a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

公募書類を書く

2008年03月12日 | 研究生活
 先週末と、それから昨日まで、ある募集に必要な書類を書いていた。といっても、自分のものではなく(自分のものだったら、この場でわざわざ書かなくて、秘密裏に終わらせていると思う 笑)、仏人の友人のもの。

 この友人とは、「共同研究」をしているのだが、「共同研究」と言えば聞こえはいいが、実のところは、いつも「なあなあの作業」的なものになってしまい、それが共同研究(共同作業)になっていることころもあったりする。
 例えば、仏語で文章を書くときなどは、彼女に添削を頼むことが多いのだが、部分によっては、リライトに近い添削をしてもらうことになったり(むろん、あくまで部分だが)、あるいは仏語の(日本語への)翻訳で、どうしてもわからない部分があると、彼女に相談するのだが、細かい語のニュアンスの議論になると、日本語のわかる彼女が訳語の提案をしてきたり。その逆の作業もあったりする。まあ、友人なので、その辺はお互い様である。

 今回は、仏語の書類に日本語訳の書類を添付するのだが、それについての作業。思いのほか、時間をとられてしまい、また自分も没頭。
 そして、そういう状態になると(ここが悪いところなのだが)、日本語についてではなく、書類のフォーマットを私が整えることになってしまった。
 つまり、彼女は日本の履歴書(枠があって、それに内容を流し込めばすむやつ)の書式を使いたかったのだが、彼女の持っている学位と職歴は日本のものには入りきらないので、私は仏語と同じ書式でも問題はないだろうという意見を(そもそも仏語の書類の翻訳という性質だし)。

 で、まあ、時間がいろいろかかり、せっぱ詰まった状態になったところで、私も仏語で履歴書を書いた経験があるので、書式を整える役を私がやることに。この辺の、頼り頼られる関係があるから、友人として続いているのだが。

 でも、多分、共同研究をする人には、普通はそうした頼み事をしないと思うのだが、いかがだろうか?(そして、研究としては、そちらの方がいい作業ができるとも思う)つまり、あくまでも、それなりの形式になったものを共同作業の相手に渡すべきものを、緊張感のない我々の場合は、自分の分担についてさえ「ちょっとこの部分は、うまくできなかったから代わりにやっておいて」的なお願いをしたりする。まあ、ある部分ではそれがうまくいくこともあるのだが、だいたいの場合それが徐々に「なあなあ」になって、最後には「あいつがやってくれるからいいか?」的なことに(^◇^;)。

 まあ、私としては、今回の作業では、彼女に「貸し」ができるので、むしろ都合が良いところもある(実のところ、いろいろな面を換算すると、彼女に対する私の負債の方が多いのではないかと思う:私のつたない仏語につきあってくれている点ですでに「お世話になっている」状態である点を含めてなのだが)。また、仏式の書類とはこういうもの、というのをじかに経験できて、自分の経験値も上がり、やはり良い経験だった。

 日本では、何でも書式があって、それに流し込めば事が済む場合が多いが、仏の場合は、履歴書にしても自分で書式を練り上げねばならず、で、それが志望者の力量をはかる尺度にもなっていたりする。
 ここで、ブルデュー的な要素が、就職に際しいても格差拡大として働く、と言うこともできるかもしれないが、ただし、仏にも「履歴書の書き方」というハウツー本があるので、実際にブルデュー的要素がどれだけ効果を持っているかは検討が必要だと思う。

 ただし、彼女が持っている推薦状にはビックリ。日本の大学の場合、形式的なものに過ぎないことが多いと思われるが、彼女の推薦状には、ものすごい称賛が並んでいたりする。推薦状が大きな意味を持つ社会であるとすれば(実のところ、私はそれが仏でどれぐらいの効果を持っているか知らない:いくつか話があるので、それは別の機会にでも)、あの内容の推薦状を見せられたら、様々な「審査」のスタート地点ですでに差がつくのは当然だと思う。

 この話、もう少し続きがあるので、次回にでも(本当は、ひとの書類でなく、自分の書類をもっとべきだけど……(。_・☆\ ベキバキ)


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