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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

日本社会におけるマイノリティーとhouse keeping:『歴史としての戦後日本」(その4-3)

2005年06月11日 | 理論
 私にとって興味深いのは、著者達のよって立つ価値観と日本社会のそれと思われるものの「差」である。先の引用文の中で、彼らは、house keeping(家事)や、OLが職場で担う役割を、些末な役割と述べ、また、他の場所では、マイノリティー問題(アイヌや在日韓国人・朝鮮人)、そして沖縄問題etcなどを非常に重要な問題だと述べている。
 おそらく日本社会を内部から見るわれわれは、逆のことを考えるだろう。つまり、マイノリティー問題については、「たかだか全人口中の数%に満たない人々の問題にすぎない」と考え、逆に、家事については「すべての人間にとって不可欠な仕事」であり、OLについては「雑用であっても日々の仕事において必要なこと、それを支える職務は会社全体にとって不可欠な問題」と考えている、と。
 こうした「日本的」な見方に対する反論として、おそらく著者達は次のように主張するであろう。例えば、第一に、マイノリティーの問題とは%の問題ではなく、原理の問題であると。つまり、一人の個人が社会生活を営む上でぶつかる差別や障害は、すべての人間にとって重要な問題である。一人の人間が十全な社会生活をおくれないということ、この問題は小さな問題ではなく、社会全体を貫く原理の問題であると。これに対して、家事やOLが担う職務については、「家事とは、すべての人間、母親のみではなく父親、さらに独身の人間も担わねばならない仕事であり、それを女性という性差を理由に、特定の人間に押しつけるのは許されることではない」と、このように反論可能なように思われる。家事やOLなどを相対的に低く見る視点は、階級格差が明白な欧米社会の特徴のように思われる。

 こうした見解の差異は、おそらく、社会観の差異に起因するものと考えることが出来よう。

 つまり、日本社会は、社会全体が「うまく機能する」ということを重視し、その視点から、社会全体の機能を支えている基礎として、母親業やOL的職務を評価するのである。この視点からすると、たとえ正当な主張だとしても、一部の人間が自己の権利を主張することで、社会全体を機能不全に陥れることなど、許されることではないことになる(例えば沖縄の基地問題)。これに対して、マイノリティーの正当な権利要求によって社会の機能不全が起こったとしても、その権利要求が正当なものであるならば、機能不全の責任は社会の側にこそある、と考えるのが、欧米社会の見方であろう。

 この著者達もまた、こうした価値観を背景としているように思われる。つまり、彼らにとって、社会と個人は互いに独立したものであって、社会全体が個人に優越するとは考えていないのである。そしておそらく日本は逆で、社会全体は個人の権利に優越すると、おそらく思っているのであろう(こうした見解は、実は、あまりに単純すぎる「整理」で、実際の現実を見てみると、欧米社会にも多様な現実があるし、それは日本もまた同様である。この問題については別の機会で)。
 著者達の視点をして、「そうした差異を考慮せずに、一方的に日本社会を断じている」と批判することも可能だが、そうした批判をすることは同時に、「日本社会は個が確立していない」ことを図らずも証明してしまうだろう。

 いずれにしても、こうした社会観の差異を、二つの見解の背景に見るとき私は、ダブルバインドに駆られてしまう。つまり、「独立した個人が確立してない」現状を「文化的特殊」などと開き直ることもできず、他方でそうした現状を批判して自分があたかも欧的視点に立っているかのように僭称する事も出来ずにいる……。



 まあ、日本ってまだ発展途上国なのねヽ(´・`)ノ フッ…(笑)と黄昏れてしまうのでした(苦笑)。

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