太郎と小笠原美都子が歌いましたが、メロディは「琵琶湖周航の歌」を借用したものです。

膳所城址をあとにして街道に戻り少し進むと、左側に「梅香山縁心寺」が堂宇を構えています。この縁心寺は膳所城主、本多家の菩提寺です。 

その先の「和田神社」の透かし塀に囲まれた「本殿」は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、 軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されています。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものですが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられています。 
和田神社は白鳳4年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されましたが、明治に和田神社となりました。門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものです。 

境内の銀杏の木は樹齢650年といわれる市の保護樹木で、 関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残っています。

和田神社を過ぎると道筋は斜め左手へ折れ曲がります。そしてこの先200mで右折し、響忍寺の周りを回わりこむように道なりに行くと西の庄に入ります。

響忍寺



小さな橋を渡るとすぐ左側に社殿を構えるのが「石坐(いわい)神社」です。

石坐神社鳥居
石坐神社社殿

石坐神社は大龍王社とか高木宮と称したこともありましたが、延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社です。祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。なんでも叶えてくれそうな方々ばかりです。本殿は文永3年(1366)とあるので、鎌倉期のもののようです。

道筋を進み法傳寺を過ぎると道筋がクランクしますが、街道右側に「膳所城北総門跡」の石碑が置かれています。この辺りが膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。 

徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。

馬場1丁目に入ると国の指定史跡の「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。読んで字の如く、木曽義仲を祀るお寺です。

義仲寺

拝観料:大人300円
拝観時間:3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日:月曜日(お寺なのに定休日があるんですね)
☎077-523-2811

名所記に「番場村、小川二つあり。西の方の川をもろこ川といふ。川のまへ、左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。しるしに柿の木あり」と記されているところです。寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。

尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にあります。戦国時代に入ると寺は荒廃しましたが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、寺領を与えました。その後、安政の火災、明治29年の琵琶湖洪水などに遭いましたが、その都度改修され今に至っています。第二次大戦で寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものです。

左奥の土壇の上に宝篋印塔を据えたものは「木曽義仲の供養塔」「木曾塚」ともいわれています。武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、仲の供養に明け暮れていましたが、ある日突如として旅に出たと説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないのですが、その隣に「巴塚」もあります。
なお、山門の右にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊を祀っていて、昔から遠近の人から深く信仰されています。巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫「山吹塚」も移設されています。

※山吹姫
義仲といえば、巴御前が常に側におり、まるで妻のような存在であったように思われています。巴御前は義仲が幼いころに木曽に流れたきたころからの竹馬の友であり、養父である中原兼遠に二人は兄妹のように育てられた女性です。そんなことから巴とは妻のような存在よりも、もっと強い絆で結ばれていたのです。
一方、山吹姫ですがこの女性については巴に比べると非常に影が薄く、その出自さえはっきりしません。
でも、平家物語の中で、義仲最後の部分でほんの少し登場します。一応、わかっているのは義仲が木曽から京に伴ってきた愛妾であることと、その後、病気になって京に留め置かれたことぐらいです。その後、どうなったのかは定かはないのですが……。

ついでに言いますと、この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりです。芭蕉は義仲のことをたいへん好きだったようです。芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後4回滞在しています。元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなると芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で遺体がこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬されました。今も当時のままの姿で芭蕉の墓があり、墓の右側にはあまりにも有名な芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っています。

「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」  
その他にも、巴塚の近くにお江戸深川の芭蕉庵で詠んだ有名な
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」  
の句碑があります。

義仲寺のご本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉などの位牌が安置されています。 
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあります。
「行春を あふミの人と おしみける」(芭蕉桃青)

尚、木曽の宮ノ越の徳音寺に義仲公をはじめ巴御前、そして家臣たちの墓があります。さらには木曽福島の興禅寺にも木曽義仲公の廟所があります。

木曽宮ノ越・徳音寺の義仲公墓
木曽福島・興禅寺の義仲公墓

さあ!旅をつづけることにしましょう。



京阪電気鉄道の踏切を越えたところが打出浜で、「石場」という名前の駅があります。名の由来は「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほどね! 

江戸時代には矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、大変賑わい立場茶屋が並んでいました。港には弘安2年(1845)、船仲間の寄進で建てられた高さ8.4mの花崗岩製の大きな常夜燈が建っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていました。その常夜燈はよそに移されて今はありません。 

道を左にとると古くから芸能の神として信仰を集めていた「平野神社」の石碑が建っています。当社は天智天皇7年(668)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わっています。平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っています。 

平野集落を過ぎると松本2丁目になりますが、東海道は三叉路の左の道を進んでいきます。
石山からここまでは比較的古い建物が多く残っていたのですが、大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていません。推測ですが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、昭和40年後半から大津市の人口が急増し、市域が5倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだことによると思われます。

途中、小さな、小さな川「常世川」を渡ります。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぎ込みます。
そんな常世川に小さな手書きの看板が立てられています。そこには。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川「三途川」ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。

それでは東海道中の最後の宿場町である53番目の「大津宿」へと入っていきましょう。

広重大津の景

大津宿は南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が2軒、脇本陣1軒、旅籠は71軒を数えました。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、天保年間頃には人口が14,000人を超え家数は3,650軒と東海道最大の宿場町になりました。

東海道が通るのは「京町通り」で、京都への道筋にあることから名付けられたという通りです。スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静かな佇まいを見せています。道脇に天保12年造と書かれた「北向地蔵尊」を祀った小さな社(やしろ)があり、左折して、通り一つ行くと「滋賀県庁」があります。



このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、「東海道名所図会」に「四宮大明神社-大津四宮町にあり  祭神 彦火火出見尊 」とある四宮神社が町名になりました。 

四宮神社は延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同3年(806)、近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれましたが、明治時代に天孫神社に名に変え、現在に至っています。

大津地方裁判所の近くに江戸時代に四宮大明神と呼ばれた「天孫神社」があります。
四宮の由緒には幾つかの説があります。祭神が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、国常立尊(くにのそこたちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、帯中津日子尊(たらしなかつひこのみこと)の四神であることからというもの。近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮から四宮と称しました。 
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社です。

天孫神社の隣の「華階寺」の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っています。そして中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」があり、山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っています。

大津別院は慶長5年(1600)織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、本堂は慶安2年(1649)、書院は寛文10年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財です。書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれています。
静かな佇まいを見せる京町通りは江戸時代と違い一般住宅が多く建ち並んでいますが、それでも古そうな仏壇屋や料理屋がところどころに現れます。

京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に「比付近露国皇太子遭難之地」の石柱が建っています。

比付近露国皇太子遭難之地

ここは歴史の教科書に「大津事件」と掲載されている歴史的な事件が起きた場所なのです。 
明治24年(1891)5月11日、日露親善のため来日したロシアの皇太子が警備中の巡査、津田三蔵に切りつけられた事件です。ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったのですが、大審院長の児島惟謙の主張により刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いたことでも知られています。

先ほどの天孫神社の例祭は10月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて「大津祭」と称され、周辺の町内から13基の曳山(山車)が参加し、市内を巡幸する様は豪華華麗で非常に有名な祭礼です。その様子はこの通りから右に2つ先のアーケード通りの一画にある大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができます。
旧街道からちょっと逸れますが、大津祭曳山展示館にはトイレがあるので、曳山の見学を兼ねて休憩をしましょう。

曳山(山車)

トイレ休憩を終えて、旧街道へ戻ることにしましょう。
街道をそのまま進むと国道161号が通る大通りに出ます。京町一丁目南交叉点で、江戸時代は札の辻といわれました。 高札場が置かれたことから「札の辻」と名付けられた場所です。交差点を越えた先に「大津宿の人馬会所があった」という説明板があり、建物前に「大津市道路元標」の石碑が建っています。「札の辻」があった場所を示すプレートが側溝の蓋に張り付けられています。

道路の右上には「旧東海道」の標識があり、国道161号を歩くように表示されています。国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点でこの交差点を越えて進み(直進し)坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれていました。

東海道は国道161号を南に向います。江戸時代には札の辻一帯には旅籠が多くあったのですが、旅館も古い家も一軒もありません。その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っています。ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われます。道筋はいよいよ逢坂へと向かって徐々に勾配を上げていきます。前方を見ると、ダラダラとした登り坂が延びています。



道はゆるやかな上り坂で、春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横切っていて「妙見大菩薩」とあります。

右側の東海道線のトンネルは左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。

さあ!東海道中の53番目の宿場町を通り過ぎました。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。 
もう一つの峠は山科を過ぎると三条通を辿りますが、天智天皇御陵の先で日の岡峠の坂道になり、峠を越えて蹴上に下っていきます。東海道中も大詰めとなるのですが、まだ峠を2つ越えなければなりません。簡単には京都三条にたどりつけないのですね。

国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなくなり、そのまま国道1号に沿って歩くことになりますが、私たちの脇を通過する車の数は半端ではありません。少し行くと右側に「蝉丸神社下社」の常夜燈と石碑、線路の向こうに鳥居が見えます。

蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。 
現在の神社はここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に江戸時代の万治3年(1660)、現社殿が建てられた時、街道筋にあった「猿田彦大神」「豊玉姫命」を合祀したものです。境内には「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。

私たちが辿る国道1号線は両側から迫る山の間を縫うようにつづいています。
京阪電気鉄道の踏切りを渡ると右側の小高いところに「安養寺」が堂宇を構えています。安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石があり、また国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。

ここから逢坂山の上りになります。逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。

平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守として「関蝉丸神社」「関寺」が建立されました。なお関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことです。 
寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのでしょう。 

この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになります。右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を400mほど上ると名神高速道路があり、100mほど行くと道の右手の高いところに赤い鮮やかな鳥居の「蝉丸神社上社」が社殿を構えています。



国道1号線は徐々に勾配を高めながらつづいています。左右には木々に覆われた山が迫ってきます。ちょうど切通しのような道筋です。左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブをしながら頂上へとつづいています。国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れます。この信号交差点の辺りが逢坂の頂です。私たちはこの信号交差点で右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいきます。さあ!ここから下り坂です。

信号交差点を渡ると「逢坂の関跡碑」が置かれています。逢坂の関は810年以降、鈴鹿、不破、逢坂の三関の一つとして重要な役割を担ってきましたが、どこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
ほぼ逢坂を登りきり、左へ進むと「うなぎ日本一」の看板を大きく掲げた「かねよ」という鰻料理の老舗の店があります。その店には鯉幟ならぬ「鰻幟(うなぎのぼり)」がはためいているではありませんか。



鰻のかねよのその先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つの蝉丸神社の分社があります。この場所には「車石」の敷石が目立たない存在で展示されています。

江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれるところです。旧東海道筋は短くすぐ終わってしまいますので、京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号の左側へ移動します。 

国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれています。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始しました。最近まで子孫の方が住んでいたと書かれた案内板が置かれています。



すでに逢坂を登りきり、道筋は下り坂に変るので体への負担はそれほど感じません。このあたりは旧寺一里町で江戸時代には両脇に一里塚があったところです。しかし一里塚があったことを示すものは何もありません。街道左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれています。

私たちが歩く旧東海道筋は道幅が広い国道1号です。国道1号線の右側には京阪電気鉄道そしてその向こうに名神高速が走っています。そんな道筋の左右には緑濃い山並みが連なり、ちょうど両側を山に挟まれた谷間を歩いている感じです。



特段風光明媚な場所でもなく、国道1号線に沿って歩く道筋はいつも飽きがきます。月心寺から700mで名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていくのが旧東海道筋です。面白みのない国道1号とお別れです。



国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。 
少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。

世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。

「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。
隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。


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私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)





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私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで

2015年12月27日 10時48分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
前回32回目の3日目はJR石部駅前から52番目の宿場町「草津」まで10.3㎞を歩きました。
さあ!長かった東海道の旅もいよいよフィナーレを迎えます。私たちの東海道五十三次街道めぐりの旅もいよいよ大詰めへとさしかかってきました。

迎える33回目はお江戸日本橋から数えて52番目の草津宿を起点として、第1日目は瀬田の唐橋を経てJR石山駅前までの約10キロ、第2日目はJR石山駅から53番目の大津宿を経て、東海道の西の終着点(起点)である京都三条大橋までのちょっと長めの19.1キロを歩きます。

草津は137,000人を数える県下第二位の都市です。ちなみに第一位は大津市です。そして久し振りに見る大きな駅舎を持つ草津駅に隣接するボストンプラザを後に、いよいよフィナーレの旅へ出立いたしましょう。

私たちは立派な草津駅のコンコースを抜けて、東口へと進んでいきます。東口にでると広々としたテラスが現れ、太い道がまっすぐにのびています。階段でテラスを下りて、太い道に沿って進んでいきましょう。そして平和堂の建物が途切れた所で右手に曲がりますが、この道筋が旧中山道です。現在はアーケード形式の商店街がこの先の旧草津川をくぐるトンネル手前までつづいています。



かつての中山道は完全にアーケード形式の商店街に姿を変えてしまいました。さまざまなお店やレストランが軒を連ね、草津の繁華街といった雰囲気を漂わせています。草津はもともと東口の方が発展していたようで、東口に隣接して近鉄百貨店や先ほどの平和堂、エルティなどの大規模店舗が立ち並んでいます。尚、草津駅西口にはホテルが集中し、また最近開発されたエイスクエアと呼ばれる大規模複合ショッピングモールがあります。

草津アーケード街

賑やかなアーケード街が途切れると、天井川であった草津川をくぐるトンネルにさしかかります。
トンネルをくぐると、旧東海道と旧中山道の分岐点である「追分」が現れます。その追分の場所に大きな石造りの常夜燈が置かれています。

常夜燈

常夜燈は文化13年(1816)建立で高さ4mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていました。江戸時代の中山道はここで東海道に合流していたので、ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになります。

また路上のマンホールの蓋には「東海道中山道分岐点」と書かれています。

マンホールの蓋
マンホールの蓋

中山道はご存知のように、江戸五街道の一つでお江戸の日本橋を起点として西の京都三条大橋までの135里(526.3キロ)を繋いでいます。ここ草津までは日本橋から129里(505.7キロ)あり、その間に67宿が置かれていました。またその間には中山道の難所と言われる木曽路が横たわり、木曽谷に沿って11宿が置かれていました。

記念すべき中山道と東海道の合流地点でもあり、分岐点でもあるこの場所から草津宿の中心へと進んでいきましょう。

広重草津の景

草津宿は十一町五十三間半(約1.3km)の長さに家の数が586軒、宿内人口は2351名とそれなりの規模をもっていました。併せて東海道と中山道の追分の宿場だったので、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠は72軒 (最盛期はもっと多くあったようです) と大変な賑わいを見せていました。

尚、追分の左角にある草津市民センターはかつて脇本陣大黒屋弥助の敷地でした。そして少し歩くと右側に田中七左衛門が営んでいた「草津宿本陣」があります。

草津本陣パンフ

本陣の門

見るからに立派な門構えで、門柱には「草津宿本陣」と墨書きされた板が下げられています。草津宿の東側の入口が旧草津川を渡ったあたりなので、東からやってくる大名行列は川を渡る前か、または渡ったらすぐに隊列を組みなおし、本陣の主人の先導で襟を正して宿内の本陣へやってきたのでしょう。

追分からほんの僅かな距離にある草津宿本陣は田中七左衛門が材木屋を兼業していたため、木屋本陣ともいわれていました。敷地はなんと1300坪もある広大なもので、建坪は468坪、部屋数は30余もあり、現存する本陣の中では最大級で国の指定史跡です。田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたのを草津宿本陣として公開しています。(月曜日・年末年始は休み、200円)

本陣の門
本陣の門
本陣脇の塀

私たちの東海道中でいくつかの宿場で本陣や脇本陣の建物を見てきました。その中でも三河の二川の本陣は立派なものでした。その二川の本陣を凌ぐほど立派な本陣の建物がここ草津に残っています。草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。

本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)国の史跡に指定されました。草津宿の中では当時の宿場町の面影を残す建物はここ本陣だけです。

立派な構えの門をくぐると、玄関広間には当本陣を宿とした名だたる大名(藩主)の関札が並べられています。関札とは大名、公卿、幕府役人が泊まる際、持参した札で使用目的により、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示したものです。

玄関を入ると順に座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間が置かれています。

私たちが訪れた時、雛祭りが近いことから幾つかの部屋には雛飾りが置かれていました。

雛飾り
雛飾り

その奥に庭園があり、お殿様用の湯殿は離れになっています。上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いています。
真ん中は畳敷きの通路ですが、人数が多いときにはこの通路にも泊まっていたようです。 
本陣職を務めた田中家の住宅部分は六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあります。裏手には厩(うまや)もあり、本陣らしい風格と設備を有していました。
宿帳も公開されており「慶応元年五月九日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎など三十二名が宿泊した」と記載された大福帳もあり、別の大福帳には浅野内匠頭の九日後に吉良上野介が泊まったことが記録されています。

湯殿
土間

本陣の見学を終えて、宿内を進んでいきましょう。

街道沿いの家々は新しいものが多く、それらしい佇まいの家はあるのですが、過ぎ去った時代の宿場の風景は残っていません。

草津宿の家並み
草津宿の家並み

草津本陣の先の左側の吉川芳樹園とベーカリーカフェ前に脇本陣の標が置かれています。中神病院は三度飛脚取次所が置かれていました。中神病院を過ぎると、街道に面した広場の奥に「草津市まちなか交流施設(トイレ有り)」が現れます。

草津市まちなか交流施設

そしてその先に「市立草津宿街道交流館(トイレ有り)」が置かれています。公営の施設ということで、トイレ休憩を兼ねて1階の展示物を見学することにします。
☎077-567-0030
尚、市立草津宿街道交流館の2階部分の見学は有料です。

交流館パンフ
市立草津宿街道交流館



街道の右側奥に堂宇を構えている常善寺は承平7年(735)、良弁上人の開基の寺院で、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので国の重要文化財に指定されています。

町並みの様子

市立草津宿街道交流館を過ぎるとすぐ左手に「太田酒造」が店を構えています。

大田酒造

当酒造は戦国時代に江戸城を造った、太田道灌の末裔が江戸時代以来営む造り酒屋で、街道時代には草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれ草津宿の政治的中心を担っていた場所にありました。旧家の家柄で「道灌」という銘柄の酒樽が店の前に置かれています。

大田酒造のパンフ
大田酒造
大田酒造の路地

街道を挟んで太田酒造の対面には「問屋場」「貫目改所」が置かれていました。そして少し先の「旅館野村屋」の看板を掲げた家は幕末から営業している元旅籠です。

草津宿もそろそろ西の端にさしかかります。立木神社前交差点の先には小さな川が流れています。伯母川(志津川)と呼ばれ、街道時代には「宮川土橋」が架かっていたといいます。
信号を渡ると、右側に志津川にかかる赤い欄干の橋がかかり、その奥に朱色の鳥居が立っています。

立木神社の橋

それでは境内へと入っていきましょう。「立木神社」は旧草津宿と旧矢倉村の氏神でした。創建は神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来しています。
境内は思ったよりも広く、ゆったりとした敷地には立派な神楽殿、本社殿が配置されています。

神門
神楽殿
本社殿

境内には延宝8年(1680)11月の草津宿最古の追分道標が置かれています。また神社に鎮座するのは狛犬が普通ですが、この神社には獅子の狛犬の他、神鹿が祀られています。草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされていますが、その跡は現在では確認できません。そしてここ立木神社がある場所で草津宿は終わります。

草津宿の京側入口にある立木神社を過ぎて200mほど歩くと川幅のある草津川が流れています。

草津川の橋

この川は旧草津川河岸の洪水を防ぐために平成14年(2002)から平成19年(2007)7月にかけて、新たに開削された新草津川です。橋を渡ると左奥に「光伝寺」が堂宇を構えています。
その先の信号交叉点の手前右側に「天井川」と書かれた酒の看板があるのは古川酒造で、ショウルームには杉球が吊るされ、酒徳利が置かれています。
さらに100mほど行くと交差点の右側に瓢箪(ひょうたん)を扱っている「瓢泉堂」が店を構えています。

瓢泉堂

矢倉の瓢箪は今から250年ほど前から作られたといわれていますが、瓢箪を扱っている店は現在ここだけです。「瓢泉堂」は明治時代に同じ矢倉の地からここに移ってきたといいます。

店の角に「右やはせ道 これより廿五丁」と刻まれた「矢橋(やばせ)道標」が建っています。江戸時代には「瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち」と言い囃された姥ヶ餅屋が あったところで、東海道と矢橋道との追分です。

「矢橋道標」は姥が餅屋の軒下に寛政10年(1798)に建てられたもので、東海道を往来する旅人を「矢橋の渡し」に導くために置かれました。矢橋道は矢橋港の渡し場への道で、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていました。陸路の場合は瀬田の大橋経由で大津宿への道程は3里(12キロ)なのに対し、矢橋港からの渡船では湖上50町(5.5キロほど)と短かかったため、時間短縮はもちろんのこと体に負担がないので、多くの旅人や商人が利用したといいます。
江戸時代の旅人はこの辺りの「姥が餅屋」で茶菓子を食べながら、舟に乗ろうか、はたまた大津まで歩いて行こうかと迷ったことでしょう。与謝蕪村はここで「東風吹くや 春萌え出でし 姥が里」という句を残しています。

『うばがもち』とは?
時は永禄、時代的にいうと、なんと戦国時代にまでさかのぼります。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦い、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒した頃が永禄年間(1558~1569)です。その織田信長の武名、天下に轟き、諸国を制覇し、近江の守護代となった頃のことのお話です。
そんな時代、近江源氏佐々木義賢は永禄十二年に信長に滅ぼされ、その一族も各地に散在を余儀なくされました。
その一族の中に三歳になる義賢の曾孫もいました。義賢は臨終の際にもその幼児を心より託せる人がいなかったので、乳母である「福井との」を招き、貞宗の守刀を授け、ひそかに後事を託し息を引き取りました。乳母「との」は義賢の旨を守り、郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくっては売り、養育の資として質素に暮らしました。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したといいます。



矢倉集落を過ぎると国道1号線の矢倉南交差点にさしかかりますが、対面の標識に「旧東海道」の案内表示があるので、矢倉南信号交差点でいったん反対側に渡ったあと、曲がりくねった路地へと進んで行きます。野路は東山道の宿駅の野路駅舎として源頼朝など武将達が往来したところで宇治への分岐点でしたが、東海道が開設され草津宿ができると野路の存在価値は失われてきました。

狭い路地を進むと小さな上北池公園にでてきます。そんな小さな公園に、目立たない存在で寂しげに野路一里塚の標柱が置かれています。お江戸日本橋から119番目、京三条大橋からは6番目)の一里塚跡です。

野路一里塚の標柱

野路町交差点でかがやき通りを渡り、国道1号と分岐して走る旧街道筋へと進んでいきます。街道沿いには住宅街がつづきます。旧街道に入るとすぐ左側の「教善寺」の前には「草津歴史街道 東海道」の案内板があります。

そして少し先の右側の遠藤家という民家の塀に中に「清宗塚」の案内板が置かれています。
清宗とは壇ノ浦で敗れた平家の総大将平宗盛の長男で、捕虜になった清宗は父宗盛が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後に 堀弥太郎景光の一刀で首をはねられました。清宗の亡骸を葬ったというのが五輪塔の清宗塚です。遠藤家はこの塚を10世紀に亘り守ってきたんですね。

この界隈は野路集落の中心ですが、道はかなり狭くなります。道筋がすこし右へカーブを切る場所に「神宮神社」の鳥居が置かれています。そしてこの先の街道の右手に堂宇を構える願林寺が山門を構えています。山門を過ぎてすぐ右へ曲がると京都の石清水八幡宮と同じくらいの歴史を持つと言われていた「八幡神社跡」の記念碑が置かれています。

旧街道は住宅街を抜けていきます。旧街道はこの先で県道43号と交叉します。信号がない代わりに、地下道が造られているので、これをくぐります。地下道をくぐるとすぐ右手のフェンスに囲まれた中に「野路(萩)の玉川」の記念碑が置かれています。野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった場所です。

野路(萩)の玉川

源俊朝が千載和歌集で「あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」と詠んだ他、多くの歌人が歌を詠んだことで知られています。 
阿仏尼は十六夜日記に「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」という歌を詠んでいます。 
しかし、東山道の野路宿駅の衰退とともに野路の玉川の存在も忘れ去られていったようです。   
かつて名水、名勝であった「野路の玉川」の名を後世に残すため昭和51年に復元されたものです。



旧街道は右手へとカーブすると南笠東という地域に入りますが、江戸時代には美しい松並木があったようですが、今はその名残すらありません。そんな道筋を下って行くと、前方の視界が広がります。なんでこんなところにといった感じで大きな池が現れます。弁天池という名前が付けられていますが、それほどの景勝地でないのが残念です。

弁天池

池の中に弁天島があります。江戸時代の大盗賊日本左衛門が隠れたとの伝説が残っているようです。弁天池を過ぎると道筋は緩やかな上り坂となります。



坂を登りきると、信号交差点があり、その下を狼川(おおかみがわ)が流れています。狼川に架かる橋を渡ると、かつてこの狼川は「大亀川」と呼ばれていたことを示す簡単な看板が置かれています。
「おおかめ」が「おおかみ」に川名に変じた理由は定かではありません。

橋を渡ると旧街道は緩やかな上り下りをくり返しながら先へ続いていきます。この先で丁目が栗林町へと変ります。この栗林町から大津市へ入ります。ちょうど草津市大津市の境から右手に大きな工場があります。「日本黒鉛工業(Nihon Graphite Industries LTD)」という会社のようです。鉛筆の芯を造っている会社ではなく、「黒鉛粉末」「黒鉛塗料」「電子部品」などを製造しているようです。

そんな工場をすぎて、足元を見るとやたら絵柄がごちゃごちゃしたマンホールが一つ現れます。大津市のマンホールなのですが、あまりに絵柄が多すぎていったい何が描かれているのか一見しただけでは皆目わかりません。

大津市のマンホール

ご覧のようになんともにぎやかなマンホールの絵柄です。上の画像は色がついているので、おおよそ何が描かれているかはわかるのですが、色がついていないとよそ者ではとんとわかりません。

実はこのマンホールは大津市が平成10年10月1日に市制施行100周年を記念して、マンホールの蓋のデザインを公募したそうです。その中から最優秀賞になった作品をもとに製作されたものです。

描かれている図柄は琵琶湖を背景に市の鳥であるユリカモメ、市の花のエイザンスミレ、市の木であるヤマザクラ、琵琶湖大橋、ミシガン船、レガッタ、琵琶湖花噴水そして花火とこれでもかという位のてんこ盛りです。
そしてなんとも洒落ているのが、図柄の左下あたりに描かれている犬です。ちょうど犬が片足をあげています。その片足が赤く塗られているのがわかりますか?
色がついているとこの洒落がわかるのですが、色がついていないとなんとも間抜な話になってしまいます。

というのも前述のようにこのマンホールのデザインは市制施行100年を記念しています。
このことから100を英語でいうと「One Hundred]となるのですが、勘のいい方はピンときませんか?
「犬が赤い色の手(足)を挙げている」すなわち、「One=Wan(Dog:わん」「Hund=Hand:手」「Red:赤」となり、「赤い犬の手」ということのようです。
よくもまあ!ここまで駄洒落でデザインしたものだと感心します。
尚、この色付きの市制施行100年記念マンホールは街道を歩いていても、なかなか見つけることはできません。色がついていないものはかなり見つけることができました。


大津市に入ると地名は「月輪(つきのわ)」と変ります。月輪は江戸時代、旅人達が休憩する立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇に置かれています。野路の玉川から月輪までおよそ1㎞以上を歩いてきましたが、街道らしい風情や雰囲気はまったく残っていません。ただ道の狭さだけが当時の街道の様子を物語っています。



街道左側に月輪寺が堂宇を構えています。寺の入口にあたるのでしょうか、ちょっとした敷地に「新田開発発祥之地」「明治天皇駐輩之碑」などの石碑が置かれています。そして街道の左手奥に堂宇を構えるのが幕末の文久3年(1863)の開基の月輪寺です。

月輪寺を過ぎると、比較的道幅が広い道と交差する信号が現れます。この信号交差点を渡ると地名は一里山と変ります。信号を渡ると「月輪東海道立場跡碑」が置かれています。道筋は大きく左へとカーブを切りながら続いています。この道筋は車一台分位しかない狭い道なのに予想した以上の車が走り、かなり歩きづらいので、十分に気を付けましょう。

そんな細い道筋を進んで行くと、一里山一丁目の交差点に出てきます。この辺りが本日の6㎞地点です。この交差点を右手へ470mほど進むと東海道はJR瀬田駅へとつながります。旧東海道と比較的道幅のある市道と交差している場所の一角にけっこう立派な「月輪池(大萱)一里塚碑」(江戸日本橋から120番目、京三条大橋からは5番目)が置かれています。

月輪池(大萱)一里塚碑

この地点にはかつて一里塚があり、松が植えられていましたが、明治に入り取り除かれました。この辺りの地名である一里山はこの場所に一里塚が置かれていることからきています。

本日の行程の半分以上を消化しましたが、ここらあたりでちょっと休憩(トイレ休憩)をしましょう。
一里山交差点をいったん渡り、右手に進むこと170mほどのところにダイエー系列のスーパーマーケット「グルメシティ」があります。「グルメシティ」と名が付いているので、レストランや大きなフードコートがあることを期待するのですが、グルメシティとは名ばかりで、食事を目的とする施設ではありません。1階にスーパーが入っているだけです。ダイエーもイオンに吸収されてしまいましたので、このフードコートの未来は風前の灯といったところでしょう。
※「グルメシティ」は建て直されて2017年8月にダイエーに生まれ変わりました。



JR瀬田駅に近いのですが、これといった飲食店もあまりありません。ちなみに瀬田駅近くまでいってみたのですが、駅周辺にも飲食店はあまりありません。再び旧街道筋に戻ることにしましょう。旧東海道はこの先、大江三丁目と六丁目の境を進んでいきます。東消防署前の「道標」を過ぎ、大江四丁目の信号交差点を渡ると、すぐ右手に洒落たパン屋さんが現れます。焼き立てパン「Koppe」という名のお店です。Koppeという名前からコッペパンが有名のようです。試に食べてみよう、ということでコッペパンを購入しました。よくある少し長めのコッペパンではなく、丸みをおびた小振りのコッペパンです。透明の袋に入ったコッペパンを手のひらに乗せて、優しく握るとものすごい弾力性を感じます。

焼き立てということもあるのでしょう。ふんわりしたコッペパンをひとかじりすると、その「モチモチ感」とパンの甘みが口の中に広がります。バターやジャムを付けなくても、とても美味しいコッペパンです。尚、これほど美味しいコッペパンなのですが、店内には大量に置かれていませんので、売り切れていることもあります。もし食べたければ、事前に電話しておいたほうがいいかもしれません。
住所:大津市大江4-14-21
電話:077-535-5592
定休日:日曜日

Koppeを過ぎ、ほんの少し進み左へ折れる路地を入ると、野神社旧蹟(大江東自治会館)があります。平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人、大江千里(おおえのちさと)住居跡と伝わる場所。大江千里は地元の村人から「ちりんさん」と呼び親しまれたといいます。
 
瀬田小学校の近く(小学校南の忠魂碑付近)に「西行屋敷跡」があります。東海道を旅していると、いたるところで西行ゆかりの地が点在し、その折々に西行が詠んだ歌を紹介してきました。
西行法師は佐藤義清(のりきよ)という北面の武士だったが、23才で出家して、諸国を行脚して多くの歌を残したことは良く知られています。この大江の地にも一時期住んだと言い伝えられています。東海道は道標で左折し、左側の正善寺を見ながら直進していきます。



旧街道は左手の関電瀬田変電所の前を通り、初田仏壇の先で右折します。

この場所に「近江国府跡」の道標が置かれています。交差点を直進し突き当たったところを右折し、次に左折すると「雇用瀬田宿舎」の手前に「近江国衙跡」があります。
※近江国府跡の見学は割愛します。

近江国府は奈良中期(八世紀)に建設され、平安中期(十世紀末)まであった近江国を治める役所なのですが、東西二町(218m)、南北三町(327m)の敷地に南北の前殿と後殿、東西の脇殿という建物が建ち、門や築地垣があり、1000名を越える官吏と兵士が勤務していたといわれています。そしてその外側に九町(972m)四方の規格化された街路が広がっていたと伝えられています。

敷地内の所どころに島のように囲まれたところがあるのですが、これは建物のあったことを示すものだそうです。中央の建物の中には発掘状況などの資料とともに国府の想像図がイラストになって掲示されています。

私たちは交差点で右折しさらに東海道の旅をつづけてまいります。旧街道はいったん左へとカーブを切り、その先で大きく右手に曲がりながら、旧国道1号線の広い道に合流します。合流地点で左に折れると高橋川が流れています。そして高橋川に架かる橋を渡ると神領という地名に変ります。高橋川の橋の左手には「檜山神社」の鎮守の森(山)の木々が目に飛び込んできます。



神領の地名はこのあたりが建部神社の門前にあることから、御料田(神領)となったといわれています。古い家が少し残る商店街を進み、山村石材店で左に入る細い道筋へ入って行きます。この細い道筋はすぐに大きな通りに合流します。そしてこれを左折すると「建部大社」の大きな石柱と鳥居が目に飛び込んできます。

建部大社パンフ

建部大社石柱
建部大社一の鳥居

それでは、せっかくなので建部大社へ参詣することにいたしましょう。先ほどの細い道筋が大きな通りに合流する地点から建部大社のご本殿までは約320mあります。一の鳥居をくぐると長い参道が前方に続いています。
長い参道はその先で直角に曲がり、二の鳥居へとつづきます。参道脇には御祭神である日本武尊の伝承を記した掲示板が置かれています。

建部大社二の鳥居

建部大社の創祀時期は定かでありませんが、昔から建部大社とか建部大明神などと称え、近江国一の宮として延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社なのです。社伝には「景行天皇四十六年、稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。天平勝宝七年(755)、孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉祭せられ、現在に至っている。」とあります。
本殿に主祭神の日本武尊を、相殿に天明玉命、権殿に大己貴命を祀っています。

二の鳥居をくぐると、その先に神門が現れます。

神門

承久の乱(1221)で戦火に遭い、社殿と多くの社宝を失いましたが、延慶弐年(1319)、勢多の判官、中原章則が再建したといわれています。歴代の朝廷の尊信が驚く、また源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願し、その後、宿願叶って建久元年(1190)の上洛の際に再びここを訪れ、幾多の神宝と神領を寄進し深く感謝したといいます。

神門を入るとご神木の「三本杉」があり、入母屋造の「拝殿」が建っています。

三本杉と拝殿

拝殿の先には「中門」を隔てて、「本殿」と「権殿」が並んで建っています。 
中門の右側の柵内にある石燈籠は文永7年(1270)の銘があり、国の重要文化財です。その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される「木造女神像三体」があり、 重要文化財に指定されていますが、これは宝物館に保管されています。(拝観料200円)

建部大社境内
建部大社境内

建部大社の参詣を終えて、来た道を再び辿り、旧街道筋へ戻りましょう。道筋には比較的商店が多く立ち並ぶようになってきます。ということは「JR石山駅」に近づいてきたことを窺がわせます。
道を歩くと左手に膳所藩瀬田代官屋敷跡があります。現在に残る建物は明治以降に民家として建築されたものですが、代官屋敷の流れを汲んでいるようで、江戸時代中期の狩野派絵師による襖絵等が残っているといいます。近年まで医院として使われていたようですが、廃業して空き家になっている様子です。取り壊しの話が出たのか、保存活動を案内する貼り紙が貼られています。

間もなくすると瀬田川畔の唐橋東詰交差点に出てきます。交差点の左手前角に「田上太神山(たなかみやま)不動寺」の道標があり、「是より二里半」と刻まれています。田上太神山不動寺の道標は寛政12年(1800)に建立されたもので、田上不動道への起点を示すものです。もとは瀬田三丁目の瀬田商店街の角にありましたが、理由は分りませんがここに移転しました。交差点を渡った先には「常夜塔」と「句碑」が建っています。

瀬田川の河川敷には「勢多橋龍宮秀郷社」があり、祭神は瀬田川の龍神様と俵藤太秀郷です。俵藤太が竜神の頼みにより大ムカデを退治したという伝記による神様を祀っています。ちなみに大ムカデを退治した場所は近江富士(三上山)です。大江匡房は「むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋」という歌を詠んでいます。

瀬田の唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋で、奈良時代からあったと伝えられています。 鎌倉時代に付け替えられた時に唐様のデザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれるようになりました。

瀬田の唐橋

古代から東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、唐橋を制する者は天下を制すとまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に橋は破壊と再建を繰り返してきました。そして織田信長によって唐橋が架け替えられた時、中ノ島を挟んで大橋と小橋かける現在のような橋になったと言われています。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋は欄干に唐金擬宝珠を付ける橋の作りが美しく、日本三名橋?・三古橋の一つとされ名橋とされてきました。広重が描く「瀬田夕照(せたのせきしょう)」の浮世絵で知られ、「粟津晴嵐(あわづのせいらん)」と共に近江八景の一つに数えられています。瀬田川の河原に下りていくと、唐橋を背景にして「瀬田唐橋」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

※日本三名橋とは
一般に日本橋(東京)・錦帯橋(山口)・眼鏡橋(長崎)のようですが、この手の「三大」ってのはどれも当てになりません。
諸説あるので……。瀬田の唐橋(滋賀)だと言う人もいるようですが、瀬田の唐橋が入ると、どの橋がはずされるのでしょうか?
※日本三古橋とは
「山崎橋(山崎太郎、現在はない)」「瀬田の唐橋(勢多次郎)」と「宇治橋(宇治三郎)」
ちなみに宇治橋
瀬田川
石碑

現在の橋は昭和54年(1979)に造られたコンクリート製のものですが、擬宝珠を欄干に添え、それなりの雰囲気を醸し出しています。それでは大橋と小橋を渡って石山駅へと進んでいきましょう。小橋を渡り終えると「唐橋西詰」の信号交差点です。交差点を渡って右側へ移動します。交差点の先に「石山商店街」の表示があり、徐々に駅に近づいていることを感じさせるような商店が現れてきます。



京阪唐橋前駅手前の小路の角に「地主之守大神」「方位之守大神」「逆縁之縁切地蔵大菩薩」「蓮如上人御影休息所」と 書かれた石碑が置かれています。

さあ!まもなく本日の終着地点である京阪石山、JR石山駅に到着です。 

京阪電気鉄道の線路を越えると、鳥居川町の交差点に出てきます。旧東海道筋はここを右折します。交差点の右側の家の一角に「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑が建っています。ここは旅籠松屋の跡地で、明治11年(1878)に明治天皇が東海・北陸の御巡幸の折に小休止した場所です。

一応は商店街らしい道筋なのですが、あまり賑やかさや活気が感じられません。そんな石山駅への道筋を辿り、国道一号を渡ると、また京阪電気鉄道の踏切にさしかかります。この踏切を越えると本日の終着地点の京阪石山駅前(JR石山駅前)に到着です。草津のホテル・ボストンプラザからほぼ10キロ地点に位置する石山駅に到着です。

第2日目はここ石山駅を出立して、いよいよ京都三条大橋を目指します。お楽しみに!

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から逢坂を下り髭茶屋まで(その1)
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)





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