これまで本当にたくさんの日記を書いてきた。何のために書くのかははっきりとは伝えられないけれど、誰かに伝えたい何かがある。未来の自分に伝えたいんじゃなくて今こうしてここを読んでくれているあなたや、これからここを読んでくれる人に伝えたいことがある。だからこうして公開してほとんど個人が出来るような状態でつづけている。今でこそ更新が減ったもののこれだけ日記を書くくせにろくにメールも返さない人間だ。一時期はメールを返さない、電話に出ないことがあると即喧嘩になるような時期があってその頃は確実にものすごい速さですべてのメールを返信していた。信じてもらえないかもしれないけれどその頃の私を知る人であれば分かってもらえるだろう。そんな状況でなくなって日記も日常の一部として取り込まれていってからはここにそのメールや電話のすべてを乗っけるようになった気がする。要はこんな話をいつでも出来る人を失ってしまったのがきっかけで、今となってはここはここで確固たる存在意義を持ってしまった。昨日の日記のようなもは本当は書きたくないのだけど、どうしても書かなくちゃ気がすまないくらいの時間を過ごしたときは思考よりも出来事を書いてしまう。出来事の羅列なんて誰も読む気がしないし、自分で読み返しても対して懐かしくもない。あのときこんなことがあって何を考えたのが書き記したいことで、あの時こんなことをしてどう考えたのかが知りたいことだと思う。おそろらく多くの人は相手の考えることを一番知りたいと思う。透明人間になるよりも、億万長者になるよりも、女になるよりも相手の思考が読み取れる力が欲しいと思う。少なくとも私はそうだ。分からないからそこに興味を示すのが大前提であることは間違いないけれど。
人に迷惑をかけること、人を悲しませるよな事が間違ったことで、一切そんなことがなければ何をしてもいいと思っている。天涯孤独の身になってしまえば別に自分に対しては何をしていいと思ってるし、一生隠し通せるのであれば嘘だってついたっていいと思ってる。まあ私には隠せるだけのテクニックを持ち合わせていないから嘘を突き通すことは出来ないから嘘つきだと心配することないけど。なんでこんなことを書くのかと言うと間違ったことをしたときにそのことは自分のこれからの自分の人生にとってもよくないと説教する人が大嫌いで、間違ったことをするときにあらかじめ言い訳を作っておく人間が大嫌いで、そんな人間を近頃よく目にするから。どうしてこう人生だとか人間性だとか何とでも取れるような言葉を連呼して人を説き伏せようとするのか、間違ったことさえも気付いていない人間にそんな言葉を連呼してどうしようと言うのか、人生なんて言葉は過ぎてから使う言葉でこれからの人生なんて言葉はゴキブリの人生というのと同じくらい掴みようのない言葉でそんなもののために何か努力しようなんて思えるはずもない。どうしてもこれからの人生と言う言葉を聴くと理想とする道を順調に進んでいくことが目的のような気がして嫌になる。「人生にとって何が大切か」なんて誰に言われたら納得でるんだろうか。自分の父親でもなんだかむず痒い。いや父親だからむず痒いのか・・・そんなことを考えると脱線しすぎるからやめておこう。まあともかくそんな小さな間違いに対していつでも大義名分をかざしてわけの分からない人間観を説くような人間が嫌いだ。あと、言い訳を先に考えて間違いを犯す卑怯者。これは最悪だ。本当に話していてうんざりした。そんなことでしか何かを抗議することが出来ないか弱きもの、なんていったらなんだか守ってあげたい気持ちにもなるかもしれないけれど、目の前でそんなことが起きたらただただあきれるばかりだ。ようは昨日書いた無断欠勤はプチストライキで、嫌なことがあってそれを講義するために欠勤したのだけれど、どうして来ないのかと大騒ぎになってから「だって~」。言えよ。先言えよ。泣いておもちゃ売り場から動かない子どもよりも幼くて、そんなかわいさなんて微塵もないくらいにかわいげがない。いい迷惑だよ本当に。休みの日に起きてすぐに喫茶店で同期の人間をなだめて上司に連絡してまたなだめて。近い将来母親になるらしい。大丈夫か?環境は作るものであって与えられるものじゃない。一人の行動が与える影響が小さいからといって何もしないのであれば絶対に自分にとっていい環境が訪れることはない。環境を求めて転々とする人間はいつまでたってもいい環境にめぐりあうことはない。ここはいい環境だといえる人を見て運が良かったとうらやましがるか、良く作り上げたと見上げるかの違いだ。環境を変えてよ。なんてじっとしてすねているバカを見つけたら石を投げてやってください。
あと一つ考えたことがあって、無理だと思うことをやらない限り何も変えられないのかもしれないということ。無理だと思う限界は自分が出来ることの限界で、自分の出来ることの範囲内でしか何もしないのであれば何かが変わることはないのかもしれない。出来ないと思っていたことが出来るようになることを成長と言うのであればやっぱり無理をしないといけないのか。年を重ねるたびにその限界値を正確に定めてしまうようになってしまっている気がする。そう考えると出来ることを毎日確実にやることで何かを変えることが出来ないのかと考えてしまうけれど、毎日確実にやることはやっぱりさっきの言葉でいうと限界を超えていて無理だと思った(私の場合は継続ということほど困難なことはないし、多くの人もそうだと思う)。それでもやっぱり大きく限界値を超えることは無理ではなくて不可能なわけで、ちょっと無理かな、と思うことくらいをたくさんやるべきなんだと思う。これからも無理していこう。へんな意気込みだ。
人に迷惑をかけること、人を悲しませるよな事が間違ったことで、一切そんなことがなければ何をしてもいいと思っている。天涯孤独の身になってしまえば別に自分に対しては何をしていいと思ってるし、一生隠し通せるのであれば嘘だってついたっていいと思ってる。まあ私には隠せるだけのテクニックを持ち合わせていないから嘘を突き通すことは出来ないから嘘つきだと心配することないけど。なんでこんなことを書くのかと言うと間違ったことをしたときにそのことは自分のこれからの自分の人生にとってもよくないと説教する人が大嫌いで、間違ったことをするときにあらかじめ言い訳を作っておく人間が大嫌いで、そんな人間を近頃よく目にするから。どうしてこう人生だとか人間性だとか何とでも取れるような言葉を連呼して人を説き伏せようとするのか、間違ったことさえも気付いていない人間にそんな言葉を連呼してどうしようと言うのか、人生なんて言葉は過ぎてから使う言葉でこれからの人生なんて言葉はゴキブリの人生というのと同じくらい掴みようのない言葉でそんなもののために何か努力しようなんて思えるはずもない。どうしてもこれからの人生と言う言葉を聴くと理想とする道を順調に進んでいくことが目的のような気がして嫌になる。「人生にとって何が大切か」なんて誰に言われたら納得でるんだろうか。自分の父親でもなんだかむず痒い。いや父親だからむず痒いのか・・・そんなことを考えると脱線しすぎるからやめておこう。まあともかくそんな小さな間違いに対していつでも大義名分をかざしてわけの分からない人間観を説くような人間が嫌いだ。あと、言い訳を先に考えて間違いを犯す卑怯者。これは最悪だ。本当に話していてうんざりした。そんなことでしか何かを抗議することが出来ないか弱きもの、なんていったらなんだか守ってあげたい気持ちにもなるかもしれないけれど、目の前でそんなことが起きたらただただあきれるばかりだ。ようは昨日書いた無断欠勤はプチストライキで、嫌なことがあってそれを講義するために欠勤したのだけれど、どうして来ないのかと大騒ぎになってから「だって~」。言えよ。先言えよ。泣いておもちゃ売り場から動かない子どもよりも幼くて、そんなかわいさなんて微塵もないくらいにかわいげがない。いい迷惑だよ本当に。休みの日に起きてすぐに喫茶店で同期の人間をなだめて上司に連絡してまたなだめて。近い将来母親になるらしい。大丈夫か?環境は作るものであって与えられるものじゃない。一人の行動が与える影響が小さいからといって何もしないのであれば絶対に自分にとっていい環境が訪れることはない。環境を求めて転々とする人間はいつまでたってもいい環境にめぐりあうことはない。ここはいい環境だといえる人を見て運が良かったとうらやましがるか、良く作り上げたと見上げるかの違いだ。環境を変えてよ。なんてじっとしてすねているバカを見つけたら石を投げてやってください。
あと一つ考えたことがあって、無理だと思うことをやらない限り何も変えられないのかもしれないということ。無理だと思う限界は自分が出来ることの限界で、自分の出来ることの範囲内でしか何もしないのであれば何かが変わることはないのかもしれない。出来ないと思っていたことが出来るようになることを成長と言うのであればやっぱり無理をしないといけないのか。年を重ねるたびにその限界値を正確に定めてしまうようになってしまっている気がする。そう考えると出来ることを毎日確実にやることで何かを変えることが出来ないのかと考えてしまうけれど、毎日確実にやることはやっぱりさっきの言葉でいうと限界を超えていて無理だと思った(私の場合は継続ということほど困難なことはないし、多くの人もそうだと思う)。それでもやっぱり大きく限界値を超えることは無理ではなくて不可能なわけで、ちょっと無理かな、と思うことくらいをたくさんやるべきなんだと思う。これからも無理していこう。へんな意気込みだ。