ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

豊沢団平(2) 団平のルーツ

2019-01-21 10:14:48 | 歴史・文学

 

 豊沢団平は、「ひろかずのブログ」とおなじ記事です。

  豊沢団平(2) 団平のルーツ

 *以下、周太郎の文章は、文体を変えています。

 周太郎は、あるところで次のように語っています。

 

 「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。

 しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。

 その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。

 ・・・・

 (また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月の生まれで、団平の先祖は武士でした。

 それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城すること数ヶ月、討ち死と決心して乳母に蓄えの金と男の児とを託し、附近の筒井家へ送り、そこで乳母が遺児を養育し、その子が町人となり生長して加古川のすぐ隣の粟津村(現:加古川町粟津)へ移住して老年に及び、当時廃寺となっていた同村の常徳寺を起し、自ら出家して復興しました。

 現在の常徳寺は、改築せられたものですが、この寺は名人団平の先祖が復興した寺に当るわけです。

 この後、引続いて粟津村に四代ほど居住し、五代目に当る加古安次郎の代になって、隣なる加古川町内へ移転しています。

 そして、その安次郎の子が後年の豊沢団平のようです。

 この安次郎の生家は、大きな松の木のある寺がある常住寺でした。(*常住寺は、現在加古川中央消防署の近くへ移動している)

 その常住寺から西ヘ一丁程の所に、数年前まで「玉岡」といった資産家の呉服店がありました。

 その家は立派な大きな家で、古くから加古川町の資産家では五本の指に入る家でした。

 その家が実は安次郎氏が初めて加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 団平は幼名力松、この安次郎が芸好きであって、いわゆる旦那芸として浄瑠璃を習い、それがこうじて、元来武家出身の名門加古家のこととて裕福であったのですが、ついに家計が傾き、資産を蕩尽するまでに浄瑠璃に打込む結果になりました。

 結局、一家は離散し力松は大阪の叔父に引きとられました。そして、力松は間もなく大阪の竹本千賀太夫の手許に身を寄せたのでし」と書いています。

  *写真:常徳寺の山門横にある「碑」(豊沢団平菩提所)

 

 

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