a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

ハイデガー、デリダ、ラクーラバルト

2005年10月11日 | 読書
 一応社会学を専門としていて、哲学は専門ではない私だが、

 わけあって(実際は、「気が向いて」と同義なのだが)、ラクーラバルトのハイデガー論である『政治という虚構?ハイデガー芸術そして政治』を読んでいる。まだ読了していないのだが、そして、読了前に訳者後書きを読んでしまったのだが(;^_^A アセアセ…、この時点での感想を。というか、訳者後書きの感想ですが……。

 この邦訳書は、浅利誠氏によるものなのだが、この浅利氏、(この翻訳の時点で)仏滞在歴が15年を超えているため(というか、あちらに住んでいるため)、ラクーラバルト、そしてデリダのハイデガー論を巡ってたたかわされた論争をリアルタイムで追っていた模様。それも、何らかの文章というかたちではなく、コロックやシンポジウム、そしてデリダ主催のセミナーにおける彼らの発言に依拠して、この著作のあとがきは書かれているため、ハイデガー論争を巡る背景、そしてその経過についても、なるほど非常に興味深く書かれているのが、非常に印象的だった。近くから見てきた人でなければわからないデリダとラクーラバルトの違いを、あるいは彼が独自に設定した原著者との対談、そしてそこにおける近しい人からでなければ出来ない質問も、彼が関わってこそ可能になったものと思われる。

 例えば、結局はラクーラバルトの立場がヨーロッパ中心主義に至るかもしれないという点に、デリダは距離感を感じていたという指摘、さらにはこの点について、浅利氏は、「私には、このデリダの批判に対して、ラクー‐ラバルトがその批判を受け入れつつ、自分はあくまでも西洋人として西洋を語り続けるであろう、と返答するのではないかと思われる」と推察している。これはあくまで浅利氏の推察なのだが、私には非常に鋭い指摘であるように思われる。。

 仏に留学していたとき、一度だけラクーラバルトの講演を聴いたことがあるのだが、そこで彼はハイデガーの優れた点として、その解釈の鋭さをあげ、またハイデガーによる「ラテン的なものの排除」にも賛同を示していた(と私は解釈した)。このギリシャ的な起源への遡行は、浅利氏の指摘とも重なり合うように思われる(ただし、このギリシャ的なものの称揚はニーチェ以来の基本テーマなのだが)。

 できれば浅利さん自身のデリダ論を読みたい気がするのだが、それは無理なのだろうか?

 いずれにしても、この著作、そのあとがきだけでも読む価値があるのは間違いない。

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