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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

ウェーバー、ジェイムソン、バリバール、ヨーロッパ―消滅する媒介として

2007年06月10日 | 読書
 エントリーには大仰なタイトルをつけてしまったが、それほど大した話ではないのでそのつもりで。

ヨーロッパ、アメリカ、戦争 ヨーロッパの媒介について

平凡社

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 この本についての話の続き。

 この著作の中で、バリバールは、「ヨーロッパのあり方」(正確には「あるべき姿」)を「消滅する媒介者」として定義している。この「消滅する媒介者」という概念を、バリバールは、ジェイムソンのウェーバー論から借用しているのだが、この著作の中で「ある学生」からこの論稿を読むことを勧められたとバリバールが述べているこの「ある学生」が、訳者の大中氏のことだと思われる(この本の原書が出版される以前に、彼よりこのエピソードは聞いていた)。

 ウェーバーが分析する近代化の過程(と言っても、この場合は、ヨーロッパのそれ)においてプロテスタンティズムの倫理が果たす「世俗的機能」は、まさに資本主義の成立を媒介する者であり同時にその中に自らの存在を消滅させる者なのであるという。
 そして、「世界を変革する」までには行かなくとも、そうした方向性において、ヨーロッパはそうした「消滅する媒介者」の役割を担うことが出来るという。この場合、「消滅する」というのは、例えば「ヨーロッパの統一言語は『翻訳』である」といった言葉が引かれ、あくまでヨーロッパは確定的なアイデンティティーを持つ者ではなく、翻訳的な存在(翻訳の集合体)になるであろうし、そうした存在にとどまるというわけです。そうした意味においてまた、ヨーロッパは世界の媒介者(同時にそれは消滅する運命を持っている)たり得るだろうと言うのがバリバールの見解。

 たしかにヨーロッパが果たすであろう「媒介」の役割は存在するだろうし、重要だと思う。他方で、バリバールの見解を「理念的」と批判する「現実政治」の立場もあるだろう――ただ、私の見るところ、そうした「現実的な国際政治」は、実のところ、国家あるいは政府という限定された諸機関が相互に行う「交渉」でしかなく、要は「外交」という範囲においてしか意味を成さないだろうが……。言い方を変えれば、例えばロンドンで起きた「同時爆弾テロ」は、「政府間の外交交渉」で防ぐことの出来るものではない(少なくともその予防能力は限定的なものにとどまらざるを得ないだろう)。こうした自らの「有効範囲」を見定めずして、自らを「現実的」、バリバールのような議論をして「非現実的」あるいは「理念的」とかたづけるのは滑稽な結果をしか招かないであろう。

 しかしもう一方で、ヨーロッパがバリバールの言うような「消滅する媒介者」たり得るか? という疑問は、今だのこり続ける。例えば、モランはある文章(未邦訳)で、自分たちの世代にとって「ヨーロッパ」とはまず「ナチスのスローガン」であったと述べている。ちなみに、最近Amazon.frで注文したのだが、モランにはCulture et barbarie européennes:ヨーロッパの文化と野蛮という著作がある(なお、先述のモランの言葉が述べられているのは別の著作)。
 無論、これは、モランが欧に関して自己反省的で、バリバールがそれに無頓着であると言うことではない。世代の違いもあるのだろうが(モランはユダヤ系でレジスタンスの世代。ただしバリバールもまたユダヤの血筋を引くらしいが、世代としては68年の世代)、バリバールがヨーロッパと言うとき、それは様々な移民を含み(現在のパリがその良い例である)、そうした多文化の総体としての姿である。

 ただ他方で、ナチス的な動きが、ヨーロッパの内部で、そして仏に話を移せば、ナショナリズムをメディアを通してマニピュレートしつつ、またトルコのEU加盟へのノンを明確にしつつ大統領になったサルコジを考えるなら、モランのような警戒を怠るべきではないように思われる――そして、サルコは自らをナポレオンに喩えているという:ナポレオンにおいてもまた「ヨーロッパの統一」は、自らのスローガンであった(これはあまりにも偶然の一致がすぎるが故に、そこに内的因果関係を見ることは慎まねばならないが)。ちなみに、あの背の低さも似ているかも――と、これはサルコが嫌いな仏関係者への冗談(笑)。
 ただ、他方で、報道を聞く限りだと、現在のトルコはEUに入らなくとも経済的にやってゆけるかもしれないという予測がたつぐらいに好況のようだが。そして、他方で、世俗勢力よりも、穏健的とはいえイスラム教と関連の強い政治勢力が強いのが現状のようだが。

 それからもう一つ。

 翻訳性=多言語性を、ヨーロッパの特徴とバリバールは捉えているが、ベルギーやスイスなどは、多言語の文化圏を内部に抱えつつ、「統一的な国家」を形成している。そう考えると、翻訳性や多言語性は、排外的な国家やアイデンティティーを回避する必要条件ではないであろう。ただ、ベルギーについて言うと、微妙な立場や問題があるのだが。いずれにしても、そう考えるならば、やはりバリバールもまた「仏的」な問題設定を持つのかもしれない――無論、そのことがそれ自体で悪いと私は思わないのだが(西川長夫先生はそれを問題視するだろうが)。


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